
『綴方教室』(つづりかたきょうしつ)は、昭和初期の東京の下町に暮らすブリキ職人一家の生活をありのままに、葛飾区立本田立石尋常小学校在学の豊田正子が綴り、小学校教師大木顕一郎の指導・編集・解説で出版された文集でした。豊田正子は、小学校3年生頃より、教師の指導で作文(綴方)を児童雑誌『赤い鳥』に続けて投稿して綴方作品欄に多数入選し、編者の鈴木三重吉より高い評価を得ます。
そこで、教師の大木顕一郎が編集して、その26篇の作文(綴方)を中央公論社より出版しましたが、当時の大衆の生活を素直な子供らしい視点で描いたことが話題になり、大ベストセラーとなりました。その後、1938年(昭和13)に新築地劇団が舞台化、また、東宝より山本嘉次郎監督で映画化され、評判になります。
続編として、『続綴方教室』(1939年)、『粘土のお面』(1941年)も刊行されました。記録文学の名作とされ、戦後の生活綴方運動にも影響を与えています。
そこで、教師の大木顕一郎が編集して、その26篇の作文(綴方)を中央公論社より出版しましたが、当時の大衆の生活を素直な子供らしい視点で描いたことが話題になり、大ベストセラーとなりました。その後、1938年(昭和13)に新築地劇団が舞台化、また、東宝より山本嘉次郎監督で映画化され、評判になります。
続編として、『続綴方教室』(1939年)、『粘土のお面』(1941年)も刊行されました。記録文学の名作とされ、戦後の生活綴方運動にも影響を与えています。
〇生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは?
大正時代~昭和時代前期にかけて成立し、弾圧されながらも太平洋戦争中も活動を継続、さらに戦後にも復活した、作文(綴方)によって教育全体の改革をはかろうとする民間教育運動です。大正時代初期 芦田恵之助らが「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)提唱し実践、1918年(大正7)に、鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、「ありのまま綴方」の文章表現指導運動が推進され、自然主義文学やプロレタリア文学なども関わって、前駆となりました。
その中で、1929年(昭和4)10月に、小砂丘忠義(1897―1937年)らによって雑誌『綴方生活』が創刊され、翌年10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方が示されます。1934年(昭和9)に、東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始され、1935年(昭和10)には、百田宗治らが『工程』を創刊するなどして広がりました。
しかし、1940年(昭和15)に国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断され、さらに、1940~42年(昭和15~17)に、いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及び衰退します。
太平洋戦争後は復活して、1950年(昭和25)に、「日本綴方の会」が誕生、翌年に国分一太郎著『新しい生活綴方』や 無着成恭編『山びこ学校』が刊行されて注目されます。その後、「日本綴方の会」は「日本作文の会」と改称し、現在まで続いてきました。
その中で、1929年(昭和4)10月に、小砂丘忠義(1897―1937年)らによって雑誌『綴方生活』が創刊され、翌年10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方が示されます。1934年(昭和9)に、東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始され、1935年(昭和10)には、百田宗治らが『工程』を創刊するなどして広がりました。
しかし、1940年(昭和15)に国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断され、さらに、1940~42年(昭和15~17)に、いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及び衰退します。
太平洋戦争後は復活して、1950年(昭和25)に、「日本綴方の会」が誕生、翌年に国分一太郎著『新しい生活綴方』や 無着成恭編『山びこ学校』が刊行されて注目されます。その後、「日本綴方の会」は「日本作文の会」と改称し、現在まで続いてきました。
☆生活綴方運動関係略年表
・大正時代初期 芦田恵之助らが「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)提唱し実践する
・1918年(大正7) 鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、「ありのまま綴方」の文章表現指導運動が推進される
・1929年(昭和4)10月 小砂丘忠義(1897―1937)らによって雑誌『綴方生活』が創刊される
・1930年(昭和5) 雑誌『綴方生活』10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方を示す
・1934年(昭和9) 東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始される
・1935年(昭和10) 百田宗治らが『工程』を創刊する
・1937年(昭和12)8月3日 大木顕一郎の指導・編集・解説で、『綴方教室』(中央公論社)が刊行される
・1938年(昭和13) 『綴方教室』が山本嘉次郎監督で東宝より映画化される
・1939年(昭和14) 大木顕一郎の指導・編集・解説で、豊田正子著『続綴方教室』(中央公論社)が刊行される
・1940年(昭和15) 国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断される
・1941年(昭和16) 豊田正子著『粘土のお面』(中央公論社)が刊行される
・1940~42年(昭和15~17) いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及ぶ
・1950年(昭和25)7月1日 「日本綴方の会」が誕生する
・1951年(昭和26)2月28日 国分一太郎著『新しい生活綴方』が刊行される
・1951年(昭和26)3月 無着成恭編『山びこ学校』が刊行される
・1951年(昭和26) 「日本綴方の会」が「日本作文の会」と改称する