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 今日は、鎌倉時代の1221年(承久3)に、承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流された日ですが、新暦では8月2日となります。
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。
 翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されたものの、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。
 そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がりました。6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。
 6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されます。
 また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
 以下に、『吾妻鏡』第廿五巻の承久の乱の後鳥羽上皇遠流の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)とは?

 第82代とされる天皇で、以後三代にわたって、上皇となって院政を行なっています。平安時代末期の1180年(治承4年7月14日)に、京都において、高倉天皇の第四皇子(母・准后七条院藤原殖子)として生まれましたが、名は尊成 (たかひら) と言いました。1183年(寿永2)に、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れます。
 その後、後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、翌年、神器のないままに即位式が実施され、天皇が二人いる状態となりました。1185年(文治元年)に、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇も亡くなり、天皇重複は解消されます。
 1191年(建久2)に建久新制が宣下され、1192年(建久3)には、後白河法皇が亡くなり、天皇親政となりました。しかし、1198年(建久9)に土御門天皇に譲位し、上皇として以後三代にわたって院政を行なうようになります。
 一方、歌人としてもすぐれ、1200年(正治2)に、正治初度百首和歌を主宰し、1201年(建仁元)には、30人の歌人に100首ずつ詠進させた「院第三度百首」を結番した千五百番歌合を行わせました。また、1201年(建仁元)に和歌所を再興し、『新古今和歌集』の撰定に関わり、1205年(元久2)には完成記念の宴が後鳥羽院の御所で催されています。
 1219年(建保7)に鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府側の混乱を見て取り、1221年(承久3)に北条義時追討の院宣を発して、鎌倉幕府打倒を試みましたが失敗(承久の乱)しました。その結果、土御門・順徳の2上皇と共に配流となり、同年7月に出家して隠岐へ流されます。
 帰京がかなわぬまま、18年を過ごし、歌集『詠五百首和歌』、『遠島御百首』、秀歌撰『時代不同歌合』などを残しましたが、1239年(延応元年2月22日)に、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて、数え年60歳で亡くなりました。

〇『吾妻鏡』第廿五巻

<原文>

承久三年七月小十三日乙未。上皇自鳥羽行宮遷御隱岐國。甲冑勇士圍御輿前後。御共。女房兩三輩。内藏頭淸範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。施藥院使長成入道。左衛門尉能茂入道等。追令參上云々。

<読下し文>

承久三年七月小十三日乙未[1]。上皇[2]鳥羽行宮[3]自り隱岐國[4]へ遷じ御う。甲冑[5]の勇士御輿の前後を圍む。御共は、女房[6]兩三輩[7]、 内藏頭[8]淸範入道也。但し彼の入道、路次[9]自り俄に召返[10]被る之間、施藥院使[11]長成入道、左衛門尉[12]能茂入道等、追て參上[13]令むと云々。

【注釈】

[1]乙未:おつび=十干と十二支とを組み合わせたものの第三二番目。
[2]上皇:じょうこう=後鳥羽上皇のこと。
[3]鳥羽行宮:とばこうぐう=1086年(応徳3)に白河天皇の後院として、洛南の鳥羽(現在の京都市伏見区・南区)に造営された離宮、鳥羽離宮ともいう。
[4]隱岐國:おきのくに=山陰道の一国で、現在の島根県の隠岐島のこと。
[5]甲冑:かっちゅう=戦いのとき身を守るために着用する武具。胴体を覆う甲(よろい)と、頭にかぶる冑(かぶと)。
[6]女房:にょうぼう=部屋を与えられて貴人に仕える女性。
[7]兩三輩:りょうさんぱい=二、三人。
[8]内蔵頭:くらのかみ=内蔵寮(中務省に属し、金銀・珠玉や供進の御服、祭祀の奉幣などをつかさどり、内蔵の管理を担当)の長官。
[9]路次:ろじ=みちすじ。道の途中。みちすがら。
[10]召返:めしかえ=上位の者が、呼びかえす。つれもどす。
[11]施藥院使:せやくいんし= 施薬院(飢え病む者に給食し施療する施設)の長官。
[12]左衛門尉:さえもんのじょう=左衛門府の判官であり、六位相当の官職。
[13]參上:さんじょう=目上の人の所に行くこと。また、人のもとに行くことをへりくだっていう語。

<現代語訳>

 承久3年(1221年)7月小13日乙未。後鳥羽上皇は、鳥羽殿から隠岐国へ移動されました。甲冑に身を固めた勇敢な兵が前後を囲んでいます。供するのは、女官が二、三人と内蔵頭清範入道です。但し、この入道は、道の途中から急に呼び戻されたので、施薬院使長成入道と左衛門尉一条能茂入道が追い駆けてやってきたとのことです。

☆承久の乱関係略年表(日付は旧暦です) 

<承久元年(1219年)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される

<承久3年(1221年)> 
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する 
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる 
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す 
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる 
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる 
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する 
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す 
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する 
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する 
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる 
・7月13日 後鳥羽上皇は隠岐島に配流となり、京都を出発する
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる
・8月5日 隠岐に配流になった後鳥羽上皇が、隠岐の崎の港に着船する

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