
「オランダ国王の開国勧告」(おらんだこくおうのかいこくかんこく)は、江戸時代後期の1844年(天保15)に、オランダ国王ウィレム2世が12代将軍徳川家慶に宛て、日本の開国を勧告した親書のことでした。オランダ国王ウィレム2世が同年2月15日(天保14年12月17日)に記し、国王の特使コープスは親書と献上品を持参して、同年8月15日(天保15年7月2日)に長崎へ到着、天保15年8月20日に長崎奉行の伊沢美作守がこれを受取り、翌日に送り出し、8月末頃には江戸城に届けられます。
その内容は、アヘン戦争(1840~42年)の結果と原因から、日本の「異国船打払令」撤廃などを称賛した上で、孤立を続けることは不可能と述べ、日本が清の二の舞になる事を危惧し、オランダの指導の元で開国する事を勧めたものでした。翌年8月に、幕府はアヘン戦争の事を知りつつもこれを謝絶し、オランダ国王の勧告に従う意志のない旨を回答します。
当時政争状態にあった幕府は、鎖国政策緩和の方針をとることができず、鎖国重視の方向へと進み、海岸防禦御用掛(海防掛)を再置し、常設化しました。それからも日本近海に出現する欧米船は数を増す一方で、約8年後の1853年(嘉永6)に、アメリカのペリー提督が来航(黒船来航)し、翌年には「日米和親条約」が締結され、日本の開国へと至ります。
以下に、「オランダ国王の開国勧告」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
その内容は、アヘン戦争(1840~42年)の結果と原因から、日本の「異国船打払令」撤廃などを称賛した上で、孤立を続けることは不可能と述べ、日本が清の二の舞になる事を危惧し、オランダの指導の元で開国する事を勧めたものでした。翌年8月に、幕府はアヘン戦争の事を知りつつもこれを謝絶し、オランダ国王の勧告に従う意志のない旨を回答します。
当時政争状態にあった幕府は、鎖国政策緩和の方針をとることができず、鎖国重視の方向へと進み、海岸防禦御用掛(海防掛)を再置し、常設化しました。それからも日本近海に出現する欧米船は数を増す一方で、約8年後の1853年(嘉永6)に、アメリカのペリー提督が来航(黒船来航)し、翌年には「日米和親条約」が締結され、日本の開国へと至ります。
以下に、「オランダ国王の開国勧告」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
☆オランダ国王の開国勧告 (全文) 1844年(天保15年7月2日)長崎到着、8月20日長崎奉行受領、翌日江戸送付
ウィルレム二世の書翰
神徳に依頼する和蘭王[1]兼阿郎月[2]納騒[3]のプリンス魯吉瑟謨勃児孤[4]のコロート・ヘルトフ[5]微爾列謨第二世[6]、謹而江戸の政庁にまします徳威[7]最高威武隆盛なる大日本国君殿下[8]に書を奉して微忠[9]を表す。冀くは殿下[8]観覧を賜ひて、安寧[10]無為[11]の福を稟け給ん事を祈る。
今を距ること二百四十余年前に、世に誉高まします烈祖[12]権現[13]家康公より信牌[14]を賜り、我国の人貴国に航して交易[15]することを許せしよりこのかた、其待遇浅からず、甲必丹[16]も年を期し殿下[8]に謁見[17]するを許さる。聖恩[18]の隆盛なる、実に感激に勝えず。我も亦信義[19]を以て、この変替[20]なき恩義に答へ奉り、彌貴国の封内[21]をして静謐[22]に、庶民をして安全ならしめんと欲す。然といへども今に至る迄書を奉へき緊要[23]のことなく、且交易[15]の事及び尋常の風説は抜答非亜[24]及び和蘭領亜細亜諸島[25]の総督より告奉るを以て、両国の書を通ずる事あらざりしに、今爰に観望[26]し難き一大事起れり。素より両国の交易[15]に拘るにあらず、貴国の政事[27]に関係することなるを以て、未然の患を憂えて、始て殿下[8]に書を奉る。伏して望む、此忠告に因て、其未然の患を免れ給わんことを。
