ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年07月

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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、村上駅~鼠ケ関駅間 (41.6km) の延伸開業により、羽越本線が全通し、敦賀駅~青森駅間の日本海縦貫線が完成した日です。
 羽越本線(うえつほんせん)は、日本海岸に沿って、新潟、山形、秋田の各県を縦貫する幹線で、国鉄の分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)が管理してきました。当初から国鉄線として新潟側(信越線→村上線)および山形側(陸羽西線)・秋田側(奥羽北線)からそれぞれ建設を開始し、まず新潟側(信越線→村上線)は、1912年(大正元)9月2日に新津駅~新発田駅間が開通、山形側(酒田線→陸羽西線)は、1918年(大正7)9月21日に余目駅~鶴岡仮駅間が開通、秋田側(羽越北線)は、1920年(大正9)2月22日に、秋田駅~道川駅間が開通します。
 その後、それぞれが順次延伸開業していき、1924年(大正13)7月31日の村上駅~鼠ケ関駅間の開通により、新津駅~秋田駅間が全通して羽越線となり、敦賀駅~青森駅間の日本海縦貫線が完成しました。そして、1925年(大正14)11月20日に、支線である赤谷線の開業に伴い羽越本線に改称されています。
 複線化工事も進められ、1957年(昭和32)からその区間を延伸させましたが、まだ一部に単線区間が残されてきました。電化工事は、1969年(昭和44)に国鉄理事会にて新津駅~秋田駅間の電化が決定、1972年(昭和47)8月5日に、新津駅~村上駅間は直流1,500Vで、村上駅~秋田駅間は交流20,000V 50Hzで、全線電化が完成しています。
 日本国有鉄道の路線でしたが、1987年(昭和62)4月1日の分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)に所属、支線である酒田駅~酒田港駅間は日本貨物鉄道(JR貨物)に所属してきました。全線の営業キロは271.7km(支線含むと274.4km)に及び、日本海沿いに豪雪地帯を通っているため、沿線には防雪施設が多くあります。
 かつては、寝台特急「日本海」(大阪駅~青森駅間)、寝台特急「あけぼの」(上野駅~青森駅間)、寝台特急「トワイライトエクスプレス」(大阪駅~札幌駅間)も定期運転されていましたが、2015年(平成27)までになくなりました。

