
関根金次郎(せきね きんじろう)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年4月1日)に、下総国葛飾郡東宝珠花村(現在の千葉県野田市東宝珠花)において生まれました。幼い時より将棋の才能にめぐまれ、“宝珠花小僧”の異名をとったとされ、11歳で十一世伊藤宗印名人に入門します。
その後、東京から離れて将棋遊歴の旅に出て、1883年(明治16)には、二段となりました。それからは、順調に昇段し、1905年(明治38)には、八段に至り、井上義雄、坂田三吉との対局が人気を呼んで、衰微していた棋界の復興に貢献します。
1921年(大正10年)に、小野五平十二世名人の死去により、53歳で十三世名人(世襲制)に推挙されました。1924年(大正13)に東京将棋倶楽部(関根派)・将棋同盟社(土居市太郎八段派)・将棋研究会(大崎熊雄七段派)の三派を合同させて東京将棋連盟を結成、1927年(昭和2)には、そこに木見金治郎が主催する関西の「棋正会」が合流し、日本将棋連盟になると会長に就任します。
1935年(昭和10)に、名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立しました。これにより、江戸時代以来300年以上続いてきた家元制度や終身名人制を廃止して実力名人制としたことで、「近代将棋の父」と呼ばれるようになります。
土居市太郎名誉名人、木村義雄十四世名人ら多数の棋士を育てたものの、晩年は視力を失ない、失意のうちに、1946年(昭和21年)3月12日に、数え年79歳で亡くなりました。
その後、東京から離れて将棋遊歴の旅に出て、1883年(明治16)には、二段となりました。それからは、順調に昇段し、1905年(明治38)には、八段に至り、井上義雄、坂田三吉との対局が人気を呼んで、衰微していた棋界の復興に貢献します。
1921年(大正10年)に、小野五平十二世名人の死去により、53歳で十三世名人(世襲制)に推挙されました。1924年(大正13)に東京将棋倶楽部(関根派)・将棋同盟社(土居市太郎八段派)・将棋研究会(大崎熊雄七段派)の三派を合同させて東京将棋連盟を結成、1927年(昭和2)には、そこに木見金治郎が主催する関西の「棋正会」が合流し、日本将棋連盟になると会長に就任します。
1935年(昭和10)に、名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立しました。これにより、江戸時代以来300年以上続いてきた家元制度や終身名人制を廃止して実力名人制としたことで、「近代将棋の父」と呼ばれるようになります。
土居市太郎名誉名人、木村義雄十四世名人ら多数の棋士を育てたものの、晩年は視力を失ない、失意のうちに、1946年(昭和21年)3月12日に、数え年79歳で亡くなりました。
〇関根金次郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1868年(慶応4年4月1日) 下総国葛飾郡東宝珠花村(現在の千葉県野田市東宝珠花)において、生まれる
・1878年(明治11年) 11歳で十一世伊藤宗印名人に入門する
・1883年(明治16年) 二段となる
・1987年(明治20年) 20歳で三段となる
・1891年(明治24年) 四段となる
・1895年(明治28年) 五段となる
・1897年(明治30年) 六段となる
・1898年(明治31年) 七段となる
・1905年(明治38年) 八段となる
・1907年(明治40年) 当時の3人の八段である関根・井上義雄・小菅剣之助の平手対局が神戸新聞により企画され、関根は井上に3勝1敗とする
・1909年(明治42年) 「万朝報」記者の三木愛花の斡旋で将棋同盟会(のち将棋同盟社)を結成する
・1917年(大正6年) 坂田三吉との名人位をかけた対決に負ける
・1921年(大正10年) 小野五平十二世名人の死去により、53歳で十三世名人(世襲制)に推挙される
・1924年(大正13年)9月8日 東京将棋倶楽部(関根派)・将棋同盟社(土居市太郎八段派)・将棋研究会(大崎熊雄七段派)の三派を合同させて東京将棋連盟を結成する
・1927年(昭和2年) 東京将棋連盟に木見金治郎が主催する関西の「棋正会」が合流し、日本将棋連盟になると、会長に就任する
・1935年(昭和10年) 名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立する