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 今日は、江戸時代前期の1634年(寛永11)に、将棋師・一世名人大橋宗桂(初代)が亡くなった日ですが、新暦では4月6日となります。
 大橋宗桂[初代](おおはし そうけい)は、戦国時代の1555年(弘治元)に、京都において、下京の町人宗也の息子として生まれましたが、幼名は龍政と言いました。宗金のち宗慶と名を変え、織田信長に召され「将棋師」の待遇を受け、桂馬の1字を取って宗桂の名を賜わったと伝えられています。
 1576年(天正4)には、2代大橋宗古が嫡男として生まれ、豊臣秀吉、徳川家康と仕え、1602年(慶長7)には、後陽成天皇に山科言経を介して詰将棋五十番の本を献上しました。1607年(慶長12)に、本因坊算砂とともに家康と秀忠に招かれて平手戦の将棋を披露したものが、現存最古の将棋棋譜として残され、翌年には豊臣秀頼にも招かれて将棋を披露しています。
 1612年(慶長17)に、徳川家康から五十石五人扶持を賜り、慶長年間(1596~1615年)には、詰め将棋を集めた『将棋造物(通称:将棋図式)』50番が出版されました。1616年(元和2)に幕府に作品集を献上、1623年(元和9)には、算砂の後任として将棋所を司るようになったとされます。
 将棋の一世名人を名乗ってきましたが、1634年(寛永11年3月9日)に、京都において、数え年80歳で亡くなり、跡目は息子の大橋宗古が二世名人を名乗ることとなりました。

〇大橋宗桂[初代]関係略年表(日付は旧暦です)

・1555年(弘治元年) 京都において、下京の町人宗也の息子として生まれる
・1576年(天正4年) 2代大橋宗古が嫡男として生まれる
・1602年(慶長7年) 後陽成天皇に山科言経を介して詰将棋五十番の本を献上する
・1607年(慶長12年6月) 本因坊算砂とともに家康と秀忠に招かれて将棋を披露する(現存最古の将棋棋譜)
・1608年(慶長13年1月) 本因坊算砂とともに豊臣秀頼に招かれて将棋を披露する
・1612年(慶長17年) 徳川家康から五十石五人扶持を賜る
・1596~1615年(慶長年間) 「将棋造物」(通称「将棋図式」)が出版される
・1616年(元和2年) 幕府に作品集を献上する
・1623年(元和9年) 算砂の後任として将棋所を司る
・1634年(寛永11年3月9日) 京都において、数え年80歳で亡くなる

☆家元制(世襲制)および推挙制による名人

・一世名人 初代大橋宗桂:1612年(慶長17年)に江戸幕府より俸禄を与えられる
・二世名人 二代目大橋宗古:1634年(寛永11年)に襲位、初代大橋宗桂の子
・三世名人 初代伊藤宗看:1654年(承応3年)に襲位、二代大橋宗古の娘婿で「伊藤家」初代。生前の1691年に名人退位
・四世名人 五代目大橋宗桂:1691年(元禄4年)に襲位、初代伊藤宗看の子、二代大橋宗古の外孫
・五世名人 二代目伊藤宗印:1713年(正徳3年)に襲位、初代伊藤宗看の養子
・六世名人 三代目大橋宗与:1723年(享保8年)に襲位、初代大橋宗桂の曾孫
・七世名人 三代目伊藤宗看:1728年(享保13年)に襲位、二代伊藤宗印の子
・八世名人 九代目大橋宗桂:1789年(寛政元年)に襲位、二代伊藤宗印の孫(父は八代大橋宗桂)、三代宗看の甥
・九世名人 六代目大橋宗英:1799年(寛政11年)に襲位、三代大橋宗与の曾孫(父、五代大橋宗順は養子)
・十世名人 六代目伊藤宗看:1825年(文政8年)に襲位、五代伊藤宗印の養子
・十一世名人 八代目伊藤宗印:1879年(明治12年)に襲位、七代伊藤宗寿の養子
・十二世名人 小野五平:1898年(明治31年)に襲位
・十三世名人 関根金次郎:1921年(大正10年)に襲位、生前の1938年(昭和13年)に名人退位

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「学童疎開強化要綱」を閣議決定する詳細
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