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 今日は、江戸時代中期の1730年(享保15)に、京都の「西陣焼け」が起こり、134町、3,810軒を焼失した日ですが、新暦では8月3日となります。
 西陣焼け(にしじんやけ)は、この日の昼八つ時(午後2時頃)に、京都の上立売通室町西入ル上立売町北側の大文字屋五兵衛宅台所から出火した大火でした。折からの烈風に煽られて、火は南北両方向へと燃え広がり、辺り一面が火の海となり、風が東風に変化すると、火は燃え盛って西方へと進んでいき、午後3時過ぎには、一条浄福寺と北野松梅院に飛び火したため、火の手は3ヶ所となります。
 1時間後の午後5時頃には、3つの火が一つに繋がり、5時過ぎには西陣を中心に室町通以西、北野神社以東、一条通以北、盧山寺通以南を焼き尽くし、ようやく、翌朝の八つ時(午前2時頃)に鎮火しました。『月堂見聞集』によれば、「町数百卅四町程、但し平均東西長さ十六町、南北長さ五町、家数三千七百九十八軒程、外に非人小屋十三軒、寺社数七十一ヶ所程、内社二ヶ所、北野松梅院一ヶ所、同祠官一ヶ所、同宮仕廿四ヶ所、堂上方抱屋敷五ヶ所、武家方屋敷一ヶ所」が罹災したとし、『西陣天狗筆記』では、「類焼町数134、家数3,797、寺社67ほか」を焼いたとしています。また、死者は八十人,負傷者は千数百人に達したとされ、特に、西陣は160余町のうち、108町、3千数百軒が被災し、織機約7,000台のうち3,012台を失って壊滅状態となりました。
 これに対し、幕府も救済の手を差し伸べ、公家衆にはただちに金子を送り、西陣108ヶ町には、拝借米5,000俵を下げ渡した他、中京や下京の町衆によって施行も行われています。尚、近郊農家からも穀物や野菜などの救援物資が次々と運び込まれました。

〇江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日) 江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日) 江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830–3,500人
・1708年(宝永5年3月8日) 京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日) 大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1730年(享保15年6月20日) 京都の「西陣焼け」134町、3,810軒を焼失、死者80人
・1760年(宝暦10年2月6日) 江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日) 江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日) 京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日) 江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日) 江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日) 大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、3,389軒を焼失、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日) 大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」3,733軒を焼失
・1864年(元治元年7月19日) 京都の「元治の大火(どんどん焼け)」27,517軒を焼失、死者340人

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1495年(明応4)飯尾宗祇ら編集による『新撰菟玖波集』が完成する(新暦7月12日)詳細
1654年(承応3)江戸市中に水を供給する玉川上水が完成する(新暦7月21日)詳細
1887年(明治20)二葉亭四迷著の小説『浮雲』の第一篇が刊行される詳細
1947年(昭和22)片山哲内閣によって、「新日本建設国民運動要領」が閣議決定される詳細
1963年(昭和38)「観光基本法」が公布・施行される詳細