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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、第二次護憲運動によって、清浦奎吾内閣が総辞職した日です。
 第二次護憲運動(だいにじごけんうんどう)は、清浦奎吾内閣時に起きた護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)による政治運動でした。1923年(大正12)12月27日の虎ノ門事件(皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が狙撃を受けた暗殺未遂事件)により、山本権兵衛内閣が総辞職した後、翌年1月7日に、貴族院議員を中心に組閣した清浦奎吾内閣が発足すると、世論から「特権内閣」であるとの批判が浴びせられます。
 この状況下で、護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)は連携を強め、「憲政の本義に則り政党内閣制の確立を期すること」を申し合わせ、運動を開始しました。これに対し、清浦奎吾内閣は、1月31日議会を解散しましたが、護憲三派は全国各地で護憲大会などを開き、普通選挙制実行や貴族院改革などを唱えて運動を展開します。
 その結果、5月10日の第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派からは286名(憲政会152名。政友会102名。革新倶楽部30名)が当選、圧勝に終わりました。これによって、6月7日に清浦奎吾内閣は総辞職し、6月11日には、第一党となった憲政会総裁の加藤高明に内閣組閣の大命が下り、加藤高明内閣が発足(政友会から2名、革新倶楽部から1名入閣)、2年ぶりに政党内閣が復活することとなります。
 これは、衆議院第一党の党首が内閣を組織する「政党内閣制」の慣行を樹立したこととなり、1932年(昭和7)の5.15事件で犬養内閣が倒れるまでの足掛け8年間、政党内閣の時代が続くこととなりました。
 以下に、『三浦梧楼の政界回顧録』の護憲三派結成に至った経緯を記した部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『三浦梧楼の政界回顧録』(抄文)三党首会合事件

      一

 憲法政治が敷かれてから、もう三十年、今は憲政済美の時期に達しておらねばならぬ筈だが、さて実際を見ると、かえってだんだん憲法とは遠ざかって行く。
 即ち憲政逆転の状態をあらわしているではないか。
 憲法政治を敷いた以上は、どうしても政党内閣にならねばならぬ。
 これが当然の帰結であるが、さてそれが成らぬ。三十何年も遅れている。
 それはなぜであるかといえば、政党も基より良くないが、実は一面には憲法政治を敷きつつ、その裏面には始終これを阻害するというものがあるからである。
 伊藤さんだけは自ら進んで政友会の総裁にまでなったくらいなことで、これは違っておったが、他は決してそうではない。
 政党を互いに相争わして、その漁夫の利を占めようという政略をとった。
 即ち一の政党を爪牙(そうが)として、他の政党と抗争せしめつつ、官僚的内閣の存続を計ったものである。
 この間、政党それ自身は己れの存在の意義を忘れて、権力に阿付(あふ:へつらう)し、追随したもので、ますます反対の方向に、自らも進み、他からも引っ張られたもので、憲政はこれがために三十年も遅れて来た。
 今は政党の存在も認められ、実力も認められているにも拘らず、なお変態的、中間的内閣というものが出来て、二代も三代も続き、しかもその代わる度び毎にだんだん悪くなる。
 憲政の常道に背き、国民の輿望に反して、かかる非立憲の処置を取るにおいては、申すもはなはだ恐れ多いことではあるが、ついに累を皇室に及ぼし奉るやも知るべからず。
 我輩の最も恐れる所は、この点にあるのだ。
 なるほど政党内閣にも長短はあろう。これはもとより免れぬ所である。
 さりながら、いかに短所はあり、欠点はあっても、その官僚的、変態的内閣に優るや万々である。
 そこでいよいよ政党内閣ということになれば、その責任が重くなる。
 位置が尊くなる。勢い自重自強せざるを得なくなる。
 第一政党迭立、新陳代謝ということになれば、輿望に背いては、勢力を得られぬ。
 民心を失しては、位置を保たれぬ。
 従って行動を慎み、非違を戒めて、なるべく批難を避けようとつとめる。
 特に政党内閣となれば、政局の転換、政権の移動が、最も円滑に行なわれる結果、従来の如く一更迭、一変動毎に、元老が干渉し、容喙する必要がなくなる。
 従って政権は落ちつく所に落ちつくから、累を皇室に及ぼし奉るという処は、寸毫もない。
 我輩は過去十年前には、元老を口にしたこともあった。
 しかし時勢が進歩し、政党が向上して、責任内閣の制も立ち、憲政有終の美も済らば、元老は何等存在の必要を認めない。
 我輩は皇室の尊栄を永久に保持し奉る上において、切実に政党内閣の必要を感ずる。

