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 今日は、大正時代の1917年(大正6)に、詩人峠三吉の生まれた日です。
 峠三吉(とうげ さんきち)は、大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・峠嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれましたが、まもなく父の故郷広島市に転居しました。1927年(昭和2)に母・ステを亡くしたものの、1930年(昭和5)には、広島県立広島商業学校(現在の広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始めます。
 1935年(昭和10)に広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社しましたが、肺結核と診断され、療養生活を送り、翌年には、病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿するようになりました。1937年(昭和12)に「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事、翌年には、「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の 灯の濤について 月をみず」の句が入選します。
 1942年(昭和17)に、キリスト教に入信し、大阪製図学校より通信授業を受けるようになりましたが、病気は一進一退であったものの、翌年には、「編隊機 大落暉より 帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受けました。1944年(昭和19)に次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移りましたが、横浜空襲で「城南航器」が全焼し、翌年6月に、広島の翠町の三戸家に同居したものの、8月6日の広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)します。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加、広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、連盟委員長にも就任しました。1948年(昭和23)に「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となり、瀬戸内海文庫に入って雑誌「ひろしま」編集長ともなり、広島詩人協会の結成に参加、「地核」の編集を担当します。
 同年11月に国立広島療養所へ入院、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明、1949年(昭和24)に新日本文学会に入会、また、「われらの詩の会」を結成し、代表となりました。1950年(昭和25)に新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推されたものの、再び、国立広島療養所へ入院することとなります。1951年(昭和26)に『原爆詩集』をガリ版刷りで出版、翌年には、「原子雲の下より」を編集しましたが、1952年(昭和27)に新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院しました。
 1953年(昭和28)に持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院、同年3月10日に、肺葉切除手術を受けたものの術中に病状が悪化、36歳の若さで亡くなっています。
 以下に、峠三吉著『原爆詩集』の序と八月六日を抜粋して掲載しましたので、ご参照下さい。

☆峠三吉関係略年表

・1917年(大正6)2月19日 大阪府豊能郡(現在の豊中市)において、タイル製造などを手がける実業家の父・嘉一、母・ステの第5子(三男)として生まれる
・1923年(大正12) 広島市大手町尋常高等小学校へ入学する
・1925年(大正14)頃 文学を好むようになる
・1927年(昭和2) 母・ステが亡くなる
・1930年(昭和5) 広島県立広島商業学校(現 広島県立広島商業高等学校)へ入学、詩や俳句を作り始める
・1935年(昭和10) 広島商業学校を卒業し、広島ガスに入社するが、肺結核と診断され、療養生活を送る
・1936年(昭和11) 病床で書いた詩などを新聞・雑誌へ投稿、次兄・匡が亡くなる
・1937年(昭和12) 「俳句文学」同人となり、左部赤城子に師事する
・1938年(昭和13) 「事変俳句川柳一万句集」に「戦捷の灯の濤について月をみず」の句が入選する
・1941年(昭和16) 左部赤城子が急死、以後、短歌、童話に情熱を傾ける。短歌は「言霊」主宰の岡本明に師事する
・1942年(昭和17) 長姉嘉子の影響もあり、キリスト教の洗礼を受ける、大阪製図学校より通信授業を受ける
・1943年(昭和18) 病気は一進一退、「編隊機大落暉より帰りくる」の句が朝日新聞社賞を受ける
・1944年(昭和19) 次姉千栄子の嫁いだ今井家(横浜市「城南航器」経営)に父とともに移る
・1945年(昭和20)4月 横浜空襲で「城南航器」が全焼する
・1945年(昭和20)6月 広島の翠町の三戸家に同居する
・1945年(昭和20)8月6日 広島への原爆投下で被爆(爆心より約3km)する
・1946年(昭和21) 広島音楽連盟、広島青年文化連盟などの活動に参加。広島青年文化連盟の機関紙「探求」(4月創刊)の編集発行人となり、7月に連盟委員長に就任する
・1947年(昭和22)2月 広島県庁社会課に就職、憲法普及運動にたずさわる
・1947年(昭和22)7月 児童雑誌「銀の鈴」から童話「百足競争」の原稿料を受け取る。童話「ドッジボール」、小説「鏡占い」などを書く。
・1947年(昭和22)12月 原田和子と結婚する
・1948年(昭和23)1月 「夕刊ひろしま」の生活の詩欄の選者となる。県庁退職後、瀬戸内海 文庫に入り、雑誌「ひろしま」編集長となる(8月退社)。広島詩人協会の結成に参加、「地核」(6月創刊) の編集を担当する
・1948年(昭和23)11月 国立広島療養所へ入院、肺結核と診断されていた病気が気管支拡張症であると判明する
・1949年(昭和24)2月 新日本文学会に入会する
・1949年(昭和24)10月 「われらの詩の会」を結成し、代表となる
・1950年(昭和25)1月 新日本文学会・詩委員会「新日本詩人」の全国編集委員に推される
・1950年(昭和25)12月 国立広島療養所へ入院する
・1951年(昭和26) 『原爆詩集』をガリ版刷りで出版する
・1952年(昭和27) 「原子雲の下より」を編集する
・1952年(昭和27)3月 新日本文学会全国大会出席のため上京の途上で大喀血し、静岡赤十字病院に入院する
・1953年(昭和28)2月 持病(気管支拡張症)の本格的治療を決意し、国立広島療養所に入院する
・1953年(昭和28)3月10日 広島において36歳で亡くなる

〇峠三吉著『原爆詩集』(抜粋) 注:( )内はふり仮名です


ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧(お)しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂(さ)け、橋は崩(くず)れ
満員電車はそのまま焦(こ)げ
涯しない瓦礫(がれき)と燃えさしの堆積(たいせき)であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦(こ)げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏(いかだ)へ這(は)いより折り重った河岸の群も
灼(や)けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光(かこう)の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿(ふんにょう)のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭(いしゅう)のよどんだなかで
金(かな)ダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!

    「青空文庫」より

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