〇羽越本線関係略年表

・1912年(大正元)9月2日:新津駅~新発田駅間 (26.0km) が信越線として開業、水原駅・天王新田駅(現在の月岡駅)・新発田駅が開業する
・1914年(大正3)6月1日:新発田駅~中条駅間 (13.1km) が村上線として延伸開業。信越線新津駅~新発田駅間を編入して新津駅 - 中条駅が村上線となる
・1914年(大正3)11月1日:中条駅~村上駅間 (20.3km) が延伸開業する
・1918年(大正7)9月21日:余目駅~鶴岡仮駅間 (13.3km) が陸羽西線として延伸開業する
・1919年(大正8)7月6日:鶴岡仮駅~鶴岡駅間 (1.8km) が延伸開業する
・1919年(大正8)12月5日:鶴岡駅~羽前大山駅間 (6.0km) が延伸開業する
・1922年(大正11)5月22日:羽前大山駅~三瀬駅間 (10.2km) が延伸開業する
・1923年(大正12)3月18日:三瀬駅~温海駅間 (13.4km) が延伸開業する
・1923年(大正12)11月23日:温海駅~鼠ケ関駅間 (8.8km) が延伸開業する
・1914年(大正3)12月24日:酒田線余目駅~酒田駅間 (12.2km) が延伸開業する
・1915年(大正4)4月25日:酒田駅~最上川駅間 (2.7km) の貨物支線が開業する
・1917年(大正6)11月1日:新庄駅~酒田駅間と貨物支線酒田駅~最上川駅間が陸羽西線に改称する
・1919年(大正8)12月5日:酒田駅~遊佐駅間 (12.2km) が延伸開業する
・1920年(大正9)7月20日:遊佐駅~吹浦間 (7.0km) が延伸開業する
・1921年(大正10)11月15日:吹浦駅~象潟駅間 (17.3km) が延伸開業する
・1922年(大正11)6月30日:象潟駅~羽後本荘駅間 (25.5km) が延伸開業する
・1922年(大正11)10月16日:羽後本荘駅~羽後岩谷駅間 (7.1km) が延伸開業する
・1920年(大正9)2月22日:秋田駅~道川駅間 (19.9km) が羽越北線として開業する
・1920年(大正9)7月30日:道川駅~羽後亀田駅間 (8.1km) が延伸開業する
・1924年(大正13)4月20日:羽後亀田駅~羽後岩谷駅間 (7.7km) が延伸開業、陸羽西線鼠ケ関駅~羽後岩谷駅間を編入して秋田駅~鼠ケ関駅が羽越線に改称する
・1924年(大正13)7月31日 村上駅~鼠ケ関駅間 (41.6km) が延伸開業、村上線を羽越線に編入して新津駅~秋田駅間・酒田駅~最上川駅間が羽越線として全通する
・1925年(大正14)11月20日:支線である赤谷線の開業に伴い羽越本線に改称する
・1957年(昭和32)9月29日:余目駅~北余目信号場間が複線化する
・1960年(昭和35)10月1日:北余目信号場駅~砂越駅間が複線化する
・1961年(昭和36)10月1日:大阪駅~青森駅間(北陸本線・信越本線・羽越本線・奥羽本線経由)で特急「白鳥」が運転開始する(羽越線を通る初めての特急列車)
・1962年(昭和37)7月20日:砂越駅~東酒田駅間が複線化する
・1962年(昭和37)11月30日:東酒田駅~酒田駅間が複線化する
・1965年(昭和40)9月1日:新川信号場駅~平木田間が複線化する
・1966年(昭和41)8月9日:中条駅~新川信号場間が複線化する
・1966年(昭和41)9月22日:矢引信号場駅~羽前水沢間が複線化する
・1967年(昭和42)9月21日:道川駅~下浜駅間が複線化する
・1967年(昭和42)10月14日:村上駅~間島駅間が複線化する
・1967年(昭和42)10月17日:三瀬駅~矢引信号場間が複線化する
・1967年(昭和42)12月1日:加治駅~金塚間が複線化する
・1968年(昭和43)8月30日:越後早川駅~桑川駅間が複線化する
・1968年(昭和43)9月5日:羽後本荘駅~羽後岩谷駅間が複線化する
・1968年(昭和43)9月13日:酒田駅~本楯駅間が複線化する
・1968年(昭和43)9月17日:新発田駅~加治駅間が複線化する
・1968年(昭和43)9月20日:越後寒川駅~勝木駅間が複線化する
・1968年(昭和43)10月1日:大阪駅~青森駅間(北陸本線・信越本線・羽越本線・奥羽本線経由)で寝台特急「日本海」が運転開始する(羽越線初のブルートレイン)
・1969年(昭和44)7月21日:国鉄理事会にて新津駅~秋田駅間の電化が決定する
・1969年(昭和44)9月17日:遊佐駅~吹浦駅間が複線化する
・1969年(昭和44)9月19日:鼠ケ関駅~小岩川駅間が複線化する
・1969年(昭和44)10月1日:上野駅~秋田駅間(上越線・羽越本線経由)で特急「いなほ」が運転開始する(東京とを結ぶ初めての特急列車)
・1970年(昭和45)3月20日:村上にて新津駅~秋田駅間および白新線新発田駅~新潟駅間の電化工事が起工する
・1970年(昭和45)9月29日:温海駅~五十川駅間が複線化する