      二 

 我輩は前年一たび三党首の結合を計って失敗したが、今や官僚的内閣の続出するを見て、黙止せられず、二たびその結合を計るの必要を感ずるに至った。
 昨年十月、山本権兵衛内閣の出来上がって、まだ間もない時であった。
 まず高橋是清(蔵相)を招いて、
 「どうも変態内閣につぐに変態内閣をもってするということは、実に憲政の逆転といわねばならぬ。
 この変態内閣を排斥して、政党内閣を確立するには、政党自らその存在を明らかにする必要がある。
 加藤(高明)が憲政常道論を叫んでも、あれの境遇が境遇だから、人は我田引水の説としか思わぬ。
 それを加藤も言い、君も言うことになると、憲政常道論も始めて意義を有するものとなるではないか。
 天下誰かまたこれを不都合だ、不同意だと声言するものがあろうぞ。 各政党一致して、自ら自分の存在を明らにするに元老たりとも何で不同意を唱うることが出来ようか、況やその他をやだ。
 今日の急務は、ただ政党の自らその存在を明らかにするにあるのみだ」
  と説いたら、高橋も非常に喜んだ。
 そこで午後から加藤の所へ行こうと思い、飯を食うて、新聞を読んだところが、大石正巳が飛び出して非政友合同の新政党を作るという記事があった。
 「これは駄目だ。加藤がどうであろうと、党の幹部がこういう手近い所へ眼をつけて騒ぐ所へ乃公がこんなことを言っても駄目だ、これはまだ早い」
 と思って、加藤に行くことは止めた。ところが木内重四郎に会った。
 「君、加藤に会ったら、言ってくれ。実は今日訪ねようと思ったが、都合があって止めた。
 乃公は加藤に非常に満足を与える意見を持っているから、いずれ近日会って話すと、こう言ってくれ」
 と言って、伝言を頼むと、
 「それは何ですか」
 と閣くのだ。
 「いや、それは言われぬ。近日乃公が会ったら、必ず加藤に満足を与えることが出来る。
 ただそれだけ言うておいてくれ」
 と頼んでおいた。
 それから暫くたって、又新聞に非政友合同が破れて、新政党は流産したという記事があった。
 これは年中行事だ。毎年起きる問題だが、いつでも党の七分までは傾いても、後の三分で破れる。
 大石などが飛び出しても、何が出来るものか。又例によって例の如しだ。
 そこで加藤に会うべき時機が来た。十一月六日であった。加藤に来てくれと言ってやると、早速来た。
 「実は先日君を訪ねるつもりであったが、大石が新政党組織で騒いでいるということであったから、一時見合わせたが、丁度木内に会ったので、君に満足を与えるだけの意見を持っているという伝言を頼んでおいた。実はこういうことだ」
 と言って、高橋に話した通りの趣意を述べ、かつ
 「実は高橋にはすでに先月会って、委細話しておいた。
 非常に満足して、必要の時は、いつでも出席するということであった」
 と言うと、加藤もこれには驚いた。
 「実は自分も桂内閣の時に、入れということで、その条件は政党内閣にするということであったから、入閣(大正二年一月)したところ、不幸にしてあの人は早く死なれた。
 外には人もおらず、そういうことを言ったところで、とても出来はしないと思っておりました。
 今日意外のお話を承って、実に有難い」
 とこれも非常に喜んだ。
 「それではその会合の時期は、適当と思う時に、僕から知らすこととしよう。君たちがやると、かえって面倒だ。
 その大体の趣意は、政党存在の意義を明らかにすると共に、政党内閣でなければならぬ。
 これ以外のものは何者の立つをも許さぬということにしたいのだ。
 いずれ時期が来れば、僕から知らすから」
 ということを約した。
 これは山本内閣の時であったが、我輩はこの内閣の命脈は決して長くないと見たから、その総辞職という時にどっとやるつもりであった。

