福原遷都(ふくはらせんと)は、平清盛が京都から摂津の福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区・中央区付近)に一時的に都を移したことでした。1179年(治承3)に、清盛はクーデターを実行し、後白河院を幽閉して実権を握り、自ら軍事的独裁政治を開始しましたが、比叡山延暦寺の衆徒を強く刺激します。
翌年には、源頼政が以仁王 の令旨を諸国の源氏に伝えて決起を促したものの、宇治川の戦いに敗れ、鎮圧されました。しかし、この影響が広がる中で、突然に安徳天皇、高倉上皇を伴ってみずからの根拠地福原への遷都を強行したものです。
遷都後は、延暦寺の衆徒の蜂起が起き、平宗盛など一門の主張もあって、都城造営も進まぬうちに、同年11月には、再び京都(平安京)に都を戻さざるをえませんでした。この遷都は、平氏政権の威信を下げるものになったとされています。
以下に、このことを描いた『方丈記』の福原遷都の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
翌年には、源頼政が以仁王 の令旨を諸国の源氏に伝えて決起を促したものの、宇治川の戦いに敗れ、鎮圧されました。しかし、この影響が広がる中で、突然に安徳天皇、高倉上皇を伴ってみずからの根拠地福原への遷都を強行したものです。
遷都後は、延暦寺の衆徒の蜂起が起き、平宗盛など一門の主張もあって、都城造営も進まぬうちに、同年11月には、再び京都(平安京)に都を戻さざるをえませんでした。この遷都は、平氏政権の威信を下げるものになったとされています。
以下に、このことを描いた『方丈記』の福原遷都の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『方丈記』福原遷都
<原文>
また、治承四年[1]水無月の比[2]、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京[3]のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇[4]の御時、都と定まりにけるより後、既に四百余歳[5]と経たり。ことなるゆゑ[6]なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことはりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて[7]、帝[8]より始め奉りて、大臣・公卿[9]みな悉くうつろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。官・位に思ひをかけ、主君のかげ[10]を頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ[11]世に余されて[12]期する所なきもの[13]は愁へながら止まり居り、軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。家はこぼたれて[14]淀河に浮び[15]、地は目のまへに畠となる。人の心みな改りて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用する人なし[16]。西南海[17]の所領を願ひて、東北[18]の庄園を好まず。その時、おのづから事の便りありて、津の国[19]の今の京[20]に至れり。所のありさまを見るに、その地、程狭くて条里を割る[21]に足らず。北は山に沿ひて高く南は海に近くて下れり `波の音常にかまびすしく[22]て塩風殊にはげしく内裏は山の中なればかの木丸殿[23]もかくやとなかなか様変はりて優なるかたも侍りき。日々に毀ち川もせきあへず運びくだす家はいづくに作れるにかあらん。なほ空しき地は多く作れる家は少なし。古京[24]はすでに荒れて、新都[25]はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひ[26]をなせり。もとよりこの処に居たる者は地を失ひて愁へ今移り住む人は土木の煩ひあることを嘆く。道の辺[27]を見れば車に乗るべきは馬に乗り衣冠布衣[28]なるべきは直垂[29]を著たり。都のてぶり[30]忽ちに改りてただ鄙びたる[31]武士に異ならず。これは世の乱るる瑞相[32]とか聞きおけるもしるく日を経つつ世の中浮き立ちて人の心も治まらず民の愁へ遂に空しからざりければ同じ年の冬なほこの京[3]に帰り給ひにき。されど毀ち渡せりし家どもはいかになりにけるにか。悉くもとのやうにも作らず。ほのかに伝へ聞くにいにしへの賢き御代[33]には憐みをもて国を治め給ふ。即ち御殿に茅を葺きて軒をだに整へず[34]。煙の乏しき[35]を見給ふ時は限りある貢物[36]をさへ免されき、これ民を恵み世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中の有様昔になぞらへて知りぬべし。
【注釈】
[1]治承四年:ちしょうよねん=1180年のこと。
[2]水無月の比:みなづきのころ=6月2日。
[3]この京:このきょう=平安京(京都)のこと。
[4]嵯峨の天皇:さがのてんのう=桓武天皇の誤り。
[5]四百余歳:よんひゃくよねん=正確には平安遷都後386年で、多少誇張しているか。
[6]ことなるゆゑ:ことなるゆえ=特別な根拠。
[7]いふかひなくて:いうかいなくて=言っても始まらないので。
