
大日本武徳会(だいにっぽんぶとくかい)は、武道の振興、教育、指導、顕彰を目的として活動していた武道団体でした。明治時代後期の1895年(明治28)4月17日に、桓武天皇奠都1100年記念事業の一環として、京都において、初代総裁に小松宮彰仁親王(皇族、陸軍大将)が就任して発足します。日本固有の武術を保存奨励し、武徳の涵養と国民の士気の振作に寄与することを目的とし、武器・用具・史料などの収集や称号制度の確立、剣道、柔道の形の統一、会誌の発行なども行われ、支部を全国の各道府県に置き、知事をその支部長に委嘱しました。
この年から毎年武徳祭と大演武会(武術大会)が行われるようになり、1899年(明治32)には、その拠点として、京都平安神宮境内に武徳殿が竣工しています。1902年(明治35)に「武術優遇令」が施行され、1905年(明治38)には、中等学校の武術教員の養成を目ざして、京都に「武術教員養成所」が設置され、剣術・柔術を指導するようになりました。
1909年(明治42)に財団法人とすることを認可され、1911年(明治44)には、「武術教員養成所」を「武徳学校」に改称、京都府知事から「私立学校令」に基づく学校として認可を受けます。1912年(明治45)に「武徳学校」を「私立大日本武徳会武術専門学校」に改称し、「専門学校令」に基づく武術専門学校へと昇格しました。
1918年(大正7)に「武術優遇令」が「武道家表彰例」に改称されると、翌年には、それまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し統一しています。1938年(昭和13)に武道審議会の設置が帝国議会で承認され、翌年には、厚生大臣の諮問機関「武道振興委員会」が設置されました。
太平洋戦争下において、1942年(昭和17)3月21日に、既存の武徳会は改組され、厚生・文部・陸軍・海軍・内務の5省が共管する新たな大日本武徳会(会長:内閣総理大臣東條英機)が発足し、戦争翼賛団体の性格を強めることになります。それと共に、銃剣道、射撃道などを加えた、いわゆる「武道の戦技化」が推進され、会員数224万人、資金量559万円という膨大な組織となりました。
太平洋戦争後は、全国の武道組織を統制する政府の外郭団体から民間団体へと組織を改編しようとしましたが失敗し、1946年(昭和21)10月31日に自主的に解散すると発表したものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の認めるところとならず、11月9日に内務省による強制解散処分を受けて消滅し、その財産は国庫に接収されます。さらに、1947年(昭和22)8月2日の「公職追放令」により武徳会に関わった人物約1,300名が公職追放されました。
この年から毎年武徳祭と大演武会(武術大会)が行われるようになり、1899年(明治32)には、その拠点として、京都平安神宮境内に武徳殿が竣工しています。1902年(明治35)に「武術優遇令」が施行され、1905年(明治38)には、中等学校の武術教員の養成を目ざして、京都に「武術教員養成所」が設置され、剣術・柔術を指導するようになりました。
1909年(明治42)に財団法人とすることを認可され、1911年(明治44)には、「武術教員養成所」を「武徳学校」に改称、京都府知事から「私立学校令」に基づく学校として認可を受けます。1912年(明治45)に「武徳学校」を「私立大日本武徳会武術専門学校」に改称し、「専門学校令」に基づく武術専門学校へと昇格しました。
1918年(大正7)に「武術優遇令」が「武道家表彰例」に改称されると、翌年には、それまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し統一しています。1938年(昭和13)に武道審議会の設置が帝国議会で承認され、翌年には、厚生大臣の諮問機関「武道振興委員会」が設置されました。
太平洋戦争下において、1942年(昭和17)3月21日に、既存の武徳会は改組され、厚生・文部・陸軍・海軍・内務の5省が共管する新たな大日本武徳会(会長:内閣総理大臣東條英機)が発足し、戦争翼賛団体の性格を強めることになります。それと共に、銃剣道、射撃道などを加えた、いわゆる「武道の戦技化」が推進され、会員数224万人、資金量559万円という膨大な組織となりました。
太平洋戦争後は、全国の武道組織を統制する政府の外郭団体から民間団体へと組織を改編しようとしましたが失敗し、1946年(昭和21)10月31日に自主的に解散すると発表したものの、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の認めるところとならず、11月9日に内務省による強制解散処分を受けて消滅し、その財産は国庫に接収されます。さらに、1947年(昭和22)8月2日の「公職追放令」により武徳会に関わった人物約1,300名が公職追放されました。
〇大日本武徳会関係略年表
・1895年(明治28)4月17日 桓武天皇奠都1100年記念事業の一環として、京都において、大日本武徳会(初代総裁小松宮彰仁親王)が発足する
・1895年(明治28)10月25日 第1回の武徳祭と大演武会(武術大会)が行われる
・1899年(明治32) 京都に武徳殿が竣工する
・1902年(明治35) 「武術優遇令」が施行される
・1903年(明治36) 戸塚英美(戸塚派揚心流・千葉県)、星野九門(四天流・熊本県)に柔術範士が授与される
・1905年(明治38) 嘉納治五郎(講道館・東京都)に柔術範士が授与される
・1905年(明治38)10月1日 中等学校の武術教員の養成を目ざして、武術教員養成所が設置され、剣術・柔術を指導する
・1909年(明治42)6月3日 財団法人とすることを認可される
・1911年(明治44)9月 武術教員養成所を「武徳学校」に改称、京都府知事から「私立学校令」に基づく学校として認可を受ける
・1912年(明治45)1月23日 「武徳学校」を「私立大日本武徳会武術専門学校」に改称し、「専門学校令」に基づく武術専門学校へと昇格する
・1914年(大正3) 範士・教士の称号において「剣術」を「剣道」、「柔術」を「柔道」と表記・明文化する
・1917年(大正6) 大日本武徳会において講道館に倣い段位制が導入される
・1918年(大正7) 「武術優遇令」が「武道家表彰例」に改称される
・1919年(大正8) 大日本武徳会においてそれまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し統一する
・1919年(大正8)8月1日 「私立大日本武徳会武術専門学校」から「私立大日本武徳会武道専門学校」に改称される
・1934年(昭和9) 「武道家表彰例」が改訂され、「精錬証」授与者を「錬士」の称号に改称する
・1938年(昭和13) 武道審議会の設置が帝国議会で承認される
・1939年(昭和14)12月23日 厚生大臣の諮問機関「武道振興委員会」が設置される
・1942年(昭和17)3月21日 既存の武徳会は改組され、厚生・文部・陸軍・海軍・内務の5省が共管する新たな大日本武徳会が発足し、戦争翼賛団体の性格を強める
・1944年(昭和19)4月 「私立大日本武徳会武道専門学校」から「大日本武道専門学校」に改称される
・1945年(昭和20) 敗戦後、全国の武道組織を統制する政府の外郭団体から民間団体へと組織を改編する
・1946年(昭和21)10月31日 自主的に解散すると発表する
・1946年(昭和21)11月9日 自主解散が認められず、内務省による強制解散処分を受けて武徳会は消滅し、その財産は国庫に接収される
・1947年(昭和22)8月2日 「公職追放令」により武徳会に関わった人物約1,300名が公職追放される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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