・1972年(昭和47)6月22日:西目駅~羽後本荘駅間が複線化する
・1972年(昭和47)7月11日:西袋駅~余目駅間が複線化する
・1972年(昭和47)7月20日:平木田駅~坂町駅間が複線化する
・1972年(昭和47)8月5日:新津駅 - 村上駅間が直流1500Vで、村上駅~秋田駅間が交流50Hz・20kVで電化される
・1972年(昭和47)9月1日:新津駅~酒田駅間(旧新潟鉄道管理局内)の営業近代化が実施される(主要駅以外での貨物駅・荷物取扱廃止や駅員無配置化など)
・1972年(昭和47)9月19日:羽後岩谷駅~折渡駅間が複線化する
・1972年(昭和47)9月22日:金浦駅~仁賀保駅間が複線化する
・1972年(昭和47)10月2日:電化完了に伴い気動車で運転していた特急「白鳥」「いなほ」が電車化。同時に蒸気機関車での定期運用が終了、CTC の本使用開始する
・1974年(昭和49)9月3日:藤島駅~西袋駅間が複線化する
・1974年(昭和49)9月25日:羽前水沢駅~羽前大山駅間が複線化する
・1976年(昭和51)7月16日:坂町駅~平林駅間が複線化する
・1976年(昭和51)9月8日:府屋駅~鼠ケ関駅間が複線化する
・1977年(昭和52)10月18日:五十川駅~小波渡駅間が複線化する
・1978年(昭和53)9月26日:小波渡駅~三瀬駅間が複線化する
・1982年(昭和57)11月15日:上越新幹線大宮駅~新潟駅間が開業し、羽越線内の輸送形態も大きく変更される
・1987年(昭和62)4月1日:国鉄分割民営化にともない東日本旅客鉄道が新津駅~秋田間を、日本貨物鉄道が酒田駅~酒田港駅間を第1種鉄道事業者として継承、日本貨物鉄道が新津駅~秋田駅間の第2種鉄道事業者となる
・1993年(平成5)3月1日:本楯駅~秋田駅間に自動進路制御装置 (PRC) が導入される
・1996年(平成8)12月5日:新津駅~本楯駅間に PRC が導入される
・2001年(平成13)3月3日:大阪駅~青森駅間の特急「白鳥」が廃止。系統分割により羽越本線内は新潟駅~青森駅間の「いなほ」になる
・2005年(平成17)12月25日:砂越駅~北余目駅間で特急「いなほ」14号が脱線する事故(JR羽越本線脱線事故)が発生、死者5人、負傷者33人を出す
・2019年(令和元)10月5日:観光列車「海里」運行開始する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)民俗学者柳田國男の誕生日詳細
1948年(昭和23)「政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される詳細
1952年(昭和27)警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される詳細
1986年(昭和61)外交官・在リトアニア日本領事代理杉原千畝の命日詳細
2006年(平成18)小説家吉村昭の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通した日です。
 北陸自動車道(ほくりくじどうしゃどう)は、新潟県新潟市江南区の新潟中央ジャンクション (JCT) から滋賀県米原市の米原JCTへ至る、全長476.5km(国内3位の長さ)の高速道路(高速自動車国道)で、全線を日本道路公団が建設しました。2005年(平成17)10月1日の道路関係四公団民営化後は、朝日インターチェンジ (IC) を境に東側を東日本高速道路(NEXCO東日本)が、西側を中日本高速道路(NEXCO中日本)が管理しています。
 1961年(昭和36)に新潟市~大津市が路線の基準として定められ、1966年(昭和41)には新潟市~滋賀県坂田郡米原町(現在の米原市)が、国土開発幹線自動車道の予定路線とされ、富山~武生間より着工されました。そして、1972年(昭和47)10月18日に、金沢西IC~小松ICの23.2kmが初めて開通し、順次開通区間が延ばされていきます。
 1988年(昭和63)に朝日~名立谷浜間の開通により、米原~新潟間が繋がり、第1回目の全線開通となりました。しかし、その後部分的に路線を改編し、1997年(平成9)11月13日の新潟亀田~新潟空港間の開通を以って、北陸自動車道の全通とされています。
 それから、2002年(平成14)の新潟空港以北の路線の開業に伴い、新潟中央JCT以北を日本海東北自動車道の区間と改められました。現在、新潟中央JCTで日本海東北自動車道と磐越自動車道、長岡JCTで関越自動車道、上越JCTで上信越自動車道、小矢部砺波JCTで東海北陸自動車道と能越自動車道、福井北JCTで中部縦貫自動車道、敦賀JCTで舞鶴若狭自動車道、米原JCTで名神高速道路に接続しています。
 この完成によって、北陸地方の主要都市相互および阪神・中京圏との時間距離を短縮して諸産業の振興に大きな役割を果たし、観光面でもアッピールして、北陸経済圏の拡大に寄与してきました。

