ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年04月

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 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)の投票が行われ、翼賛政治体制協議会の推薦者が466議席中381議席を占めることとなった日です。
 翼賛政治体制協議会(よくさんせいじたいせいきょうぎかい)は、昭和時代前期の1942年(昭和17)2月23日に、第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)のために、軍部、大政翼賛会、財界、農業団体、貴衆両院、その他の代表33名を招き、元首相阿部信行陸軍大将を会長として発足した政治結社で、略称は「翼協」と言いました。太平洋戦争下の1942年(昭和17)2月18日に、東条英機内閣では、帝国議会を翼賛議会に転換させるため、来る第21回衆議院議員総選挙に備え、候補者の推薦制度を導入することをこの日の閣議で決定したものの、政府による候補者の推薦は重大な選挙干渉になるとされます。
 そこで、同月23日に、この政治結社を発足させ、民間による自発的な運動という体裁を調えました。道府県単位の支部を結成し、会長が地元の有力者742名を支部長と支部会員に任命すると共に、政府にかわって軍部や警察が集めた情報をもとに、衆議院の総定数と同じ466名を推薦し、その選挙運動を展開します。
 これらの推薦候補者は選挙資金の援助を受けるなど、全面的な支援を受け、選挙戦を有利に戦ったとされ、4月30日の投票では推薦候補が381名が当選し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。これによって、目的を果たしたとして、5月5日には解散しています。
 この時当選した議員を中心として、5月20日には翼賛政治会が結成され、挙国一致の政治体制が強化され、戦争を遂行するための政治が進められていきました。 

〇翼賛政治会(よくさんせいじかい)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)5月20日に、東条英機首相が議会に対する支配を確立するため、挙国一致の政治体制強化を目的として結成された政治結社です。
 1940年(昭和15)10月12日に大政翼賛会が結成され、日本型ファシズム体制が成立し、翌年12月8日の太平洋戦争開戦へと至りました。東条内閣は「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941年12月19日公布)や「戦時刑事特別法」(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め、太平洋戦争緒戦の勝利を利用して、1942年(昭和17)4月30日に翼賛選挙を実施します。
 それに向けて結成されていた、翼賛政治体制協議会は推薦候補者の内381名の当選者を出し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。しかし、東条内閣はこの政治団体以外のいかなる政党をも許容しないという方針を明らかにし、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用、同月14日には、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送します。そして、同月20日に衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名、貴族院においても411名中326名、大政翼賛会関係者、言論界・財界・産業組合など各種団体などの代表者、元翼協支部長など、900余名を集めて創立総会を開き、総裁には阿部信行大将(元首相)が就任しました。
 綱領には、①国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す、②憲法の条章に恪遵し翼賛議会の確立を期す、③大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す、④大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す、を掲げます。3日後には、東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになり、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになりました。
 しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、1944年(昭和19)7月に、東条内閣退陣に替わって小磯国昭内閣になり、二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任するとともに結束力が弱まり、翌年2月12日に小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥ります。そして、3月10日に大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成、翌日には岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言するに至りました。
 その中で、3月30日に翼政会は解散して、替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会に改組されています。
 以下に、翼賛政治会宣言(一部)と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇翼賛政治会宣言と綱領 1942年(昭和17)5月20日 

<翼賛政治会宣言>

 東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するのは、畏くも大詔に明示し給うところなり、帝国は今や古今未曾有の世界動乱に際し、大東亜戦争完遂に邁進す。洵に曠古の大業なり。皇師一たび出でて、赫々の戦果は世界を震撼せりと雖も、大業の前途は尚遼遠なり。すなわち国民の政治意識を昂揚し、挙国的政治力を結束し、次て国家の総力を発揮し、戦争目的を貫徹せざるべからず。惟ふに此の戦時下敢て総選挙を施行せられたるは、清新強力なる議会の確立を庶幾せられたるものにほかならず。而して総選挙の結果は滂湃(ほうはい)たる国民熱意の嚮(むか)ふところ明かにせり。これ正に一挙翼賛政治体制を確立して、必勝の挙国態勢を完成すべきの秋なり。
 翼賛議会の要は清新なる政治力を以て派閥抗争を一掃し、一地一職域の利害に拘らず、真に国家的見地に立ち公議公論の府として政府に協力するにあり。議会翼賛の大道また実にここに存す。
 本会は国民各界に亘り政治翼賛の総力を凝集し、以て国政運行に協力せんとす。而して翼賛政治体制の確立は、挙国的国民運動の基礎の上に立たざるべからず。因て本会は大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相倶に大政翼賛運動の徹底を期せんとす。
(以下省略)
 
