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 今日は、奈良時代の710年(和銅3)に、元明天皇が藤原京から平城京に遷都した日ですが、新暦では4月13日となります。
 平城京(へいじょうきょう)は、710年(和銅3)に元明天皇が藤原京から遷都し、784年 (延暦3) に桓武天皇が山城長岡京に移ったまでの74年間の都だったところです。707年(慶雲4)から遷都の審議が始まり、708年(和銅元年2月15日)には、元明天皇により造営の詔が出されました。
 「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされています。工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていきました。
 唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されています。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分しました。
 さらに、南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。
 奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇『続日本紀』の「平城京遷都」の記事 710年(和銅3年3月10日)

<原文> 

辛酉。始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。

   『続日本紀』巻第五より

<読み下し文>

辛酉。始て都を平城に遷す。以左大臣正二位石上の朝臣麿を留守と爲す。

<現代語訳>

3月10日。初めて都を平城京に遷す。左大臣・正二位石上の朝臣麿を(藤原京)の留守司とする。

〇『続日本紀』の「平城京造営の詔」の記事 708年(和銅元年2月15日) 

<原文> 

和銅元年二月。
戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。処紫宮之尊。常以為。作之者労。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所帰。唯朕一人。豈独逸予。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之号。周后三定。致太平之称。安以遷其久安宅。方今、平城之地。四禽叶図。三山作鎮。亀筮並従。宜建都邑。宜其営構資、須随事条奏。亦待秋収後。令造路橋。子来之義、勿致労擾。制度之宜。令後不加。

   『続日本紀』巻第四より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

和銅元年2月戌寅、詔して曰く、
『朕祇みて上玄[1]に奉じ、宇内[2]に君臨す。菲薄の徳を以て、紫宮[3]の尊に処れり。常に以為らく、之を為す者は労し、之に居る者は逸す。遷都の事、必しも未だ遑[4]あらず、而も王公大臣咸云ふ。往古以降近代に至り、日を挑り[5]星を瞻て[6]、宮室[7]の基を起し、世を卜し[8]土を相して[9]、帝王の邑を建つ。永鼎[10]の基を定め、無窮[11]の業を固うすることここにあらんと。衆議忍び難く詞情深く切なり。然らば則ち京師は百官の府[12]、四海[13]の帰する所、ただ朕一人のみ独り逸予[14]せんや。苟くも物に利あらば、それ遠ざかるべけんや。昔は段王五たび遷りて中興の号を受け、周公三たび定めて太平の称を致す。安んじて以てその久安の宅を遷せるなり。方今[15]平城の地四禽図[16]に叶い三山[17]鎮をなす。亀筮[18]並び従ふ。宜しく都邑[19]を建つべじ。其の營構[20]を宜うし、資は須らく事条に随って奏すべし。亦秋収[21]の後を待って、路橋を造らしめて、子来[22]の義、労擾[23]を致すこと勿れ。制度の宜後に加へざらしめよ。』と。

【注釈】

[1]上玄:じょうげん=天のこと。
[2]宇内:うだい=天下。世界。
[3]紫宮:しきゅう=天帝の居所。皇居。
[4]遑:いとま=時間の余裕。ひま。
[5]日を挑り:ひをはかり=太陽を観測すること。
[6]星を瞻て:ほしをみて=星を観測すること。
[7]宮室:きゅうしつ=帝王、天皇の住む宮殿。また、転じて、帝王、天皇の一族。皇室。
[8]世を卜し:よをぼくし=世界を占うこと。
[9]土を相して:つちをそうして=地相をみること。
[10]永鼎:えいけん=王位を安定させること。王位を永続させること。
[11]無窮:むきゅう=果てしないこと。また、そのさま。無限。永遠。
[12]百官の府:ひゃっかんのふ=多くの役人が事務をとる所。
[13]四海:しかい=国内。くにじゅう。世界。世の中。天下。
[14]逸予:いつよ=気ままに遊び楽しむこと。
[15]方今:ほうこん=まさに今。ただ今。また、このごろ。現今。
[16]四禽図:しきんと=四つの方角を現す神獣、青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)のこと。
[17]三山:さんざん=春日山、奈良山、生駒山のこと。
[18]亀筮:きぜい=亀の甲や筮竹を用いる卜占。うらない。
[19]都邑:とゆう=みやこ。
[20]営構:えいこう=事業をいとなむこと。また、組織し経営すること。
[21]秋収:しゅうしゅう=秋の農作物のとりいれをすること。秋の収穫。
[22]子来:じらい=子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まること。
[23]労擾:ろうじょう=つかれみだれること。あくせくする。辛苦する。 

<現代語訳> 平城京造営の詔

和銅元年(708年)二月戊寅(15日)
 詔の中で次のように述べられた。「私(元明天皇)は天帝の命を承って、天下に君主として臨んでおり、徳が薄いにもかかわらず、皇居の天皇という位にいる。常に思うのに、「天皇の住む宮殿を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする」という言葉である。遷都のことは、必ずしも時間の余裕のないことではない。ところが王公大臣はみな言う。「昔から近年に至るまで、太陽や星を観測して、東西南北を確かめ、天皇の住む宮殿の基礎を定め、世を占い地相を見て、帝皇の都を建てている。天子の証である鼎を安定させる基礎は、永く固く果てしなく、天子の業もここに定まるであろう」と。多くの臣下が議論することは抑えることが困難で、その言葉も情も深く切実である。そして都というものは多くの役人が事務をとる所であり、国中の民が集まるところであって、ただ私(元明天皇)一人がどうして独り気ままに遊び楽しんでいて好かろうか。いやしくも利点があるならば、従うべきではあるまいか。昔、殷の諸王は5回遷都して、国を中興したと称えられ、周の諸王は3度都を定めて、太平の誉れを残した。安んじてその久安の住居を遷そう。まさに今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の4つの動物が陰陽の吉相に配され、三山(春日山、奈良山、生駒山)が鎮護の働きをなし、亀の甲や筮竹を用いる卜占にもかなっている。ここにみやこを建てるべきである。その事業を営むことをよろしくし、資材は必要に応じて箇条書きにして奏上せよ。また秋の収穫が終了するのを待って、道路や橋を造らせよ。子が親を慕うように、高徳の主君のもとに民衆が喜び集まって来るもので、仮りにも民衆を疲れ乱れさせるようなことがあってはならない。制度を適切なものとし、後から負担を増加することが無いようにせよ。」と。
 
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