〇北陸自動車道関係略年表

・1961年(昭和36)11月15日 新潟市~大津市が路線の基準として定められる
・1966年(昭和41)7月1日 新潟市~滋賀県坂田郡米原町(現:米原市)が国土開発幹線自動車道の予定路線とされる
・1972年(昭和47)10月18日 金沢西IC~小松IC開通する
・1973年(昭和48)10月16日 小杉IC~砺波IC開通する
・1973年(昭和48)10月17日 小松IC~丸岡IC開通する
・1974年(昭和49)10月29日 砺波IC~金沢東IC開通する
・1975年(昭和50)9月9日 丸岡IC~福井IC開通する
・1975年(昭和50)10月4日 富山IC~小杉IC開通する
・1976年(昭和51)11月2日 福井IC~武生IC開通する
・1977年(昭和52)12月8日 武生IC~敦賀IC開通(ただし今庄IC - 敦賀IC間は暫定2車線)する
・1978年(昭和53)9月21日 新潟黒埼IC(当時)~長岡ICが開通する
・1978年(昭和53)10月12日 金沢東IC~金沢西IC開通する
・1980年(昭和55)4月7日 敦賀IC~米原JCT開通する
・1980年(昭和55)6月13日 今庄IC~敦賀ICの4車線化工事完了する
・1980年(昭和55)9月27日 長岡JCT~西山IC開通、同時に長岡JCT - 長岡ICを関越自動車道に改称する
・1980年(昭和55)12月19日 滑川IC~富山IC開通する
・1980年(昭和55)10月29日 西山IC~柏崎IC開通する
・1982年(昭和57)11月17日 柏崎IC~米山IC開通、黒埼PA開設する
・1983年(昭和58)11月9日 米山IC~上越IC開通する
・1983年(昭和58)12月13日 朝日IC~滑川IC開通する
・1987年(昭和62)7月21日 名立谷浜IC~上越IC開通(暫定2車線)する
・1988年(昭和63)7月20日 朝日IC~名立谷浜IC開通(暫定2車線)し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する
・1994年(平成6)7月28日 新潟西IC~新潟亀田IC開通と同時に磐越自動車道と接続する
・1996年(平成8)3月28日 小矢部砺波JCTで能越自動車道と接続する
・1997年(平成9)11月13日 新潟亀田IC~新潟空港IC開通により、全線開通する
・1999年(平成11)10月30日 上越JCT開通により上信越道と接続、同時に名立谷浜IC~上越IC4車線化する
・2000年(平成12)4月25日 能生IC~名立谷浜IC4車線化する
・2000年(平成12)9月5日 越中境PA~親不知IC4車線化する
・2000年(平成12)9月19日 糸魚川IC~能生IC4車線化する
・2000年(平成12)10月3日 親不知IC~糸魚川IC4車線化により、全線が4車線で完成する
・2002年(平成14)5月26日 日本海東北自動車道新潟空港IC~聖籠新発田IC開通と同時に新潟中央JCT ~新潟空港IC間を北陸自動車道から日本海東北自動車道に改称する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
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Taft-Katsura01
 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、「桂・タフト協定」が締結され、アメリカは日本の大韓帝国指導権を承認し、日本はアメリカの植民地・フィリピンへの不干渉を認めた日です。
 「桂・タフト協定」(かつら・たふときょうてい)は、東京において、日本の桂太郎首相とアメリカ大統領特使 W.タフト陸軍長官との間で取りかわされた秘密の覚書でした。1905年(明治38)7月下旬に、タフト陸軍長官が、フィリピン視察の途中、来日した時に、日本政府はアメリカの親日感を強めようと歓待しましたが、その時に桂太郎首相と会談し、両者が諒解に達したものです。
 その内容は、①フィリピンをアメリカのような親日的な国に統治してもらうことは日本にとっても利益であり、日本はフィリピンに対していかなる侵略的意図をも持たない。②極東の全般的平和の維持にとっては、日本、アメリカ、英国の三国政府の相互諒解を達成することが、最善であり、事実上唯一の手段である。③アメリカは、日本が韓国に宗主権を確立することが、日露戦争の論理的帰結であり、極東の平和に直接に貢献すると認める、というものでした。これは、第2回日英同盟、ポーツマス条約などと併せ、韓国保護国化、日韓併合への重要な布石となっていきます。
 以下に、「桂・タフト協定」の英語原文と、筆者による日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「桂・タフト協定」 1905年(明治38)7月29日締結

The Taft - Katsura Agreement

First, in speaking of some pro-Russians in America who would have the public believe that the victory of Japan would be a certain prelude to her aggression in the direction of the Philippine Islands, Secretary Taft observed that Japan’s only interest in the Philippines would be, in his opinion, to have these islands governed by a strong and friendly nation like the United States,…Count Katsura confirmed in the strongest terms the correctness of his views on the point and positively stated that Japan does not harbor any aggressive designs whatever on the Philippines....