      三 

 ところが図らずも虎の門の不祥事件が突発して、山本内閣は倒壊する。
 引き続いて又もや変態の清浦内閣が出来た。もう遅疑してはおられぬ。時期は今だ。
 先年、三党首の会合をやったのは、枢密顧問官のままであったが、在官の身で、再びこういうことをするのは、はなはだよろしくない。
 まず自分の身から決めてかかろう。即ち辞表を提出しようと、こう決心した。
 ところが手続をどうしてよいやら、一向わからぬ。
 丁度そこへ松本剛吉(貴族院議員)が御不沙汰したとか、なんとか言って、やって来たから、
 「乃公は今度顧問官をやめるつもりだ。
 足の裏へ飯粒がくっついたような気がするから、辞めたい辞めたいと思いながら、今日に及んだ。
 今度はいよいよ辞める決心だが、その手続がわからぬ。辞表の趣意はこうだ。
 それを手紙の端へ書いて、郵便でも何でもよいから、枢密院の書記官長へ宛てて出してくれ」
 と頼んだ。勿論辞表の趣意を話したばかりで、辞職の真意は、決して告げなかった。
 さて我輩がいよいよ辞職するについては、これまでの経過を一通り挙げておかねばならぬと思ったから、古島一雄(文筆家の政治家)にちょっと来てくれと、電話で呼び寄せた。
 これに最初からの関係を、ざっと書かせておいて、辞表を出すと同時に、どっとやり出すつもりであった。
 ところが松本剛吉から電話がかかって来た。
 東京へ帰って、辞表提出の運びをつけたところが、不同意の人が多い。
 しばらくお見合わせになった方がよかろうということだ。
 我輩は何もそんなことを頼みはしない。
 我輩の言った通りに、出してくれさえすれば、それでよいのだ。
 それで取次のものに、
 「貴様には頼まぬと言ってくれ。乃公が勝手にやる」
 と告げ、古島に向かって、
 「乃公は辞表一つのために、東京に帰れぬから、その手続を松本に頼んでおいた。
 ところが今の始末だ。貴様一つその手続をやってくれ」
 と言ったが、これも生まれてから、そんなことをやったことがないから、どうしてよいやら、更にわからぬ。
 我輩が松本に書かした辞表の趣意は、
 「辞表には仮病を使ってはいかんぞ。
 わが官界の慣例で、辞職するというと、万人が万人皆病気と称する。
 これは陛下を欺き奉るというもので、誠に不都合だと思っている。乃公は決してそういうことは出来ぬ。
 病気で御免を願うということは言わぬ」
 というのである。それで古島に言って、
 「感ずる所あり、自免仕る」
 と書かせた。
 職務御免と書くところを、自免と書いたのだ。この自免ということには、聊(いささ)か理由もあるがね。
 辞表の書き方は、誰も知らぬ。古鳥も知らぬものだから、その通りに書いた。
 「これは枢密院議長に出すんだろうな」
 と言うと古島も、
 「そうでしょう。用紙は美濃紙ではないでしょうか」
 と言うから、
 「そうかもしれぬ」
 と言って、美濃紙を持って来いと命じたところが、無い。
 「障子紙ではいかがでしょうか」
 と言って、巻紙のようになった障手紙を持って来た。
 これを切って、今の感ずる所ありの文言を大きく書いた。
 「郵便でもなんでもよい。枢密院へ送ってくれ」
 と頼んだが、古島はその日、用事も済んだから、この辞表と顛末書とを携えて、その晩、東京に帰った。
 帰ったらすぐ翌日、あらゆる新聞社を集めて、これを示すという手順であった。

      四 

 我輩は一月十五日、熱海を立って、帰京する予定であった。
 そこで朝早く、湯殿に行って、手水を使っていると、例の地震だ。
 亜鉛屋根に板囲いであるから、潰れはしない。その代わり軽いから、いや動くの動くのおもしろいように動く。
 ようやく止(や)んだから、出て来たが、いずれどこか損じたに相違ない。
 「いや出鼻にかようなものを見るのはよくない。これは一切見ぬことにしよう」
 と思いここの二階へ上がって来て、窓を開け向こうの鎮守の祠を拝んだばかりで、どこも見なかった。
 前日から船を頼んで置いたが、この地震で、汽船は出ぬ。これには困った。ところが、
 「石油発動船なら行けます、少し御辛抱さえなすって下されば」
 ということで、
 「それでもかまわぬ」
 と言って、それに乗ったが、小さい発動船だ。特に地震の後だから、海はなかなか荒れる。
 どしどし横波を食って、船はさながら毬を転がす如くだ。
 「国府津に横着けに出来さえすればよい」
 と言って、苫(とま)をかぶって出かけた。とかくしてようやく国府津に着いた。
 ここに上がれば大丈夫だと思って、さて上陸して見れば、目途(めあて)がはずれた。
 「汽車は大丈夫か」
 と開くと、
 「いや、東の方へは電信も、電話も、一切不通で、どうなっているやら、わけがわかりません。
 これから試運転をやりますが、その上でないと、見当がつきません。
 それには四時聞か、五時間はかかろうと思っております」
 ということで、これはあてにはならぬ。
 「自動車はどうだ」
 と言うと、
 「自動車はあっても、運転手が一人もおりませぬ」
 ということで、これにも又困った。
 「どうかならぬか、小田原へ電話をかけて、呼び寄せてくれぬか。
 行ける処まで行ってくれれば、どこかで汽車に乗ることが出来るだろう」
 と言って、ようやく自動車を雇ってもらい、それに乗って出かけた。
 そのうちに自動車が向こうからやって来た。
 「あちらの様子はどうか」
 と聞いたが、途中から出たので、何にもわからぬ。
 だんだん東へ進んで行くうち、何とか新聞という札を立てて、地震の視察にやって来た。
 「どこから来たか」
 と聞くと、
 「横浜から来ました」
 と言うのだ。
 「それなら行ける。やれやれ」
 と励まして、横浜まで飛ばしたが、やはり汽車には乗れぬ。
 とうとう東京の宅まで乗りつけたが、どうも自動車が揺れたので、腰から下は、まるで棒のようになった。
 東京ではこの地震では無論戻らぬものと思っていた。
 そこへ品川から電話で知らしたから、宅のものも驚いたようなことだ。

