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 今日は、江戸時代後期の1804年(文化元)に、象潟地震が起こり、大きな被害が出て、景勝地・象潟湖の湖底が隆起し、湖が陸地化した日ですが、新暦では7月10日となります。
 象潟地震(きさかたじしん)は、この日の午後10時頃に、出羽国(現在の秋田県と山形県の県境付近)で発生した大地震で、マグニチュードはMw=7.1と推定(異説あり)されました。これによって、多数の家屋や寺が倒壊して火災も発生、土手は裂け、無数の地割れから泥水を吹き出し、津波も起きたとされています。
 この結果、由利郡、飽海郡、田川郡で特に被害が激しく、本荘藩、庄内藩領内周辺では5,500軒余(内本荘領1770軒、庄内領2826軒)の家が潰れ、死者366人(内本荘領161人、庄内領150人)の被害が出ました。本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、羽黒山では灯籠が倒れ、当時は松島と並ぶ景勝地として知られていた、象潟湖が地震の影響により隆起し、陸地や沼と化します。
 『文化日記』によると、江戸幕府は、本荘藩主六郷政速に金2千両を貸与し、救援しました。
 以下に、雷電爲右エ門著『諸国相撲和帳(雷電日記)』による象潟地震の記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇雷電爲右エ門著『諸国相撲和帳(雷電日記)』による象潟地震の記述

(文化元年)八月五日(秋田を)出立仕り候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ、道中にて六合(現在の由利本荘市)より(酒田街道を)本庄塩越通り致し候ところ、まず六合より壁こわれ、家つぶれ、石の地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越(現在のにかほ市象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺杉木地下へ入りこみ、喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまで水あり、塩参り節(満潮時)はくびまでもこれあり候。その形九十九島あると申す事に御座候。大じしんより、下よりあがりおか(陸地)となり申し候。その地に少しの舟入り申し候みなと(港)もあり、これもおか(陸地)となり申し候。 (聞き書きとして)「六月四日、夜四つ(午後十時)の事に御座候。地われ(割れ)て水わき出ず事甚だしきなり。年寄、子供甚だなんじゅう(難渋)の儀に候。馬牛死す事多し。酒田まで浜通り残りなしいたみ多し。酒田にて蔵三千の余いたみ申し候と申す事に候。酒田町中われ、北がわ三尺ばかり高くなり申し候とのことに候。長鳥山(鳥海山)その夜、峰焼け出し、岩くづれ下ること甚だしきなり。(八月)七日に鶴ヶ岡へ着き仕り候。

 雷電爲右エ門著『諸国相撲和帳(雷電日記)』より

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