<翼賛政治会綱領>

一、国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す。
一、憲法の条章に恪遵(かくじゅん)し翼賛議会の確立を期す。
一、大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す。
一、大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す。
 
☆翼賛政治関係略年表

<1940年(昭和15)>

・10月12日 大政翼賛会が結成される

<1942年(昭和17)>

・2月18日 来る第21回衆議院議員総選挙に備え、候補者の推薦制度を導入することをこの日の閣議で決定したものの、政府による候補者の推薦は重大な選挙干渉になるとされる
・2月23日 軍部・大政翼賛会・財界・農業団体・貴衆両院・その他の代表33名を招き,元首相阿部信行陸軍大将を会長として、翼賛政治体制協議会が結成される
・4月30日 第21回総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得する
・5月5日 翼賛政治体制協議会が目的を果たしたとして解散する
・5月7日 内閣総理大臣東條英機は、政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用する
・5月14日 現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送する
・5月20日 翼賛政治会が結成され、初代総裁には翼賛政治体制協議会会長の阿部信行元内閣総理大臣がそのまま横滑りし、衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名が参加する
・5月23日 東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになる貴族院の院内会派は成立時以来の建前上、会派がまとまって政治活動はしないこととなっていたため、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになる
・6月23日 政府は大日本産業報国会(産業報国運動)、大日本婦人会、大日本青少年団などの官製国民運動6団体を大政翼賛会の傘下に統合する
・8月14日 部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に、隣組長を世話人にすることを決定する

<1944年(昭和19)>

・7月 東條英機に替わって小磯国昭朝鮮総督が後任の内閣総理大臣となり、替わりの朝鮮総督に阿部総裁が任命される
・8月 二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任する
・12月 小磯内閣の国務大臣に任命された小林は小磯首相から本土決戦に備えて大政翼賛会や翼政会の改組を指示される

<1945年(昭和20)>

・1月20日 大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・翼政会を解散させる替わりに大政翼賛会の地方部門と翼政会を統合して、全国民を統合する新党を結成する方針が翼政会代議士会で了承される
・2月12日 小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥る
・3月1日 小林は国務大臣を辞任して新党結成と反対派説得に尽力する
・3月8日 新党の設立準備委員会結成の時点で、小林の新党構想は破綻状態になる
・3月10日 大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成する
・3月11日 岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言する
・3月30日 翼政会は解散して替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、明治時代前期の1886年(明治19)に、「華族世襲財産法」(明治19年勅令第34号)が公布(施行は同年8月1日)された日です。
 「華族世襲財産法」(かぞくせしゅうざいさいほう)は、華族所有の財産を保護するために公布された勅令(明治19年勅令第34号)でした。華族は、幕末明治維新期の1869年(明治2)の「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」(明治2年太政官達)によって、旧公卿・諸侯の身分呼称として定められ、1877年(明治10)5月21日には、華族銀行とも言うべき第十五国立銀行の創設による華族財産の特別保護と管理などが行われるようになります。
 さらに、1884年(明治17)7月7日に制定された「華族令」(明治17年宮内省達無号)で、日本における公・侯・伯・子・男の5爵による華族制度が確立し、1889年(明治22)制定の「貴族院令」により、公・侯爵全員、および伯・子・男爵は互選で貴族院議員となれる政治的特権が付与されました。しかし、中小の華族層の場合には、杜会的状況の変化や個人的理由によって、その所有財産の安定性は必ずしも確固たるものではなく、この勅令を公布し、華族所有の財産を保護しようとしたものです。
 これによって、華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るようになり、公告の手続によって世襲財産を設定する義務が生まれました。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかったものの、華族の意志で運用することも出来なくなります。尚、その後、債権者からの抗議もあって、1915年(大正4)には、当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになりました。
 これらの特権によって、華族は、皇族と並ぶ特殊な身分を形成し、天皇制維持の一基盤となってきたものの、太平洋戦争敗戦後の1946年(昭和21)3月13日に「華族世襲財産法」は廃止され、「華族令」も、「日本国憲法」制定で、1947年(昭和22)5月2日限りで廃止されています。
 以下に、「華族世襲財產法」(明治19年勅令第34号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「華族世襲財產法」(明治19年勅令第34号)