〇近来英吉利国王[28]より、支那国帝[29]に対し、兵を出して烈しく戦争[30]をせし本末[31]は、我国の船毎年長崎に到て呈する風説書[32]を見られて既に知り給うべし。威武[33]盛んなる支那帝国[34]も、久々戦いて利あらず。欧羅巴洲[35]の兵学に長ずるに辟易[36]し、終に英吉利と和親[37]を約せり。是よりして支那国古来の政法[38]甚錯乱[39]し、海口五処[40]を開て、欧羅巴人交易[15]の地となさしむ。その禍乱[41]の原を尋るに、今を距る事三十年前、欧羅巴の大乱[42]治平せし時に当りて、諸民みな永く治化に浴せん事を願ふ。其時に当て、古賢[43]の教を奉ずる帝王は、諸民の為に多商買の道を開て民蕃殖[44]せり。しかりしより器械を造るの術及び合離の術[45]に因て、種々の奇巧[46]を発明して、人力を費やさずして貨物[47]を製するを得しかば、諸邦に商買蔓延[48]して、反りて国用乏しきに至りぬ。中に就て、武威世に輝きし英吉利は、素より国力豊饒[49]にして、皆巧智[50]なりと雖も、国用の乏には時に甚し。故に商買の正路[51]に拠らずして、速に利潤を得んと欲し、或は外国と争端[52]を起し、時勢[53]止むべからざるを以て、本国より力を尽し、其争論[54]を助るに至る。是等の事によりて、その商賈支那国の官吏と広東にて争論[54]の端を開き、終に兵乱[55]を起せしなり。支那国にては戦争利なく、国人数千戦死し、且数府を侵掠敗壊[56]せらるゝのみならず、数百万金を出して火攻[57]の費を購ふに至れり。
〇貴国も亦此の如き災害に罹り給わんとす。凡災害は倉卒[58]に発するものなり。今より日本海に異国船の漂ひ浮むこと、古よりも多なりゆきて、是が爲に其船兵のものと貴国の民と争論[54]を開き、終には兵乱[55]を起すに到らん。これを熟察[59]して深く心を痛ましむ。殿下[8]高明[60]の見ましませば、其災害を避ることを知り給ふべし。我も亦安寧[10]の策あらんを望む。
〇殿下[8]の聡明[61]にまします事は、暦数千八百四十二年[62]貴国の八月十三日、長崎奉行の前にて甲必丹[16]に読聞せし令書[63]に因て明なり。其書中に異国人を厚遇[64]すべき事を載するといへども、恐らくは尚未だ尽ざる処あらん歟。其主とする所の意は難風[65]に逢ひ、或は食物薪水に乏しくして、貴国の海浜に漂着する船の処置のみにあり、若信義[19]を表し或は他のいわれありて、貴国の海浜を訪ふ船あらん時の処置は見へず。是等の船を冒昧[66]に排擯[67]したまはゞ、必しも争端[52]を開かん。争端[52]より兵乱[55]を起す。兵乱[55]は国の荒廃を招く。二百余年来我国の人貴国留居[68]の恩恵を謝し奉らんが為に、貴国をして此災害を免しめんと欲す。古賢[43]の言に曰、災害なからんと欲せば険危に臨む勿れ、安静を求めんと欲せは紛冗[69]を致す勿れ。
〇謹而古今の時勢[52]を通考[70]するに、天下の民は速に相親むものにして、其勢は人力のよく防所に非す。蒸気船[71]を創製[72]せるより以来、各国相距ること遠も猶近きに異らず。斯の如く互に好を通ずる時に当て、独国を鎖して万国と相親ざるは、人の好みする所にあらず。貴国歴代の法に、異国の人と交を結ぶことを厳禁[73]したもふは、欧羅巴洲[35]にて遍く知る所なり。老子曰[74]、賢者位に在は特に、能く治平を保護す。故に古法を堅く遵守して乱を醸さんとせは、其禁を弛るは賢者の常経のみ。是殿下[8]に丁寧に忠告する所なり。今貴国の幸福なる地をして、兵乱[55]の為に荒廃せざらしめんと欲せば、異国の人を厳禁する法[75]を弛め給ふべし。これ素より誠意に出る所にして、我国の利を謀るにはあらず。夫平和を行ふは、懇に好みを通ずるにあり。懇ろに好を通ずるは交易[15]に在り。冀は叡智を以て熟計[76]し給わんことを。
〇此忠告を採用し給わんと欲せば 殿下[8]親筆[77]を以て返翰[78]を賜わるべし、然ば又腹心[79]の臣を奉らん。此書には概略を挙るのみ。故に詳かなる事は其使臣[80]に問給ふべし。
