今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)の投票が行われ、翼賛政治体制協議会の推薦者が466議席中381議席を占めることとなった日です。
翼賛政治体制協議会(よくさんせいじたいせいきょうぎかい)は、昭和時代前期の1942年(昭和17)2月23日に、第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)のために、軍部、大政翼賛会、財界、農業団体、貴衆両院、その他の代表33名を招き、元首相阿部信行陸軍大将を会長として発足した政治結社で、略称は「翼協」と言いました。太平洋戦争下の1942年(昭和17)2月18日に、東条英機内閣では、帝国議会を翼賛議会に転換させるため、来る第21回衆議院議員総選挙に備え、候補者の推薦制度を導入することをこの日の閣議で決定したものの、政府による候補者の推薦は重大な選挙干渉になるとされます。
そこで、同月23日に、この政治結社を発足させ、民間による自発的な運動という体裁を調えました。道府県単位の支部を結成し、会長が地元の有力者742名を支部長と支部会員に任命すると共に、政府にかわって軍部や警察が集めた情報をもとに、衆議院の総定数と同じ466名を推薦し、その選挙運動を展開します。
これらの推薦候補者は選挙資金の援助を受けるなど、全面的な支援を受け、選挙戦を有利に戦ったとされ、4月30日の投票では推薦候補が381名が当選し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。これによって、目的を果たしたとして、5月5日には解散しています。
この時当選した議員を中心として、5月20日には翼賛政治会が結成され、挙国一致の政治体制が強化され、戦争を遂行するための政治が進められていきました。
そこで、同月23日に、この政治結社を発足させ、民間による自発的な運動という体裁を調えました。道府県単位の支部を結成し、会長が地元の有力者742名を支部長と支部会員に任命すると共に、政府にかわって軍部や警察が集めた情報をもとに、衆議院の総定数と同じ466名を推薦し、その選挙運動を展開します。
これらの推薦候補者は選挙資金の援助を受けるなど、全面的な支援を受け、選挙戦を有利に戦ったとされ、4月30日の投票では推薦候補が381名が当選し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。これによって、目的を果たしたとして、5月5日には解散しています。
この時当選した議員を中心として、5月20日には翼賛政治会が結成され、挙国一致の政治体制が強化され、戦争を遂行するための政治が進められていきました。
〇翼賛政治会(よくさんせいじかい)とは?
昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)5月20日に、東条英機首相が議会に対する支配を確立するため、挙国一致の政治体制強化を目的として結成された政治結社です。
1940年(昭和15)10月12日に大政翼賛会が結成され、日本型ファシズム体制が成立し、翌年12月8日の太平洋戦争開戦へと至りました。東条内閣は「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941年12月19日公布)や「戦時刑事特別法」(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め、太平洋戦争緒戦の勝利を利用して、1942年(昭和17)4月30日に翼賛選挙を実施します。
それに向けて結成されていた、翼賛政治体制協議会は推薦候補者の内381名の当選者を出し、全466議席の過半数をはるかに上回りました。しかし、東条内閣はこの政治団体以外のいかなる政党をも許容しないという方針を明らかにし、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用、同月14日には、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送します。そして、同月20日に衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名、貴族院においても411名中326名、大政翼賛会関係者、言論界・財界・産業組合など各種団体などの代表者、元翼協支部長など、900余名を集めて創立総会を開き、総裁には阿部信行大将(元首相)が就任しました。
綱領には、①国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す、②憲法の条章に恪遵し翼賛議会の確立を期す、③大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す、④大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す、を掲げます。3日後には、東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになり、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになりました。
しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、1944年(昭和19)7月に、東条内閣退陣に替わって小磯国昭内閣になり、二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任するとともに結束力が弱まり、翌年2月12日に小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥ります。そして、3月10日に大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成、翌日には岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言するに至りました。
その中で、3月30日に翼政会は解散して、替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会に改組されています。