第一條  華族戶主滿二十年以上ノ者ハ此法ニ依リ世襲財產ヲ創設スルコトヲ得但滿二十年以下ノ者ト雖モ前代戶主ノ遺言アルトキハ世襲財產ヲ創設スルコトヲ得

第二條  世襲財產ハ總テ家督相績者ヲシテ之ヲ相續セシムルモノトス

第三條  世襲財產ハ左ニ揭クル所ノ二類ニ限ル但第十五國立銀行旅券ハ第二類ニ準シ世襲財產ト爲スコトヲ得

第一類  田畑山林宅地鹽田牧場池沼等

第二類  政府發行ノ公債證書又ハ政府ノ保證若クハ特別ノ監督ニ屬スル銀行若クハ會社ノ株券

第四條  世襲財產ハ前條二類中ノ一種又ハ數種ニシテ其總額每年金五百圓ニ下ラサル純收益ヲ生スル財產タルヘシ但其財產中收益ナキ地所ヲ加フルモ妨ケナシ

第五條  世襲財產ノ所有者ハ時ニ世襲スヘキ建物庭園圖書寶器等ヲ以テ世襲財產附屬物ト爲スコトヲ得

第六條  負債償却ノ義務アル財產ハ世襲財產及ヒ附屬物ト爲スコトヲ得ス

第七條  世襲財產ノ所有者ハ宮內大臣ノ認可ヲ得テ其財產ヲ增加スルコトヲ得

第八條  世襲財產ノ所有者ハ宮內大臣ノ認可ヲ得テ第二類ノ財產ヲ更換シテ第一類ノ財產ト爲スコトヲ得但第一類ヲ第二類ト爲スコトヲ得ス

第九條  第一類ノ財產若シ災害又ハ其他ノ事故ニ依リ第四條ノ制限額ヨリ滅シタルトキハ五箇年以內ニ其缺額ヲ補充スヘシ

第十條  第二類ノ財產其元金ノ仕掛ヲ受ケタルトキハ一箇年以內ニ第一類又ハ第二類ノ財產ヲ以テ其缺額ヲ補充スヘシ

第十一條  世襲財產ノ所有者ハ其財產ノ純收益ヲ抵當トシテ負債ヲ爲スコトヲ得但每年其純收益ノ三分一以上ノ償却ヲ爲スヘキ義務ヲ負擔スルコトヲ得ス

第十二條  世襲財產ノ純收益ハ如何ナル場合ト雖モ債主ヨリ每年其三分一以上ヲ差押フルコトヲ得ス

第十三條  世襲財政及ヒ附屬物ハ之ヲ賣却讓與シ又ハ質入書入ト爲スコトヲ得ス

第十四條  世襲財產及ヒ附屬物ハ負債ノ抵償トシテ差押フルヨトヲ得ス

第十五條  世襲財產ハ左ノ場合ニ於テハ其效力ヲ失フモノトス

一 戶主死亡ノ後家督相續スヘキ男子ナキトキ

一 爵ヲ奪ハレ又ハ族ヲ除カレ家督相續者ナキトキ

一 第九條第十條ニ揭ケタル缺額ヲ其期限內ニ補充セサルトキ

第十六條  世襲財產及ヒ附屬物ハ其所有者ニ於テ之ヲ廢止スルコトヲ得ス

第十七條  世襲財產ハ宮內大臣之ヲ管理シ華族局ヲシテ其事務ヲ取扱ハシム

第十八條  華族局ハ世襲財產臺帳ヲ備ヘ置キ世襲財產及ヒ之ニ關スル事項ヲ記入スヘシ

第十九條  世襲財產ヲ創設增加更換又ハ補充セントスル者ハ其願書ニ財產目錄ヲ添ヘ宮內大臣ニ差出シ其認可ヲ受クヘシ世襲財產附屬物ヲ設ケントスル者亦同シ

第二十條  宮內大臣ハ前條ノ願書目錄ヲ審査シ第一類ノ財產及ヒ第二類ノ公債證書ハ所轄ノ地方廳ニ命シ株券ハ銀行若クハ會社ニ命シ世襲財產ト爲スヘキ旨ヲ官報及ヒ其地方一定ノ新聞紙ニ揭ケ一週日間之ヲ公吿セシムヘシ

