
「経済安定十原則」(けいざいあんていじゅうげんそく)は、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が、日本経済の自立のためには財政の健全化等について、示したもので、正式には、Essentials of Economic Stabilization Programと言いました。日本側の中間安定路線を黙認するもので、7月20日に、政府は全く同内容の「経済安定十原則」を閣議決定しています。
その後、9月から従来のガリオア援助に加えて、エロアによる原材料輸入が開始されることになり、日本政府は,11月25日に「新経済政策大綱案」を、12月10日には「総合施策大綱案」を発表しました。しかし、これが実行に移される前の12月に、アメリカ政府は日本の激しいインフレを収束させ、単一為替レートが設定できるような条件を整えることが必要と判断し、連合国最高司令官総司令部(GHQ)を通して、強力なインフレ収束策である「経済安定九原則」(Nine-Part Interim Directive on Stabilization)が、日本政府 (吉田茂内閣) に指令されることとなります。
その後、9月から従来のガリオア援助に加えて、エロアによる原材料輸入が開始されることになり、日本政府は,11月25日に「新経済政策大綱案」を、12月10日には「総合施策大綱案」を発表しました。しかし、これが実行に移される前の12月に、アメリカ政府は日本の激しいインフレを収束させ、単一為替レートが設定できるような条件を整えることが必要と判断し、連合国最高司令官総司令部(GHQ)を通して、強力なインフレ収束策である「経済安定九原則」(Nine-Part Interim Directive on Stabilization)が、日本政府 (吉田茂内閣) に指令されることとなります。
〇「経済安定十原則」 1948年(昭和23)7月15日提示
以下のような事柄から成り立っていた。
①重要国内資源を開発し、生産を増強する。
②統制物資の割当配給制度に計画性を持たせ、これを強力に実施するとともに、闇市場の徹底的撲滅を図る。
③食糧供給制度を改善して、割当を増加する。
④公的価格の厳守を図り、違反者は即時処罰する。
⑤弾力性ある賃金安定策を早急に実施する。
⑥税収増加の計画を促進し、脱税者に対し戦後インフレーションとドッジ安定化政策-戦後期物価変動の計量分析ては、刑法上の訴追をもって厳重に取り締まる。
⑦公平の原則によって租税の再配分を行う。
⑧特別会計の赤字を組織的に減少させる。
⑨外国貿易の管理と行政事務を改善し、日本政府の適当な機関のもとに、外国為替管理を確立する。
⑩現在の資金統制を強化する。
〇経済安定九原則(けいざいあんていきゅうげんそく)とは?
昭和時代中期の1948年(昭和23)12月に、日本経済安定のために、アメリカ政府から連合国最高司令官総司令部(GHQ)を通して、日本政府 (吉田茂内閣) に指令された強力なインフレ収束策です。その内容は、①)総予算の均衡、②徴税強化、③信用膨張制限、④賃銀安定、⑤物価統制強化、⑥貿易統制改善と外為統制強化、⑦輸出増加のため資材割当改善、⑧重要国産品増産、⑨食料集荷改善を定めており、これらは単一為替レート設定の早期実現の不可欠の前提だとされました。
この当時の日本は、復興金融債の大半を日本銀行が引き受け、日本銀行券の増発によって蓄積された資金を重要産業に供給していましたので、生産回復より通貨の増発が優先し、相当のインフレを助長していたのです。そこで、政府はアメリカからの外資導入によって、なし崩し的にインフレ収束を図りましたが、うまくいかない状況となりました。
しかし、冷戦の激化によって、アメリカが対日占領政策を転換し、日本の経済復興に強い関心を示すに至ったことと、日本の激しいインフレを収束させ、単一為替レートが設定できるような条件を整えることが必要と判断し、この「経済安定9原則」の発表に至ったものです。これらの原則は、翌年のドッジ・ライン、シャウプ勧告に基づく税制改革に引継がれ、物価は急速に安定化の方向をたどり、1ドル=360円の単一為替レートが設定されるに至ったものの、重税や金詰りから不況の嵐が吹きまくり、大企業の合理化、中小企業の倒産が相次ぎ、庶民の暮らしは困窮が続くこととなりました。
この当時の日本は、復興金融債の大半を日本銀行が引き受け、日本銀行券の増発によって蓄積された資金を重要産業に供給していましたので、生産回復より通貨の増発が優先し、相当のインフレを助長していたのです。そこで、政府はアメリカからの外資導入によって、なし崩し的にインフレ収束を図りましたが、うまくいかない状況となりました。
しかし、冷戦の激化によって、アメリカが対日占領政策を転換し、日本の経済復興に強い関心を示すに至ったことと、日本の激しいインフレを収束させ、単一為替レートが設定できるような条件を整えることが必要と判断し、この「経済安定9原則」の発表に至ったものです。これらの原則は、翌年のドッジ・ライン、シャウプ勧告に基づく税制改革に引継がれ、物価は急速に安定化の方向をたどり、1ドル=360円の単一為替レートが設定されるに至ったものの、重税や金詰りから不況の嵐が吹きまくり、大企業の合理化、中小企業の倒産が相次ぎ、庶民の暮らしは困窮が続くこととなりました。
☆「経済安定九原則」 1948年(昭和23)12月付
(前文省略)
今回の経済復興計画がとくにめざすところは、
一、極力経費の節減をはかり、また必要であり、かつ適当なりと考えられる手 段を最大限度に講じてただちに総予算の均衡をはかること。
二、徴税計画を促進強化し、脱税者に対する刑事訴追を迅速広範にまた強力に 行うこと
三、信用の拡張は日本の経済復興に寄与するための計画に対するほかは厳重に 制限されていることを保障すること。
四、賃金安定実現のため効果的な計画を立てること。
五、現在の物価統制を強化し必要な場合はその範囲を拡張すること。
六、外国貿易統制事務を改善し、また現在の外国為替統制を強化し、これらの 機能を日本側期間に引継いで差支えなきにいたるように意を用いること。
七、とくに出来るだけ輸出を増加する見地より現在の資財割当配給制度を一そ う効果的に行うこと。
八、一切の重要国産原料、および製品の増産をはかること。
九、食糧集荷計画を一そう効果的に行うこと。
以上の計画は単一為替レートの設定に実現させる途を開くためにぜひとも実施されねばならぬものである。
『資料戦後二十年史』より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1878年(明治11) | 箱根の富士屋ホテルが外国人専用ホテルとして開業する | 詳細 |
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1948年(昭和23) | 「教育委員会法」(昭和23年法律170号)が公布・施行される | 詳細 |
1955年(昭和30) | 西ドイツのマイナウにおいて、核兵器の使用に反対する「マイナウ宣言」が発表される | 詳細 |