以下に、翼賛政治会宣言(一部)と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇翼賛政治会宣言と綱領 1942年(昭和17)5月20日
<翼賛政治会宣言>
東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するのは、畏くも大詔に明示し給うところなり、帝国は今や古今未曾有の世界動乱に際し、大東亜戦争完遂に邁進す。洵に曠古の大業なり。皇師一たび出でて、赫々の戦果は世界を震撼せりと雖も、大業の前途は尚遼遠なり。すなわち国民の政治意識を昂揚し、挙国的政治力を結束し、次て国家の総力を発揮し、戦争目的を貫徹せざるべからず。惟ふに此の戦時下敢て総選挙を施行せられたるは、清新強力なる議会の確立を庶幾せられたるものにほかならず。而して総選挙の結果は滂湃(ほうはい)たる国民熱意の嚮(むか)ふところ明かにせり。これ正に一挙翼賛政治体制を確立して、必勝の挙国態勢を完成すべきの秋なり。
翼賛議会の要は清新なる政治力を以て派閥抗争を一掃し、一地一職域の利害に拘らず、真に国家的見地に立ち公議公論の府として政府に協力するにあり。議会翼賛の大道また実にここに存す。
本会は国民各界に亘り政治翼賛の総力を凝集し、以て国政運行に協力せんとす。而して翼賛政治体制の確立は、挙国的国民運動の基礎の上に立たざるべからず。因て本会は大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相倶に大政翼賛運動の徹底を期せんとす。
(以下省略)
<翼賛政治会綱領>
一、国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す。
一、憲法の条章に恪遵(かくじゅん)し翼賛議会の確立を期す。
一、大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す。
一、大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す。
☆翼賛政治関係略年表
<1940年(昭和15)>
・10月12日 大政翼賛会が結成される
<1942年(昭和17)>
・2月18日 来る第21回衆議院議員総選挙に備え、候補者の推薦制度を導入することをこの日の閣議で決定したものの、政府による候補者の推薦は重大な選挙干渉になるとされる
・2月23日 軍部・大政翼賛会・財界・農業団体・貴衆両院・その他の代表33名を招き,元首相阿部信行陸軍大将を会長として、翼賛政治体制協議会が結成される
・4月30日 第21回総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得する
・5月5日 翼賛政治体制協議会が目的を果たしたとして解散する
・5月7日 内閣総理大臣東條英機は、政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用する
・5月14日 現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送する
・5月20日 翼賛政治会が結成され、初代総裁には翼賛政治体制協議会会長の阿部信行元内閣総理大臣がそのまま横滑りし、衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名が参加する
・5月23日 東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになる貴族院の院内会派は成立時以来の建前上、会派がまとまって政治活動はしないこととなっていたため、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになる
・6月23日 政府は大日本産業報国会(産業報国運動)、大日本婦人会、大日本青少年団などの官製国民運動6団体を大政翼賛会の傘下に統合する
・8月14日 部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に、隣組長を世話人にすることを決定する
<1944年(昭和19)>
・7月 東條英機に替わって小磯国昭朝鮮総督が後任の内閣総理大臣となり、替わりの朝鮮総督に阿部総裁が任命される
・8月 二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任する
・12月 小磯内閣の国務大臣に任命された小林は小磯首相から本土決戦に備えて大政翼賛会や翼政会の改組を指示される
<1945年(昭和20)>
・1月20日 大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・翼政会を解散させる替わりに大政翼賛会の地方部門と翼政会を統合して、全国民を統合する新党を結成する方針が翼政会代議士会で了承される
・2月12日 小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥る
・3月1日 小林は国務大臣を辞任して新党結成と反対派説得に尽力する
・3月8日 新党の設立準備委員会結成の時点で、小林の新党構想は破綻状態になる
・3月10日 大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成する
・3月11日 岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言する
・3月30日 翼政会は解散して替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会となる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1358年(正平13) | 室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日) | 詳細 |
1886年(明治19) | 秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す | 詳細 |
1926年(大正15) | 小説家河野多惠子の誕生日 | 詳細 |
1950年(昭和25) | 「図書館法」が公布される(図書館記念日) | 詳細 |