世襲財產附屬物ハ華族局ニ於テ之ヲ公吿スヘシ

第二十一條  前條公吿ヲ了リタル後三十日ヲ經テ該財產ニ關シ故障ヲ申出ル者ナキトキハ宮內大臣ハ世襲財產臺帳ニ記入セシメ第一類ノ財產ハ所轄ノ地方廳ニ命シ地券臺帳ニ記入セシメ地方廳ハ戶長ニ命シ公證簿ニ記入セシムヘシ第二類ノ公債證書ハ所轄ノ地方廳ニ株券ハ銀行若クハ會社ニ命シ帳簿ニ記入セシムヘシ

華族局ニ於テハ該地券又ハ公債證書若クハ株券ノ券面ニ世襲財產ト爲リタル旨ヲ記入スヘシ

第二十二條  世襲財產其效カヲ失ヒタルトキハ宮內大臣ヨリ地方廳又ハ銀行若クハ會社ニ命シ之ヲ廣吿セシムヘシ

世襲財產附屬物ハ華族局ニ於テ之ヲ廣吿スヘシ

第二十三條  第二十條及ヒ第二十二條ニ關スル廣吿費用ハ其財產所有者ヨリ之ヲ華族局ニ納ムヘシ

第二十四條  世襲財產ニ關スル事件ヲ協議スルカ爲メ戶主及ヒ滿二十年以上ノ相續者若クハ後見人ト親屬三名以上トヲ以テ親屬會議ヲ組織シ豫メ宮內大臣ニ屆出ヘシ但親屬ナキトキハ宮內大臣ノ認可ヲ得テ一族又ハ他ノ華族ヲ以テ親屬會議各員ノ連署ヲ要ス

第二十五條  世襲財產ニ關スル願書屆書ハ親屬會議各員ノ連署ヲ要ス

第二十六條  此法施行ノ手續ハ宮內大臣之ヲ定ム

第二十七條  此法ハ明治十九年八月一日ヨリ之ヲ施行ス

    「ウィキソース」より

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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、内閣から「当用漢字字体表」(當→当、藝→芸などの簡略字体採用)が告示され、「当用漢字表」に掲載された当用漢字1,850字の字体を規定、略字が大幅に採用された日です。
 当用漢字表(とうようかんじひょう)は、昭和時代中期の1946年(昭和21)11月16日の「内閣訓令第7号」、「同告示第32号」で公布された、現代国語を書き表すために、日常使用する漢字1,850字の表でした。「当用」とは、日常生活においてさしあたって用いるものとでもいう意味で、「法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で,使用する漢字の範囲を示したもの」です。
 その後、1948年(昭和23)に「当用漢字別表」が公布され、881字がいわゆる「教育漢字」とされ、続いて「当用漢字音訓表」、翌年4月28日には「当用漢字字体表」(當→当、藝→芸などの簡略字体採用)が告示されて音訓と字体が定められ、公用文、新聞その他に採用され、小・中・高の学校教育にも適用されました。また別に、1951年(昭和26)に「人名用漢字別表」が公布され、当用漢字以外でも人名に用いてさしつかえないものとして92字が認められます。
 尚、1954年(昭和29)に国語審議会が「当用漢字表補正試案 (当用漢字補正資料) 」を出し、28字の入替えを提案しましたが、この漢字制限に対し、いろいろの反対論も出されました。1972年(昭和47)に国語審議会は当用漢字改正音訓表を答申して翌年公布され、これをもとに1981年(昭和56)3月23日に「常用漢字表」を答申します。そして、同年10月1日に、当用漢字にかわるものとして、当用漢字に95字を追加した「常用漢字表」が内閣告示・同訓令として公布されました。