Second, Count Katsura observed that the maintenance of general peace in the extreme East forms the fundamental principle of Japan’s international policy. Such being the case,… the best, and in fact the only, means for accomplishing the above object would be to form good understanding between the three governments of Japan, the United States and Great Britain....

Third, in regard to the Korean question Count Katsura observed that Korea being the direct cause of our war with Russia, it is a matter of absolute importance to Japan that a complete solution of the peninsula question should be made as the logical consequence of the war. If left to herself after the war, Korea will certainly draw back to her habit of improvidently entering into any agreements or treaties with other powers, thus resuscitating the same international complications as existed before the war. In view of the foregoing circumstances, Japan feels absolutely constrained to take some definite step with a view to precluding the possibility of Korea falling back into her former condition and of placing us again under the necessity of entering upon another foreign war. Secretary Taft fully admitted the justness of the Count’s observations and remarked to the effect that, in his personal opinion, the establishment by Japanese troops of a suzerainty over Korea to the extent of requiring that Korea enter into no foreign treaties without the consent of Japan was the logical result of the present war and would directly contribute to permanent peace in the East. His judgment was that President Roosevelt would concur in his views in this regard, although he had no authority to give assurance of this....

Miscellaneous Letters of the Department of State, July, Part III, 1905.


<日本語訳>

桂・タフト協定

...桂伯爵とタフト長官は、7月27日の朝に長時間秘密厳守の会談を行った。...

第一に、タフト長官は、日本の勝利がフィリピン諸島方面への侵略のある種の前兆であると国民に信じ込ませようとするアメリカの親ロシア派について話す中で、フィリピンに対する日本の唯一の利益は、彼の意見では、これらの島々を米国のような強くて友好的な国によって統治させることであると述べた。...桂伯爵は、この点に関する彼の見解の正しさを最も強い言葉で確認し、日本はフィリピンに対してどのような侵略的意図も抱いていないと積極的に述べた。

第二に、桂伯爵は、極東における全般的な平和の維持が日本の国際政策の基本原則を形成していると指摘した。そのような場合、…上記の目的を達成するための最良の、そして実際に唯一の手段は、日本、米国、英国の3つの政府の間で十分な理解を形成することである。

第三に、朝鮮問題に関して、桂伯爵は、韓国がロシアとの戦争の直接の原因であると述べたが、戦争の論理的帰結として半島問題の完全な解決がなされるべきであることが日本にとって絶対的に重要な問題であると述べた。戦後、韓国自らに任せておけば、韓国は他の勢力との協定や条約を不用意に締結するという習慣に確実に引き戻され、戦前と同じ国際的な複雑さを復活させるであろう。以上のような状況に鑑み、日本は、韓国が元の状態に陥り、再び対外戦争に突入する必要に迫られる可能性を排除するため、何らかの明確な措置をとることを絶対に制約されていると感じている。タフト長官は、伯爵の見解の正当性を十分に認め、彼の個人的な意見では、韓国が日本の同意を得ることなく外国との条約を結ばないことを要求する程度まで、日本軍による韓国に対する宗主権の確立は現在の戦争の論理的帰結であり、東方の恒久的な平和に直接貢献するであろう旨述べた。彼の判断は、ルーズベルト大統領がこの点に関して彼の見解に同意するだろうというものだったが、彼にはこれを保証する権限はなかった。

