
昌平学校(しょうへいがっこう)は、江戸幕府の教学機関であった昌平坂学問所(1797年設立)が、明治新政府に接収され官立学校として再編成されたときの名称でした。明治新政府は、江戸幕府直轄だった昌平坂学問所を昌平学校、開成所を開成学校、医学所を医学校として復興しましたが、翌年6月には、これらを総合して「大学校」を創設することとします。
その際に、昌平学校は大学校(本校)とし、開成学校と医学校は大学校分局としたものの、同年12月には大学校を「大学」と改称し、また開成学校を「大学南校」、医学校を「大学東校」と改称して、総合大学の形態が一応整えられました。しかし、その後大学(本校)は、紛争のため1870年(明治3年7月13日)に学制改正で当分休校となり、翌年には廃止されます。
「大学南校」と「大学東校」は存続することとなり、後の東京大学の母体となりました。それ以後も、昌平学校(昌平坂学問所)の建物は残され、1922年(大正11)に国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいます。
その後、1935年(昭和10)に、寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されました。そこには、現在でも、受験シーズンになると、多くの受験生が合格祈願に来ることで知られています。
その際に、昌平学校は大学校(本校)とし、開成学校と医学校は大学校分局としたものの、同年12月には大学校を「大学」と改称し、また開成学校を「大学南校」、医学校を「大学東校」と改称して、総合大学の形態が一応整えられました。しかし、その後大学(本校)は、紛争のため1870年(明治3年7月13日)に学制改正で当分休校となり、翌年には廃止されます。
「大学南校」と「大学東校」は存続することとなり、後の東京大学の母体となりました。それ以後も、昌平学校(昌平坂学問所)の建物は残され、1922年(大正11)に国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失してしまいます。
その後、1935年(昭和10)に、寛政時代の建物を模して鉄筋コンクリート造りで再建されました。そこには、現在でも、受験シーズンになると、多くの受験生が合格祈願に来ることで知られています。
〇昌平学校(昌平坂学問所)関係略年表(日付は旧暦です)
・1630年(寛永7) 林羅山が幕府から上野忍ヶ岡に土地を与えられ、私邸内に書院と文庫を設立する
・1632年(寛永8) 尾張藩主徳川義直の援助で、上野忍ヶ岡の私邸内に孔子廟(先聖殿)を創建する
・1663年(寛文3) 林家2代目鵞峰の時、「弘文館(こうぶんかん)」と名付け、学寮も設置して門人教育も本格化する
・1690年(元禄3) 5代将軍徳川綱吉が神田湯島に孔子廟を移築することを命じ、林家3代目鳳岡が孔子廟や学寮を移転し始める
・1691年(元禄4)2月7日 神位の奉遷が行われて孔子廟(大成殿)が完成する
・1703年(元禄16) 火災にあう
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火で被災したため不振状態となる
・1790年(寛政2) 寛政改革の一環として聖堂預りの林大学頭(信敬)に「教学伸張の令(寛政異学の禁)」が発せられる
・1792年(寛政4) 教官宿舎、講舎も建立され、学校としての整備が進み、旗本の子弟などのほか、一般の聴講も許すこととなる
・1793年(寛政5) 岩村藩主松平乗薀の子衡(たいら)が林家を継ぎ、8代目述斎として、大学頭となる
・1797年(寛政9) 林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌)となり、庶人の入学を禁じ、幕臣、藩士らの子弟を教育する
・1799年(寛政11) 湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は1万2千坪から1万6千坪余りとなる
・1862年(文久2) 学問所奉行所の新設に伴い塩谷宕陰、安井息軒らも教授陣に加えられる
・1868年(慶応4)6月29日 官立の「昌平学校」として再出発する
・1869年(明治2) 大学校と改称される
・1870年(明治3)7月12日 学制改正で当分休校となる
・1871年(明治4) 学校としては廃止される
・1872年(明治5) 大成殿で日本最初の博覧会「湯島聖堂博覧会」(文部省博物局主催)が開催される
・1872年(明治5) 東京師範学校、日本初の図書館である書籍館が置かれる
・1874年(明治7) 東京女子師範学校が設置される
・1922年(大正11) 国の史跡に指定される、
・1923年(大正12) 関東大震災で、入徳門と水屋を残し、すべてを焼失する
・1935年(昭和10) 寛政時代の建物を模して、鉄筋コンクリート造りで再建される
・1975年(昭和50) 中華民国台北ライオンズクラブから世界最大の孔子像が寄贈される
・1986年(昭和61) 文化庁による保存修理工事が始まる