〇「当用漢字字体表」 1949年(昭和24)4月28日告示

内閣訓令第一号
               各 官 庁
   当用漢字字体表の実施に関する件
 さきに、政府は、現代国語を書きあらわすために日常使用する漢字とその音訓との範囲を定めて、当用漢字表および当用漢字音訓表を告示した。しかしながら、漢字を使用する上の複雑さは、その数の多いことや、その読み方の多様であることによるばかりでなく、字体の不統一や字画の複雑さにももとづくところが少くないから、当用漢字表制定の趣旨を徹底させるためには、さらに漢字の字体を整理して、その標準を定めることが必要である。
 よつて、政府は、今回国語審議会の決定した当用漢字字体表を採択して、本日内閣告示第一号をもつて、これを告示した。今後、各官庁においては、この表によつて漢字を使用するとともに、広く各方面にその使用を勧めて、当用漢字字体表制定の趣旨の徹底するように努めることを希望する。
 昭和二十四年四月二十八日
        内閣総理大臣 吉田  茂

内閣告示第一号
 現代国語を書きあらわすために日常使用する漢字の字体の標準を、次の表のように定める。
 昭和二十四年四月二十八日
        内閣総理大臣 吉田  茂

   当用漢字字体表

    まえがき
一、この表は、当用漢字表の漢字について、字体の標準を示したものである。
一、この表の字体は、漢字の読み書きを平易にし正確にすることをめやすとして選定したものである。
一、この表の字体の選定については、異体の統合、略体の採用、点画の整理などをはかるとともに、筆写の習慣、学習の難易をも考慮した。なお、印刷字体と筆写字体とをできるだけ一致させることをたてまえとした。
〔備考〕
一、この表は、当用漢字表の配列に従い、字体は、活字字体のもとになる形で示した。
二、この表の字体には、(一)活字に従来用いられた形をそのまま用いたもの、(二)活字として従来二種類以上の形のあった中から一を採ったもの、(三)従来活字としては普通に用いられていなかったものがある。この表では、(三)のうち著しく異なったものには、従来の普通の形を下に注した。

 (例文省略)

〔使用上の注意事項〕
この表の字体は,活字字体のもとになる形であるから,これを,みんちょう体,ゴシック体その他に適用するものとする。
この表の字体は,これを筆写(かい書)の標準とする際には,点画の長短・方向・曲直・つけるかはなすか・とめるかはね又ははらうか等について,必ずしも拘束しないものがある。そのおもな例は,次の通りである。

 (例文省略)

当用漢字字体表
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〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1177年(安元3)京都で安元の大火(太郎焼亡)が起きる(新暦6月3日)詳細
1876年(明治9)松本市の和洋折衷建築の小学校・旧開智学校(国宝)で上棟式が行われる詳細
1948年(昭和23)「夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約」(旧)が発効する詳細
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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、浜松明治7年大火「小野組火事」が起き、死者3名、焼失家数1,335軒を出した日です。
 浜松明治7年大火(はままつめいじしちねんたいか)は、浜松県浜松宿(現在の静岡県浜松市中区)で発生した大火で、「小野組火事」とも呼ばれてきました。この日の午前第7時30分頃、伝馬町の小野組支店から出火、折からの激しい西風に煽られて、宿場中ならび近傍に残らず類焼、午前11時より南風に変わり、東は馬込村(現在の浜松市中区)まで延焼、伝馬町・旅籠町・鍛冶町・後道・平田町・平田村・塩町・大工町・利町・紺屋町・連尺町・神明町・肴町・池町・板屋町・新町・元魚町・大堀新地の十八町村に及び、ようやく出火から8時間半後の午後4時頃に鎮火します。
 この結果、浜松宿で死者3名、焼失家数1,318軒(浜松宿家数3,202軒の内41%)、被災者4,649名を出し、馬込村でも、59軒のうち17軒を焼失、主要な建物では、杉浦助右衛門本陣家、梅谷本陣家、蔵108棟、寺5ヶ所、狂言小屋(芝居小屋)1軒が焼失しました。浜松宿の東海道筋目抜き通りはほとんど灰燼に帰し、旧家に伝わる古文書・古記録も失なわれたものが多かったとされます。
 この火災を受け、浜松宿では本格的な消防組が結成されることになり、同年には、新町、田町、肴街、連尺町、伝馬町、塩町、成子町、七軒町、上新町、紺屋町、利町、大工町、元魚町、下垂町、旅籠町の15町に消防組が編成され、8年後の1882年(明治15)には、天神町、神明町、池町、平田町、板屋町、早馬町、鍛冶町の7町にも消防組が誕生しました。