[8]帝:みかど=安徳天皇のこと。
[9]大臣・公卿:だいじん・くぎょう=摂政・関白以下、参議以上の現官と三位以上の有位者の貴族のこと。
[10]主君のかげ:しゅくんのかげ=主君の威光。
[11]時を失ひ:ときをうしない=出世の機会を失う。
[12]世に余されて:よにあまされて=世間から取り残されて。
[13]期する所なきもの:ごするところなきもの=将来に希望の持てない人。
[14]こぼたれて=取り壊されて。
[15]淀河に浮び:よどがわにうかび=家を壊した木材が筏となって淀川を流れ下って、福原まで運ばれたことを表現している。
[16]牛・車を用する人なし:うしくるまをようするひとなし=(公家風に)牛や車を使用する人がいない。
[17]西南海:せいなんかい=再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)のことで、平氏の勢力範囲だった。
[18]東北:とうほく=東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)のことで、源氏の勢力範囲だった。
[19]津の国:つのくに=摂津国のこと。
[20]今の京:いまのきょう=福原京のこと。
[21]条里を割る:じょうりをわる=土地の区画をする。
[22]かまびすしく=やかましく。騒々しく。うるさく。
[23]木丸殿:きのまろどの=削ったりみがいたりしない質素な丸木造りの宮殿。黒木造りの御所。とくに福岡県朝倉郡朝倉町にあった斉明天皇の行宮のこと。
[24]古京:こきょう=平安京(京都)のこと。
[25]新都:しんと=福原京のこと。
[26]浮雲の思ひ:うきぐものおもい=落ち着かない気持ち。
[27]道の辺:みちのべ=道のほとり。道ばた。また、道。
[28]衣冠布衣:いかんほい=公家男子の服装の一種。
[29]直垂:ひたたれ=武士の服装。
[30]てぶり=ならわし。風習。風俗。
[31]鄙びたる:ひなびたる=いなかふうになる。いなかくさく、やぼったくなる。いなかびる。
[32]瑞相:ずいそう=きざし。前兆。
[33]賢き御代:かしこきみよ=賢帝が治めていた時代。
[34]軒をだに整へず:のきをだにととのえず=軒さえ切り揃えなかった。
[35]煙の乏しき:けむりのとぼしき=民のかまどから上がる煙が少ない。
[36]貢物:くもつ=支配者に差出されるみつぎ物。領主に納入する年貢。
<現代語訳>
また、治承4年(1180年)6月の頃、急に遷都が行われた。とても予想外の事であった。だいたい、平安京の始まりを聞いていることには、嵯峨天皇の時代に、都として定まったより後、すでに400余年を経ている。特別な根拠もなくて、軽々しく変更すべきものでもないので、これを世間の人が不安に思って心配し合ったのも、実に当然の事であった。しかし、とやかく言っても始まらないので、安徳天皇をはじめ、大臣・公卿の全員がすべて移転してしまった。朝廷に仕えるほどの人であったならば、誰一人旧都に残るであろうか。`官位の昇進に望みをかけ、主君の威光を頼みとするほどの人は、一日でも早く移ろうと励み、出世の機会を失い世間から取り残されて将来に希望の持てない人は、愁えながら旧都に留まっていた。軒を並べていた人家は、日を経るごとに荒れていった。家は取り壊されて、家を壊した木材が筏となって淀川に浮かび、宅地は見る見るうちに畠となってしまった。人の考え方もみな改って、ただ(武家風に)馬・鞍ばかりが重宝とされている。(公家風の)牛や車を使用する人はいない。再海道(紀伊・淡路・四国)と南海道(九州)の所領を願って、東国(東海道・東山道)と北国(北陸道)の庄園は好まれない。その時、私(鴨長明)はたまたま用事のついでに、摂津国の福原京に行ってみた。その所の有様を見ると、その土地は、狭くて土地の区画をするのに足らない。北は山に沿って高く、南は海に近くて低くなっている。波の音は常に騒々しくて、塩風はとりわけ激しく、内裏は山の中なので、かの筑前朝倉に斉明天皇の造った行宮ももこうであったかと、なかなかに風変わりな情趣も感じられた。日々壊して、淀川もいっぱいになるほどに筏にして運び下す家は、どこに再建されたのであろうか。尚、空地は多く、建てられている家は少ない。平安京はすでに荒れて、福原京はいまだ完成されていない。ありとあらゆる人々は、みな落ち着かない気持ちでいた。以前からこの地にいる者は、土地を失って悲しみ、今移り住んできた人々は普請の煩わしさを嘆く。道路を見れば今までは牛車に乗るはずの公家が馬に乗り、公家男子の服装であるべき者は武士の服装を著ている。都の風俗はまたたく間に改まって、ただ田舎くさい武士に異ならない。これは世の中の乱れる前兆と聞いていたが全くそのとおり、日を経るにつれて世の中は騒がしくなり、人の心も動揺し、民衆の愁えはとうとう現実となったため、同じ年の冬、ついに平安京に還都された。しかし、破壊してしまった家々はどうなったのか。ことごとく元のように再建されたわけではなかった。わずかに伝え聞くところによれば、古代の賢帝が治めていた時代には、愛情をもって国を治められたという。すなわち、御殿に茅を葺いても、軒さえ切り揃えなかった。民のかまどから上がる煙が少ないをご覧になった時は、決められた税をさえ免ぜられた、これは、民に恩恵を与え、世を救済されたいとの思いからである。今の世の有様は、昔と比べて理解すべきである。
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