
和学講談所(わがくこうだんしょ)は、塙保己一の建議により、江戸幕府の許可を得て、江戸麹町に300坪の用地を給せられ、創立された、古典の研究・校訂や正続群書類従・史料・武家名目抄などの編纂を目的とした学問所でした。1795年(寛政7)には、4ヶ所の町屋敷から年々の上納金50両を下付されて雑費に充当することになり、和学御用筋は林大学頭支配に入ることが定まり、官立に準ずる機関となります。
1805年(文化2)には、表六番町(現在の三番町24付近)の840坪の場所に移りました。国典の教授を行う他、門人の中山信名、屋代弘賢らと共に、以前から着手していた『群書類従』(正続1,680巻に及ぶ古文献の集大成)の収集校訂を続行、また宇多天皇即位より徳川家康就任に至る『史料』、武家の制度に関する『武家名目抄』などの編集に努めます。そのため、しばしば門人達を京都や伊勢などに派遣して古書を筆写させ、資料の収集に尽力しましたが、これらの書物は、数量的にも多く、学術的にも高い価値を有していました。
しかし、幕末の1863年(文久3)に、保己一の子忠宝が尊攘派によって暗殺されて編纂は停止されます。そして、明治維新となって、1868年(明治元)6月に廃止され、その史料、稿本類は明治政府の修史局に引き継がれました。
1805年(文化2)には、表六番町(現在の三番町24付近)の840坪の場所に移りました。国典の教授を行う他、門人の中山信名、屋代弘賢らと共に、以前から着手していた『群書類従』(正続1,680巻に及ぶ古文献の集大成)の収集校訂を続行、また宇多天皇即位より徳川家康就任に至る『史料』、武家の制度に関する『武家名目抄』などの編集に努めます。そのため、しばしば門人達を京都や伊勢などに派遣して古書を筆写させ、資料の収集に尽力しましたが、これらの書物は、数量的にも多く、学術的にも高い価値を有していました。
しかし、幕末の1863年(文久3)に、保己一の子忠宝が尊攘派によって暗殺されて編纂は停止されます。そして、明治維新となって、1868年(明治元)6月に廃止され、その史料、稿本類は明治政府の修史局に引き継がれました。
〇塙 保己一(はなわ ほきいち)とは?
江戸時代の国学者です。1746年(延享3年5月5日)に、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家の父・荻野宇兵衛、母・きよの長男として生まれましたが、幼名は寅之助(とらのすけ)と言いました。7歳で失明し、1757年(宝暦7)には、母きよが過労と心痛で亡くなります。
1760年(宝暦10)に、15歳で江戸に出て、17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めました。その後学才を見いだされ、国学・和歌を萩原宗固、漢学・神道を川島貴林、故実を山岡浚明、医学を品川の東禅寺の孝首座、和歌を閑院宮に学ぶこととなります。
1763年(宝暦13)に、18歳で盲官の一つである衆分となり、名を保木野一と改めました。1766年(明和3)に、父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅し、1769年(明和6)には、国学者賀茂真淵に入門しています。
1775年(安永4)には勾当に昇進し、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改めました。1779年(安永8)に34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起します。
1783年(天明3)に検校に昇進し、日野資枝、閑院宮典仁親王、外山光実の門に入り、堂上歌学を学びました。1786年(天明6)に『群書類従』の刊行を開始、1793年(寛政5)には江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進めます。
1819年(文政2)に『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手しました。1821年(文政4)には総検校に昇進しましたが、同年9月12日に江戸において、数え年76歳で亡くなっています。
尚、その遺業は続群書類従完成会による『続群書類従』の完結、『国史大系』による国史・律令の出版、東大史料編纂所による『大日本史料』の出版に引き継がれました。
1760年(宝暦10)に、15歳で江戸に出て、17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めました。その後学才を見いだされ、国学・和歌を萩原宗固、漢学・神道を川島貴林、故実を山岡浚明、医学を品川の東禅寺の孝首座、和歌を閑院宮に学ぶこととなります。
1763年(宝暦13)に、18歳で盲官の一つである衆分となり、名を保木野一と改めました。1766年(明和3)に、父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅し、1769年(明和6)には、国学者賀茂真淵に入門しています。
1775年(安永4)には勾当に昇進し、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改めました。1779年(安永8)に34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起します。
1783年(天明3)に検校に昇進し、日野資枝、閑院宮典仁親王、外山光実の門に入り、堂上歌学を学びました。1786年(天明6)に『群書類従』の刊行を開始、1793年(寛政5)には江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進めます。
1819年(文政2)に『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手しました。1821年(文政4)には総検校に昇進しましたが、同年9月12日に江戸において、数え年76歳で亡くなっています。
尚、その遺業は続群書類従完成会による『続群書類従』の完結、『国史大系』による国史・律令の出版、東大史料編纂所による『大日本史料』の出版に引き継がれました。
〇塙保己一の主要な著作
・『花咲松(はなさくまつ)』
・「螢蠅(けいよう)抄」
・「鶏林拾葉」
・『群書類従』の編纂
・『続群書類従』の編纂
・『史料』の編纂
・百科全書『武家名目(みょうもく)抄』の編纂
・『松山集』
☆塙保己一関係略年表(日付は旧暦です)
・1746年(延享3年5月5日) 武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家の父・荻野宇兵衛、母・きよの長男として生まれる
・1752年(宝暦2年) 7歳で失明する
・1757年(宝暦7年) 母きよが過労と心痛で亡くなる
・1760年(宝暦10年) 15歳で江戸に出る
・1762年(宝暦12年) 17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始める
・1763年(宝暦13年) 18歳で盲官の一つである衆分となる
・1766年(明和3年) 父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅する
・1769年(明和6年) 国学者賀茂真淵に入門する
・1775年(安永4年) 盲官の一つである勾当に昇進、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める
・1779年(安永8年) 34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起する
・1779年(安永8年) 北野天満宮に祈誓、『般若心経』百万巻読誦を発願する
・1783年(天明3年) 盲官の一つである検校に昇進する
・1784年(天明4年) 和歌を日野資枝に学ぶ
・1785年(天明5年) 40歳のとき、立原翠軒の推薦で水戸藩主徳川治保に謁見する
・1786年(天明6年) 『群書類従』の刊行を開始する
・1793年(寛政5年) 江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進める
・1795年(寛政7年) 盲人一座の総録職となる
・1805年(文化2年) 盲人一座十老となる
・1819年(文政2年) 『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手する
・1821年(文政4年2月) 盲官の一つである総検校に昇進する