国務省のその他の手紙、パートⅢ、1905年7月。

  ※英語原文から筆者が訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)「日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1957年(昭和32)「国際原子力機関憲章(IAEA憲章)」が発効し、国際原子力機関(略称:IAEA)が設立される詳細
1969年(昭和44)冶金学者・化学者村上武次郎の命日詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、青森大空襲において、焼失家屋18,045戸、被災者70,166人、死者1,018人、重軽傷者は255人を出した日です。
 青森大空襲(あおもりだいくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)7月28日午後10時37分から1時間11分間、アメリカ軍のB-29爆撃機62機により、青森県青森市中心部に対して行われた夜間空襲でした。この時、E48焼夷集束弾2,186発が投下され、市街地面積の88%を焼失、死者1,018人、重軽傷者は255人、焼失家屋18,045戸、被災者70,166人の大きな被害が出ます。
 人的被害が大きかったのは、「防空法」により、「逃げるな、火を消せ」が国策とされ、青森では、空襲の直前に「空襲を恐れて逃げた者は処罰する。7月28日までに自宅へ戻れ」と知事・市長が通告していて、その期限とされた日までに戻ってきた市民が犠牲になったためとされてきました。戦後は、戦災復興土地区画整理事業により中心市街地が整備され、県庁所在地として行政・商業・文化等機能が集積し、本州と北海道を結ぶ流通拠点として発展したとされます。

〇太平洋戦争下の主要な空襲一覧

<1942年(昭和17)>
・4月18日 東京、名古屋、神戸などが初空襲される(ドウリットル指揮の16機の米陸軍機B-25による)

<1944年(昭和19)>
・11月24日 B-29による初めての東京空襲が行われる

<1945年(昭和20)>
・1月19日 阪神地方へ初の本格的空襲が行われる
・3月10日 東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る
・3月12日 名古屋大空襲で中心街が焼失する(家屋25,734棟棟被災、105,093人罹災、死者519人、負傷者負傷者734人)
・3月13~14日 大阪へ初の大空襲が行われる
・3月17日 神戸大空襲が行われ神戸市西部が消失する(約65,000棟が全半焼、死者2,598人)
・3月19日 名古屋大空襲で名古屋駅が炎上する(家屋39,893棟被災、151,332人罹災、死者826人、負傷者2,728人)
・3月29日 北九州が空襲される
・4月4日 川崎の他鶴見・港北・神奈川・西各区が空襲を受ける(罹災戸数5,873戸、死者398人)
・4月13日 東京空襲(西部地域)が行われる
・4月15日 東京・横浜・川崎の空襲が行われる(罹災住宅5万2655戸、死者972人)
・5月14日 名古屋空襲で名古屋城が焼失する(家屋21,905棟被災、66,585人罹災、死者338人、負傷者783人)
・5月24日 東京へ250機来襲し、皇居が炎上する
・5月25~26日 東京空襲(山手地域)が行われる
・5月29日 京浜へ600機来襲し、川崎、横浜が被災(横浜大空襲)する(死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人)
・6月1日 大阪、尼崎等へ400機来襲する
・6月5日 兵庫県神戸市へ350機来襲する(西部の神戸市垂水区から東部の西宮市まで広範囲が爆撃される)
・6月7日 大阪周辺へ250機来襲する
・6月19~20日 静岡大空襲で旧静岡市の中心部が焼失する(焼失家屋26,891戸、被災者114,000人、死者1,952人)
・6月29日 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)
・7月9日 和歌山大空襲で和歌山城が焼失する(焼失家屋31,137戸、被災者113,548人、死者・行方不明者1,424人)
・7月10日 仙台空襲で市中心部が焼失する(焼失家屋11,933戸、被災者57,321人、死者・行方不明者1,000人以上)
・7月14~15日 北海道空襲で、米空母13隻から発進した艦載機により、北海道各地(釧路、根室、函館、帯広等)が爆撃され、青函連絡船の翔鳳丸など8隻が沈没する
・7月17日 沼津大空襲で沼津市の中心部が焼失する(焼失家屋9,523戸、重軽傷者505人、死者274人)
・7月28日 青森大空襲で青森市の中心部が焼失する(焼失家屋18,045戸、重軽傷者255人、死者1,018人)
・8月5日 B-29爆撃機92機が前橋市・高崎市を空襲し、死傷者1,323人が出る
・8月6日 B-29が広島に原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われる
・8月7日 愛知県の豊川海軍工廠が爆撃され女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人の死者を出す
・8月8日 福山大空襲で福山城が消失する(焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人、死者354人)
・8月9日 B-29が長崎にも原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)「太政官布告第272号(地租改正)」と付属の「地租改正条例」が公布される詳細
1907年(明治41)ロシアのサンクトペテルブルクにおいて、「日露漁業協約」が調印される詳細
1941年(昭和16)日本軍が南部仏印進駐を開始する詳細
1965年(昭和40)推理小説家江戸川乱歩の命日(乱歩忌)詳細
1989年(平成元)「緑の文明学会」・「社団法人日本公園緑地協会」が日本の都市公園100選を選ぶ詳細
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 今日は、室町時代の1471年(文明3)に、浄土真宗中興の祖・蓮如が越前に吉崎御坊を建てた日ですが、新暦では8月13日となります。
 吉崎御坊(よしざきごぼう)は、越前国吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)に、本願寺第8世の蓮如上人が創建した、浄土真宗(一向宗)布教の北陸の拠点でした。戦国大名朝倉敏景の帰依を受け、一山隆盛を極めましたが、1474年(文明6)に火災で本坊などを焼失し、さらに翌年の戦火によって、すべてを失って、蓮如上人は吉崎を退去することになります。
 その後、仮堂は建てられましたが、1506年(永正3)に、一向一揆勢は朝倉貞景と争って敗北し、廃坊となりました。江戸時代になって、本願寺派と大谷派が別院を山麓に建て、それぞれ吉崎御坊を称しています。
 山上の吉崎御坊跡は、1975年(昭和50)に国の史跡に指定され、公園として整備されていて、吉崎御坊跡の石碑が立ち、御坊の本堂跡、蓮如上人銅像(高村光雲作)、蓮如上人御腰掛石などが残されてきました。また、山麓には、本願寺維持財団が運営する「吉崎御坊蓮如上人記念館」があって、蓮如上人の足跡を学ぶことができます。