〇我は遠く隔て貴国の幸福治安を謀る為に、其心を痛ましむ。これに加ふるに、在位二十八年にして四年以前に譲位せし我父微爾列謨第一世王[81]も、遠行[82]して悲哀に沈めり。殿下[8]亦是等の事を聞給はゝ、我と憂愁[83]を同うし給んこと明也。
〇此書を奉ずるに軍艦を以てするは、殿下[8]の返翰[78]を護し帰らん為のみ。又我が肖像を呈し奉るは、至誠[84]なる信義[19]を現わさんが為なり。其余別幅に録する品々は、我が封内に盛に行るゝ学術によりて致す所なり。不腆[85]といへども、我国の人年来恩遇を受しを聊謝し奉んが為に献貢す。向来[86]不易[87]の恩恵を希ふのみ。
〇世に誉れ高くましませし、父君の治世久しく多福を膺受[88]し給いしを眷顧[89]せる神徳によりて、殿下も又多福を受、大日本国永世疆なき天幸の得を得て、静謐[22]敦睦[90]ならん事を祈る。
即位より四年、暦数千八百四十四年二月十五日[91]
瓦刺紛法瓦[92]の宮中に於て書す。
微 爾 列 謨
デ・ミニストル・ハン・コロニイン
瑪 陀[93]
(渋川六蔵譯通航一覧続輯所載、今原文と對照し特に必要なる箇所には註を加へたり)
国立国会図書館デジタルコレクション「日蘭三百年の親交」より
*縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に直し、句読点を付してあります。
【注釈】(原注)は、幕府天文方の渋川六蔵訳「通航一覧続輯」所載のものです
[1]和蘭王:おらんだおう=オランダ国の王。
[2]阿郎月:おらにえ=(原注)仏朗察国ノ地名。
[3]納騒:なっそう=(原注)独逸都国ノ地名ノプリンス爵名。
[4]魯吉瑟謨勃児孤:るくせんぶるぐ=(原注)和蘭国ノ地名。
[5]コロートヘルトフ:ころーとへるとふ=(原注)爵名。
[6]微爾列謨第二世:うぃるれむにせい=(1792-1849年)ウィレム一世の息子で、国王在位は1840-1849年の9年間。
[7]徳威:とくい=おごそかでおかしがたい徳。人を自然に従わせる威厳と人徳。
[8]殿下:でんか=江戸幕府の将軍のこと。
[9]微忠:びちゅう=少しの忠義。また、自分が忠義を尽くしたことを、へりくだっていう語。
[10]安寧:あんねい=穏やかにおさまり、異変、不安などがないこと。また、そのさま。安泰。平穏。
[11]無為:むい=自然にまかせて、作為するところのないこと。また、そのさま。
[12]烈祖:れっそ=功烈のある先祖。大きな功績のある先祖。
[13]権現:ごんげん=仏・菩薩にならって称した神号。
[14]信牌:しんぱい=江戸幕府発行の貿易許可証明書。長崎通商照票ともいう。
[15]交易:こうえき=互いに品物の交換や売買をすること。
[16]甲必丹:かぴたん=オランダ商館長のこと。
[17]謁見:えっけん=身分の高い人、または目上の人に会うこと。ここでは江戸幕府の将軍に会うこと。
[18]聖恩:せいおん=天子の恩恵。天皇の恵み。皇恩。聖沢。
[19]信義:しんぎ=真心をもって約束を守り、相手に対するつとめを果たすこと。
[20]変替:へんがえ=変更する。また、心変わりする。約束を破る。
[21]封内:ほうない=領土のうち。領内。国内。
[22]静謐:せいひつ=世の中がおだやかに治まること。また、そのさま。
[23]緊要:きんよう=きわめて重要なこと。肝心なさま。肝要。
[24]抜答非亜:ばたびあ=(原注)呱哇島ノ崎名ナリ、元和五己未年和蘭国人全島ヲ奪ヒ開瓦答利城ヲ改メテバタビアトイフ。
[25]和蘭領亜細亜諸島:おらんだりょうあじあしょとう=(原注)和蘭国ノ人印度地方ノ諸島ヲ併セ奪ヒテ是ヲ領ス、是ヲ和蘭領亜細亜諸島トイフ。
[26]観望:かんぼう=戦などの形勢、様子をうかがっていて、自分からすすんで行動しないこと。日和見。静観。
[27]政事:せいじ=政治上の事柄・仕事。まつりごと。
[28]英吉利国王:いぎりすこくおう=ここではビクトリア女王のこと。
[29]支那国帝:しなこくてい=ここでは清国の宣道光帝のこと。
