
『遠野物語』(とおのものがたり)は、柳田国男が現在の岩手県遠野市の民間伝承を土地出身の佐々木喜善(きぜん)から聞書きした、記録書でした。神、妖怪、年中行事、家の話などに整理配列した119話から構成され、山間部に住む人々の日常生活を具体的に物語っています。
反響が大きかったので、1935年(昭和10)には、各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表されました。日本民俗学史上、『後狩詞記(のちのかりことばのき)』、『石神問答』と並ぶ古典とされ、日本の民俗学の先駆けともされる作品で、現在でも幅広い読者層を得て読まれています。
以下に、『遠野物語』序文を掲載しておきますので、ご参照下さい。
反響が大きかったので、1935年(昭和10)には、各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表されました。日本民俗学史上、『後狩詞記(のちのかりことばのき)』、『石神問答』と並ぶ古典とされ、日本の民俗学の先駆けともされる作品で、現在でも幅広い読者層を得て読まれています。
以下に、『遠野物語』序文を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『遠野物語』序文
此の話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話し上手に非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷には此の類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。
昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或いは新道なるが故に民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。その馬は黔き海草をもって作りたる厚総を掛けたり。虻多きためなり。猿ヶ石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲まさに熟し晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる名処の同じきなるべし。小字よりさらに小さき区域の地名は持主にあらざればこれを知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。附馬牛の谷へ越ゆれば早池峯の山は淡く霞み山の形は菅笠のごとくまた片仮名のへの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鶏かと思いしが溝の草に隠れて見えざればすなわち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被り童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑い児は走れどもなお旅愁をいかんともする能わざりき。盂蘭盆に新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽の徒多く岡の上に灯火見え伏鉦の音聞えたり。道ちがえの叢の中には雨風祭の藁人形あり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥してありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。
思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもって他人に強いんとするは無作法の仕業なりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処を見てきてのちこれを人に語りたがらざる者果してありや。そのような沈黙にしてかつ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはあることなし。いわんやわが九百年前の先輩『今昔物語』のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり。たとえ敬虔の意と誠実の態度とにおいてはあえて彼を凌ぐことを得という能わざらんも人の耳を経ること多からず人の口と筆とを倩いたること甚だ僅なりし点においては彼の淡泊無邪気なる大納言殿かえって来たり聴くに値せり。近代の御伽百物語の徒に至りてはその志やすでに陋かつ決してその談の妄誕にあらざることを誓いえず。窃にもってこれと隣を比するを恥とせり。要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁えず、その力を用いるところ当を失えりという人あらば如何いかん。明神の山の木兎みみずくのごとくあまりにその耳を尖とがらしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと責せむる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬなり。
おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも
柳田国男
〇柳田国男(やなぎだくにお)とは?
明治時代後期から昭和時代中期に活躍した民俗学者・官僚で、日本の民俗学の創始者です。1875年(明治8)7月31日、播磨県神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)に、漢学者・医者松岡操の6男として生まれました。
16歳で上京し、尋常中学共立学校(現在の開成高等学校)、郁文館中学校を経て、第一高等中学校に進み、1897年(明治30)には、東京帝国大学法科大学政治科(現在の東京大学法学部政治学科)へ入学します。卒業後、1900年(明治33)に農商務省に入省り、農村の実態を調査・研究するようになりました。
翌年5月には 柳田家の養嗣子となって、柳田姓となります。この頃、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村、小山内薫らとも交流し、抒情派の詩なども書いたりしました。
1908年(明治41)には、法制局参事官に宮内書記官を兼任するようになりましたが、自宅で「郷土研究会」を始めます。この中で、民俗的なものへの関心を深めていき、1910年(明治43)に、代表作「遠野物語」を発表するに至りました。
そして、1913年(大正2)に雑誌『郷土研究』を刊行し、民俗学への探究を進めます。それらによって、1940年(昭和15)に朝日文化賞を受賞、1947年(昭和22)には、 自宅に民俗学研究所を設立しました。
1949年(昭和24)に日本学士院会員に選任され、日本民俗学会の初代会長にも就任します。これ等の功績により、1951年(昭和26)に文化勲章を受章し、その後も民俗学研究に尽力しました。
しかし、1962年(昭和37)8月8日、東京都世田谷区の自宅においいて、87歳で亡くなっています。著作には、「遠野物語」「桃太郎の誕生」「蝸牛考」「民間伝承論」「海上の道」「海南小記」などがあります。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
16歳で上京し、尋常中学共立学校(現在の開成高等学校)、郁文館中学校を経て、第一高等中学校に進み、1897年(明治30)には、東京帝国大学法科大学政治科(現在の東京大学法学部政治学科)へ入学します。卒業後、1900年(明治33)に農商務省に入省り、農村の実態を調査・研究するようになりました。
翌年5月には 柳田家の養嗣子となって、柳田姓となります。この頃、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村、小山内薫らとも交流し、抒情派の詩なども書いたりしました。
1908年(明治41)には、法制局参事官に宮内書記官を兼任するようになりましたが、自宅で「郷土研究会」を始めます。この中で、民俗的なものへの関心を深めていき、1910年(明治43)に、代表作「遠野物語」を発表するに至りました。
そして、1913年(大正2)に雑誌『郷土研究』を刊行し、民俗学への探究を進めます。それらによって、1940年(昭和15)に朝日文化賞を受賞、1947年(昭和22)には、 自宅に民俗学研究所を設立しました。
1949年(昭和24)に日本学士院会員に選任され、日本民俗学会の初代会長にも就任します。これ等の功績により、1951年(昭和26)に文化勲章を受章し、その後も民俗学研究に尽力しました。
しかし、1962年(昭和37)8月8日、東京都世田谷区の自宅においいて、87歳で亡くなっています。著作には、「遠野物語」「桃太郎の誕生」「蝸牛考」「民間伝承論」「海上の道」「海南小記」などがあります。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1571年(元亀2) | 戦国武将・大名毛利元就の命日(新暦7月6日) | 詳細 |
| 1831年(天保2) | 第121代の天皇とされる孝明天皇の誕生日(新暦7月22日) | 詳細 |
| 1899年(明治32) | 小説家川端康成の誕生日 | 詳細 |
| 1920年(大正9) | 北炭夕張炭鉱(北上坑)で爆発事故があり、死者・行方不明者209人を出す | 詳細 |
| 1992年(平成4) | 「環境と開発に関する国際連合会議」が「環境と開発に関するリオ宣言」などを採択して閉幕する | 詳細 |