〇蓮如(れんにょ)とは?

 僧侶・浄土真宗中興の祖です。室町時代の1415年(応永22年2月25日)に、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院付近)で、本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれましたが、諱は兼寿と言いました。6歳のとき母に別れ、衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳で一宗再興の志をおこします。
 1431年(永享3)、17歳のとき中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学び、大和興福寺大乗院の門跡経覚について修学しました。次いで、大谷の草庵で宗義をきわめます。
 1447年(文安4)に父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝し、1449年(宝徳元)35歳のとき、父と共に北陸から関東・東北を巡化しました。1457年(長禄元)に、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎますが、比叡山延暦寺のねたみをかい、1465年(寛正6)には本願寺を破却されます。
 近江の金森、堅田、大津を転々とし、1468年(応仁2)から北陸・東国の諸国を巡錫し、1471年(文明3)には越前の吉崎に道場(吉崎御坊)を開いて住まいました。「御文(おふみ)」をしたためて、北陸一帯の教化に努め、一向宗教団を形成し、後に加賀一国は門徒領国化することになります。
 1475年(文明7)には吉崎を退去し、畿内に戻りましたが、この間に一向一揆が勃発をみました。1483年(文明15)には山城の山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成し、ここを拠点として本願寺教団の再興を成し遂げます。
 1489年(延徳元)に退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲ったのち、摂津石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まいました。また、著書として『正信偈大意』、『御文(御文章)』、『領解文』などを書きましたが、死に際し山科本願寺に帰参し、1499年(明応8年3月25日)に数え年85歳で亡くなっています。

☆吉崎御坊関係略年表

・1471年(文明3年5月) 浄土真宗中興の祖・蓮如が越前国吉崎へ下向する
・1471年(文明3年7月27日) 蓮如が越前国吉崎に吉崎御坊を創建する
・1474年(文明6年3月28日) 火災で焼失するも、その後再建する
・1475年(文明7年8月21日) 戦国の動乱で再び焼失、蓮如は吉崎を退去する
・1506年(永正3年) 朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1719年(享保4)幕臣・大名・老中田沼意次の誕生日(新暦9月11日)詳細
1835年(天保6)日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日)詳細
1940年(昭和15)大本営政府連絡会議において、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される詳細
1976年(昭和51)田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される詳細
1995年(平成7)人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通する詳細
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