[30]戦争:せんそう=ここでは中国でのアヘン戦争(1840~42年)のこと。
[31]本末:ほんまつ=もととすえ。はじめとおわり。始終。
[32]風説書:ふうせつしょ=オランダ商館長から長崎奉行を通じて江戸幕府に提出された海外情報書。
[33]威武:いぶ=権威と武力。 勢いの強く勇ましいこと。
[34]支那帝国:しなていこく=清国のこと。
[35]欧羅巴洲:よーろっぱしゅう=六大州の一。ユーラシア大陸西部および付近の島々からなる。
[36]辟易:へきえき=相手の勢いに圧倒されてしりごみすること。たじろぐこと。
[37]和親:わしん=国と国とが仲良くつきあうこと。特に近代では、国家間の親睦。
[38]政法:せいほう=世の中を治める方法。政治の方法。
[39]錯乱:さくらん=秩序などが乱れること。
[40]海口五処:かいこうごしょ=五ヶ所の港。(原注)五処ノ地方ハ即チ広州・福州・寧波・厦門・上海
[41]禍乱:からん=世の乱れや騒動。
[42]欧羅巴の大乱:よーろっぱのたいらん=(原注)寛政ノ頃ニ当リテ仏朗察国ニ(ナポレオン)ナルモノアリ、国ノ内乱ヲ嫌ヒ自立シテ王タリ、是ニ於テ兵ヲ四方ニ出シテ諸国ヲ併呑セントシ欧羅巴州大ニ乱ル、文化十二乙寅年諸国相謀テ(ナポレオン)ヲ擒ニシテ流罪シ、数年ノ兵乱治平セリ、乙亥ヨリ今茲甲辰ニ至リ正ニ三十年ナリ。
[43]古賢:こけん=昔のすぐれた人。昔の賢人。
[44]蕃殖:はんしょく=しげり増えること。
[45]合離ノ術:ごうりのじゅつ=物理化学のこと。(原注)万物ヲ離合して其質ヲ究理スルノ肝ヲ云。
[46]奇巧:きこう=珍しくて、じょうずなこと。また、そのさま。
[47]貨物:かぶつ=品物。生産した物。また、荷物。
[48]蔓延:まんえん=勢いが盛んになって広まる。ひろまり栄える。また、のさばる。
[49]豊饒:ぶにょう=ゆたかなこと。たくさんあること。また、そのさま。
[50]巧智:こうち=たくみな才知。すぐれた知恵。
[51]正路:しょうろ=人のふみ行うべき正しい道理。正道。せいろ。
[52]争端:そうたん=争いのいとぐち。もめごとの発端。
[53]時勢:じせい=移り変わる時代のようす。世の中の成り行き。時代の趨勢(すうせい)。時流。
[54]争論:そうろん=言い争うこと。口論。
[55]兵乱:へいらん=戦争のために起こる世の中の乱れ。また、戦争。戦乱。
[56]敗壊:はいかい=やぶれくずれること。そこなわれてなくなること。
[57]火攻:ひぜめ=火を放って攻めること。やきうち。
[58]倉卒:そうそつ=急なこと。突然なこと。また、そのさま。にわか。だしぬけ。
[59]熟察:じゅくさつ=十分に考えて判断すること。深く見きわめること。
[60]高明:こうめい=考え、行動、性格などが立派ですぐれていること。また、そのさま。
[61]聡明:そうめい=物事の理解が早く賢いこと。また、そのさま。
[62]千八百四十二年:せんはっぴゃくよんじゅうにねん=(原注)天保十三壬寅年ニ当ル)
[63]令書:れいしょ=命令の文書。この場合は、「天保の薪水給与令」のこと。
[64]厚遇:こうぐう=手厚くもてなすこと。行き届いたもてなしをすること。
[65]難風:なんぷう=航行する船をなやます暴風。
[66]冒昧:ぼうまい=場所柄をわきまえない。無礼である。
[67]排擯:はいひん=おしのけしりぞけること。排斥。擯斥。
[68]留居:りゅうい=居留する。在留する。
[69]紛冗:ふんじょう=みだれること。ごたごたしてもつれること。
[70]通考:つうこう=考えること。
[71]蒸気船:じょうきせん=(原注)水車ト蒸気筒ヲ設テ石炭ヲ焼テ蒸気筒中ノ水ヲ沸騰シ、其蒸気ニアリテ水車ヲ回転セシメ、風向ニ拘ラス自由ニ進退スル船ナリ、文化四丁卯年ニ創造スト云フ。
[72]創製:そうせい=発明。
[73]異国の人と交を結ぶことを厳禁:いこくのひととまじわりをむすぶことをげんきん=鎖国体制のこと。
[74]老子曰:ろうしいわく=(原注)此意ニ当るへき語老子ニ見ヘス、後考ニ譲ル。