      五 

 我輩が帰京したと聞くや、もうその晩から人々がやって来る。
 それぞれ打ち合わせの結果、いよいよ十八日の午後二時、高橋、加藤、犬養の三党首を我輩の宅へ集めることに決した。
 そこで木内を呼んで、当日ぜひ来会するよう、加藤に通じてくれと頼んだ。
 ところが木内が又やって来て、
 「加藤は十八日には、拠所(よんどくろ)ないことがあって、行かれないと申すことです」
 と言うから、
 「それは怪しからぬ。何をおいても来ねばならぬ」
 と烈しく言うと、木内も大いに困り、
 「これで御免蒙ります」
 と言って、逃げてしまった。しかたがないから、久原(房之助)を呼んで、
 「どうも加藤という男は、窮屈な奴じゃ。まだびくびくしている。
 もしいよいよ来ねば、憲政会の本部に乗り込んでやる。
 総裁が重いか、党が重いか、その決心を叩いてやる。そう言って来てくれ」
 と言った。久原はそこまでは言わなかったであろうが、強い意味で、
 「お出でなすったらどうか、重大の問題だから」
 と言うと、加藤は、
 「いや実はその日は親族の用で、拠所なく行けないから、日を変えてもらいたい」
 と言うのだ。それは出来ぬと言うと、
 「それでは二時を四時になりとしてもらいたい」
 ということであった。木内にもそう言ったが、あれが、
 「それはいけますまいぜ。
 あなたは前に承諾しておられるから、今更行かぬというわけにはいかぬ。
 何とか繰り合わせて、お出でなすったらどうか」
 と言うと、
 「どうも実に圧制だ。日も許さぬ、時も許さぬ、年寄だからどうもしようがない」
 と言ったそうだ。我輩はそれを聞いたから、
 「それなら心配はない。きっと来る。
 あれの頭に年寄だからしようがないという考えがあれば、必ず来る。
 こういう味わうべき一言があれにあれば、もう心配はない」
 と言ったが、加藤ははたして予定の時刻にやって来た。

      六 

 加藤と前後して、高橋も来た。犬養も来た。三党首皆揃うた。
 そこで我輩が一通り憲政擁護のため、三派連合の必要を説くと、いずれも異議なく賛成して、護憲三派の結合がいよいよここに成り立ったのだ。
 加藤もこれで大いに安心したと見えて、あれほど差し支えがあると言ったにもかかわらず、尻を据えて、いろいろの話をするようなことだ。
 まさか、
 「もう用事は済んだ、君急ぐなら帰れ」
 と追っ立てるわけにもいかぬ。
 「僕としてはこれで言うことはないぜ。これからは君らでやれ」
 と挨拶し、更に、
 「新聞社の写真班がやかましく言うから、一つ面(つら)を貸してやろうじゃないか」
 と言って、写真を撮らせた。
 それが済むと、加藤は、
 「今日はこれで御免を蒙ります。必要の時は、いつでも出ますから」
 と言って、まず帰った。
 そこで代表的について来ておった小泉策太郎(分筆家の政治家)、古島一雄の二人を呼んで、高橋、犬養の二人から、一通り今までのことを話すと、小泉、古島の二人は、各新聞記者を集めて、その顛末を報告し、各新聞はその翌朝の紙上において、一斉に発表したのである。
 当日、協議の席に列したのは、ただ我輩と三党首ばかりて、他は何人をも入れない。新聞記者の如きも
 「協議が済んだら、知らせるから」
 と言って、その席には臨ませなかったのだ。写真班は別だがね。
 会見全く終わって、一同退散したのは、三時半であった。我輩の目的はこれで達した。
 もはや滞京の必要もない。
 あとは君たちに頼む、よろしくやってくれということで、その翌十九日、どっとこの熱海に来てしまったのである。
 当日、我輩の述べた趣意は、