〇明治時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年大火「小野組火事」(死者3名、焼失家数1,335軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする詳細
1907年(明治40)国際的に活躍した版画家斎藤清の誕生日詳細
1948年(昭和23)衆議院不当財産取引委員会で昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄(昭和電工事件)が問題化する詳細
2013年(平成25)推理作家・評論家佐野洋の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、黒澤明監督の映画『七人の侍』が公開された日です。
 『七人の侍』(しちにんのさむらい)は、監督:黒澤明、脚本:黒澤明・橋本忍・小国英雄、撮影:中井朝一による日本の時代劇映画で、モノクロ、スタンダードサイズ(207分)でした。出演は、志村喬、稲葉義男、宮口精二、千秋実、加東大介、木村功、三船敏郎ほかで、戦国時代に野盗に悩まされる貧しい農民たちが自衛のために7人の侍を雇い、野武士の襲撃から村を守って勝利するまでを描いた大型時代活劇です。
 複数のカメラを駆使(マルチカメラシステム)し、望遠レンズを多用して、ダイナミックな編集によって迫力を盛り上げた戦闘場面が秀逸で、海外での評価も高く、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)・外国男優賞(志村喬)、第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)などを受賞しました。その後、ジョン・スタージェス監督の西部劇『荒野の七人』(1960年)、ジミー・T・ムラカミ監督の『宇宙の七人』(1980年)など、この映画を手本とした作品が多く作られています。また、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」では1位に選ばれました。

〇映画『七人の侍』の受賞一覧

・ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
・キネマ旬報ベスト・テンで日本映画ベスト・テン3位
・第9回毎日映画コンクール男優助演賞(宮口精二)
・ブルーリボン賞音楽賞(早坂文雄)
・都民映画コンクール銀賞
・日本映画技術賞撮影(中井朝一)
・日本映画技術賞美術(松山崇)
・ユッシ賞外国監督賞(黒澤明)
・ユッシ賞外国外国男優賞(志村喬)

☆黒澤明(くろさわ あきら)とは?

 昭和時代から平成時代に活躍した日本を代表する映画監督・脚本家です。明治時代後期の1910年(明治43)3月23日に、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)で、荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に勤めていた父・黒澤勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれました。
 1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
 1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
 戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
 1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。

<監督映画作品一覧>

・『姿三四郎』(1943年)
・『一番美しく』(1944年)
・『続姿三四郎』(1945年)
・『虎の尾を踏む男達』(1945年)
・『明日を創る人々』(1946年)[山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督]
・『わが青春に悔なし』(1946年)
・『素晴らしき日曜日』(1947年)
・『酔いどれ天使』(1948年)
・『静かなる決闘』(1949年)
・『野良犬』(1949年)
・『醜聞(スキャンダル)』(1950年)
・『羅生門』(1950年)
・『白痴』(1951年)
・『生きる』(1952年)
・『七人の侍』(1954年)
・『生きものの記録』(1955年)
・『蜘蛛巣城』(1957年)
・『どん底』(1957年)
・『隠し砦の三悪人』(1958年)
・『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)
・『用心棒』(1961年)
・『椿三十郎』(1962年)
・『天国と地獄』(1963年)
・『赤ひげ』(1965年)
・『どですかでん』(1970年)
・『デルス・ウザーラ』(1975年)
・『影武者』(1980年)
・『乱』(1985年)
・『夢』(1990年)
・『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(1991年)
・『まあだだよ』(1993年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(宝亀元)称徳天皇が百万塔陀羅尼を諸寺に分置する(新暦5月25日)詳細
1885年(明治18)俳人飯田蛇笏の誕生日詳細
1956年(昭和31)「首都圏整備法」が公布される詳細
1970年(昭和45)「世界知的所有権機関を設立する条約」が発効し、同機関が発足する(世界知的所有権の日)詳細
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