[75]異国の人を厳禁する法:いこくのひとをげんきんするほう=「鎖国令」のこと。
[76]熟計:じゅっけい=十分にはかりごとを考えること。また、そのはかりごと。
[77]親筆:しんぴつ=その人がみずから書いた筆跡。
[78]返翰:へんかん=返事の手紙。返書。
[79]腹心:ふくしん=主君や上司の信頼が非常に厚い、家臣や部下のこと。
[80]使臣:ししん=君主や国家の命令を受けて、外国などに使いをする人。
[81]微爾列謨第一世王:うぃるれむだいいっせいおう=(原注)ウィレム一世(1772-1843)、オランダ君主、ルクセンブルグ大公在位1813-1840、27年間。
[82]遠行:えんこう=死ぬこと。遠逝(えんせい)。長逝(ちょうせい)。
[83]憂愁:ゆうしゅう=悲しんで心を痛めること。悲しみもだえること。
[84]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[85]不腆:ふてん=自分の贈るものをへりくだっていう語。
[86]向来:きょうらい=先頃から今まで。これまで。上来。
[87]不易:ふえき=いつまでも変わらないこと。また、そのさま。不変。
[88]膺受:ようじゅ=胸で受け止める。
[89]眷顧:けんこ=特別に目をかけること。ひいき。
[90]敦睦:とんぼく=情愛が厚く、むつまじいこと。また、そのさま。
[91]千八百四十四年二月十五日=(原注)天保十四癸卯年十二月二十七日ニ当ル。
[92]瓦刺紛法瓦:がらーへんはーが=オランダ国の首都グラベンハーグ。(原注)和蘭国都。
[93]デ・ミニストル・ハン・コロニイン瑪陀=オランダ植民地事務大臣マーダ
<現代語訳> オランダ国王の開国勧告
ウィルレム二世の書簡
神の意向によるオランダ国王兼オラニエ・ナッソウ家、ルクセンブルグ大公であるウィルレム二世は、謹んで江戸幕府の最高の徳を持ち武威も隆盛である将軍に書を心から捧げます。出来うるならば将軍の一読を賜って、安らかなままでいられるようお役に立つ事を祈ります。
今を去ること200余年前に、世の中に誉れの高い江戸幕府開祖の神君家康公より貿易許可証明書を戴き、我国の人民が貴国まで航海して、互いに品物の交換や売買をすることを許されて以後、その待遇は厚く、商館長も毎年将軍へのお目見えを許されました。この御恩は有り難く感激に耐えないものです。私もまた信義を尽して心変わりしないこの恩義に応え、いよいよ貴国の領内が穏やかで国民が安全であることを希望するものです。しかし、これまでは書を差上げるべき火急の事もなく、かつ互いに品物の交換や売買をすることおよび通常の情報はバタビアおよびオランダ領アジア諸島の総督を経由して御報告しているので、両国が文を交換する事はありませんでしたが、今ここに静観できない大事件が起こりました。これは日本とオランダ両国が互いに品物の交換や売買をすることの問題ではなく、貴国の政治上の事柄に関わる心配事でもありますので、初めて将軍に書を差し上げるものです。是非とも、この忠告によって、禍を未然に防がれる事を切望いたします。
〇最近イギリス国王が清国の帝に対して、出兵し烈しく戦争(アヘン戦争)をおこなったいきさつは、わがオランダの船舶が毎年、長崎にやってきた時に提出する風説書をご覧になり、もうすでに御存じでしょう。国威も武力も盛んである清国の帝も久しく戦っても戦況は不利であり、ヨーロッパの兵学が優れていることに閉口し、最後にはイギリスと講和条約を結びました。結果、中国古来の方針は崩れ、五ヶ所の港を開いてヨーロッパ人と交易を行う事となりました。この原因は、今から30年前ヨーロッパの戦乱が治まった時、人々は平和が長続きする事を望みました。その時、各国の指導者は人民の為に交易の道を開き、産業を促進しました。以後、工業技術や物理化学が発達し、各種機械器具が発明され、人力を使わずに製品を作るようになったので、商業は益々発展しましたが、歳費は不足しました。中でも特にイギリスは元来国も豊かで、産業技術も優れていますが、歳費は特に不足していました。そのため堅実な商売をするより、早急に利益を得る事を考えて外国と争いになり、仕方なく本国から軍事力で支援するに至りました。これは即ち、商売上で清国官吏との争いが広東で起り、終に戦争になったものです。清国側は戦いに敗れ数千の人々が亡くなり、数ヶ所の都市を占領または破壊されました。その上、数百万金の賠償金を払う事になりました。