 「老体此度巳むを得ず、御苦労を願った処、御多忙の際にも拘らず、御出で下されて、洵に有難い。
 さて時局に対する各位の御意見、並びに各政党政派の現内閣に対する態度も、已に決定して居ると承知して居る以上、僕の申上げることは、一の蛇足に過ぎないが、此の度の政変に対し、若し各政党が此侭之れを黙過したならば、憲政の破滅を来すと同時に、国家民人の休戚は素より、皇室の御安泰にも重大なる影響を及ぼす虞れがある。
 斯の如く憲政の進路を遮断するものに対しては、何人を問わず、国家の為め、憲政の為め、何を措いても、奮起せねばならぬ事と信ずる。
 既に各位の目的も定って居る以上、此の上は只各位の一致協力に侯つ外はない。
 例えば同一の目的を以って、既に一軍は品川に到著し、一軍は板橋に、又一軍は千住に進軍して居る。
 いよいよ東京に入ったら、此の三即ち一にならねば、所謂仏造って魂入れぬの恨みがある。
 僕が職を辞したのも、困難な旅行を冒して帰ったのも、只此の魂を入れたい老婆心に他ならぬ。
 各位から『其の通り』という御一言を承わり、老人の本懐之れに過ぐるものはない。
 あとは各位が御相談に相成って、夫々実行に取掛られれば、それで宜いのである。
 老人は直ちに山荘に帰って、遙かに此の協議の進行を、一日千秋の思いで待って居る」
 というので、三党首の申合は、

    申合
 憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期する事。

 というのであった。
 その三党首の会合について、方々から書面が来たが、批難攻撃はちっともない。
 中にはあまりにありがた過ぎるような手紙もある。又頗る丁寧な手紙も沢山ある。
 その中でよいと思う、ものだけは、保存してある。
 その三党結合の目的は、その申し合わせにもある如く、政党内閣制の確立にあるのである。
 清浦内間の倒潰の如きは、ただその進路の障害物を取り除くくらいのもので、真の目的ではない。
 真の目的は全く政党内閣制の確立にあることを忘れてはならぬ。

   『三浦梧楼の政界回顧録』より

☆第二次護憲運動関係略年表

<1923年(大正12)>
・1923年12月27日 虎ノ門事件(皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が狙撃を受けた暗殺未遂事件)が発生し、山本内閣が総辞職する

<1924年(大正13)>
・1月1日 貴族院を基礎とする清浦奎吾に組閣の命が下る
・1月7日 清浦奎吾内閣が発足する
・1月15日 政友会幹部会で議論したとき、高橋総裁は"反清浦"を旗印に、自ら次期総選挙に立候補する考えを表明する
・1月17日 "親清浦"派は、に脱党を表明する
・1月29日 政友本党(床次竹二郎総裁)が結党され、清浦奎吾内閣の与党となる(残留組129名、脱党組149名)
・1月31日 清浦内閣は衆議院解散に踏み切る
・1月18日 退役陸軍中将三浦梧楼の斡旋によって高橋・加藤・犬養の三総裁が党首会談に臨み、護憲三派を結成し、「清浦内閣を倒して憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期すこと」で互いに合意する
・1月20日 三党の幹部の会合にて、「政党内閣を確立すること、特権勢力の専横を阻止すること、将来もまた一致の行動をとること、清浦内閣を否認すること」を盟約する
・1月31日 清浦奎吾内閣は議会を解散する
・5月10日 第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派からは286名(憲政会152名。政友会102名。革新倶楽部30名)が当選、護憲三派の圧勝に終わる
・6月7日 清浦奎吾内閣が総辞職する
・6月11日 第一党総裁の加藤高明に内閣組閣の大命が下り、加藤高明内閣が発足(政友会から2名、革新倶楽部から1名入閣)、2年ぶりに政党内閣が復活する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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