〇貴国もまたこのような災害に見舞わられようとしています。およそ災害は突然に起こるものです。今後、日本海に外国船が漂着することは、昔よりより多くなっていき、このためにその乗組員と貴国の民とが言い争いを始め、ついには戦乱を起こすに到るかもしれません。これを十分に考え判断してみて、深く心を痛めています。しかし、将軍は賢明であられるとご推察いたしますので、その災害を回避する方法をご存知とは思っております。私もまた平穏な方策を望むものです。
〇将軍が聡明であられる事は、1842年旧暦8月13日に長崎奉行より商館長に通達された命令書(天保の薪水給与令)によって明白です。この命令書(天保の薪水給与令)で外国船を厚く遇する事が詳しく述べられています。しかし、今一歩の処もあります。それは、通達の趣意は大風に遭遇したり、食物薪水が欠乏して貴国の海岸に船が漂着した場合だけであり、礼儀を尽しあるいは他の正当な理由で貴国を訪れた船がある場合の処置は不明なことです。もしこれ等の船をやみくもに排除すれば、必ず争いが起こるでしょう。そして争いはやがて戦乱に発展し、戦乱は国の荒廃を招くでしょう。200余年の間我国が貴国から受けた恩恵に感謝すればこそ、貴国が斯かる災難に逢われない事を願います。古人曰く、「災害を防ぐには危険に近付くな、平和を求めるなら揉め事を起すなと。」
〇現在の時勢を考えますと、人々はすぐにお互いが親しくなるもので、その勢いは(鎖国政策のように)人の力では止めることはできません。蒸気船が発明されてより、各国の距離は遠くとも近いのと同じです。このようなお互いが交流するときに、国の交わりを鎖していることは、好ましい事ではありません。昔から日本が外国との交わりを厳禁している事は、ヨーロッパでは皆よく知っている事です。老子の言葉に「賢者が指導者になれば特に平和の維持に心を尽す。」があり、古い掟を堅く守る事が却って乱の原因になるなら、その規則を弛めるのが賢者やり方です。将軍に最も忠告したいのはこの点にあります。今、貴国の幸福な国土を戦争のために荒廃させたくないとお考えであるのなら、外国の人を厳禁する法を緩めてくださるのが適切です。この提言は、誠意に基づく提言でありまして、我オランダの利益を目的としたものではありません。そもそも平和を実現するには、親密な友好関係を結ぶことであり、親密な友好関係を結ぶには、諸物の貿易を行うことが大事であります、どうか優れた知恵を傾け、今後の情勢を予測して充分に御検討頂くようお願い申し上げます。
〇この忠告を採用いただけるなら、将軍親筆の返書を賜りたく、そうなれば腹心の臣下を送りましょう。此書では概略を述べているいるだけですので、その使節に詳しくお尋ね下されたい。
〇私は遠く離れた貴国の幸福と平和が続くか、大変心配しています。更に加えて、在位28年の後4年前に譲位した我父、ウィレム一世王が死去した悲しみもあります。将軍もこれを聞かれれば、私の気持ちをご理解戴けると思います。
〇この書簡を差上げる為に軍艦を派遣したのは、将軍の返書を警固して帰る為です。また、私の肖像画を差上げるのは誠の信義を顕すためです。その他、別紙目録にある品々は我領内で盛んな産業技術により作られたものです。粗品ではありますが我国民が長期にお世話になって来たお礼の印として差上げたいのです。今後も相変わらず宜しくお願いいたします.
〇高名な父君は、長期に渡る平和を維持されましたが、神の導きにより将軍もまた幸せで日本国の平和を全うされん事を祈念します。
即位より四年、西暦1844年2月15日(天保14年12月27日)
オランダの都ハーグにて記す
オランダ国王 ウィレム二世