ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年01月

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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、失火で法隆寺金堂内陣を全焼した日で、これをきっかけに「文化財防火デー」とされています。
 法隆寺金堂内陣火災は、この日の7時20分頃に、法隆寺金堂内で壁画模写作業中の現場より出火し、午前9時前後に鎮火するまでに、国宝の壁画のほとんどが火災と放水で損傷した火災でした。天井より上の上層部分と裳階部分の部材は解体済みだったため無事で、内部に安置されていた釈迦三尊像等の仏像も大講堂、大宝蔵殿等に移座されていたため難を免れています。
 幸いなことに、火災前に模写が制作されていたので、火災後の1967年(昭和42)に壁画再現事業が発願され、翌年完成しました。また、焼け焦げたオリジナルの壁画は1951年(昭和26)に抜き取り作業が始まり、法隆寺内の大宝蔵殿の裏手に1952年(昭和27)に建設された収蔵に、焼け焦げた柱などと共に保管されています。
 この火災は、日本国民に強い衝撃を与え、国際的にも広く報道されて、文化財保護への関心が高まりました。その後、1950年(昭和25)に「文化財保護法」が制定される一つの契機となり、1955年(昭和30)には、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が、この日を「文化財防火デー」に制定しています。

〇文化財防火デーとは?

 1949年(昭和24)1月26日に、日本最古の壁画が描かれた奈良の法隆寺金堂が火災により焼損したのを契機として、1955年(昭和30)に文化財を火災や震災から守るとともに、文化財愛護思想の普及高揚を図る目的で、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が毎年1月26日を「文化財防火デー」としたものです。その後、この日の前後には、文化庁、消防庁、都道府県・市区町村教育委員会、消防署、文化財所有者、地域住民等が連携・協力して、全国で文化財防火運動を展開し、各地で文化財の防火訓練などが行われてきました。また、国庫補助による国宝建造物等への火災報知機やスプリンクラー設備などが進められることとなります。

〇法隆寺(ほうりゅうじ)とは?

 奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山(元は法相宗)で、正式名称は法隆学問寺と言い、推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つで、南都七大寺の一つでもあります。聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ、薬師三尊像を安置したのに始まり、創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされますが、670年(天智天皇9)に落雷によって全焼し、7世紀後半に再建されました。
 金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、境内の広さは約18万7千㎡です。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群などがあり、東院伽藍には、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、夢違観音、玉虫厨子、橘夫人念持仏厨子、百万塔陀羅尼などがあり、全体で38件もの国宝と151件の国の重要文化財が残されてきました。
 残念ながら、金堂の壁画は1949年(昭和24)の火災で損傷したものの、のち復元されています。また、1934年(昭和9)に法隆寺国宝保存事業の開始と共に、次々と根本的修理が行われ、1954年(昭和29)の金堂の修理落成でほぼ終了しました。
 尚、1993年(平成5)には、法起寺と共に、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1880年(明治13)に、福澤諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立された日です。
 交詢社(こうじゅんしゃ)は、福沢諭吉を中心に馬場辰猪、矢野竜溪らが創設した官吏・知識人・商工業者・地方地主らの社交クラブでした。1879年(明治12)9月に、福沢諭吉、小幡篤次郎、矢野文雄(竜渓)、馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定、翌年1月25日に、東京芝区愛宕下の青松寺で発会式が行われ、1,767名の社員中、596名が集まり、24名が常議員となります。
 職業の内訳は、官吏・学者・商業・農業等が大部分であり、しかもその過半数は地方在住の人たちで、社則第一条「社員たるもの互に知識を交換し世務を諮詢する」というところから、交詢社と名付けられ、知識の交換と世務の諮詢とを会の目的として、「交詢雑誌」を発刊しました。政治的には中産階級を基盤として自由党系と対立し、1881年(明治14)4月に「交詢雑誌」第45号で「私擬憲法案」を発表します。
 しかし、同年10月の「明治十四年の政変」後は官吏の多くが退社し、慶応義塾出身者および実業家やジャーナリストが中心と変わり、翌年4月16日の立憲改進党結成に際し、有力な支持基盤となり、「国会開設」や「閥族打破憲政擁護」の運動を進めました。1912年(大正元)に財団法人化され、翌年の大正政変の際には憲政擁護会を結成して、第一次護憲運動の指導的役割を果たします。
 1923年(大正12)の関東大震災により社屋が全壊しましたが、1929年(昭和4)に銀座6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングが建設されました。戦後も存続し、2004年(平成16)に交詢ビルディングが建て替えられ地上10階となり、2011年(平成23)には、公益法人制度改革に沿い一般財団法人に移行して、現在に至っています。

〇交詢社関係略年表

・1879年(明治12)9月 福沢諭吉、小幡篤次郎、矢野文雄(竜渓)、馬場辰猪ら31名が会合して創設を決定する
・1880年(明治13)1月25日 青松寺(東京芝区愛宕下)で発会式が行われ、24名が常議員となる
・1880年(明治13)2月5日 「交詢雑誌」の刊行を始める
・1881年(明治14)4月25日 「交詢雑誌」第45号で、交詢社の「私擬憲法案」を発表する
・1881年(明治14)10月 「明治十四年の政変」後は官吏の多くが退社し、実業家が中心になる
・1882年(明治15)4月16日 立憲改進党結成に際し、有力な支持基盤となる
・1889年(明治22) 紳士録『日本紳士録』を隔年で交詢社が編纂するようになる
・1897年(明治30) 「交詢雑誌」の刊行を辞める
・1912年(大正元) 財団法人化される
・1913年(大正2) 大正政変の際に憲政擁護会を結成して、第一次護憲運動の指導的役割を果たす
・1923年(大正12) 関東大震災により社屋が全壊する
・1929年(昭和4) 銀座6丁目にクラブの本拠として交詢ビルディングが建設される
・1960年(昭和35) 『日本会社録』の刊行を始める
・1971年(昭和46) 紳士録『日本紳士録』を交詢社出版局が編纂するようになる
・2004年(平成16)9月 交詢ビルディングが建て替えられ地上10階となる
・2007年(平成19)4月 紳士録『日本紳士録』が休刊となる
・2011年(平成23)7月 公益法人制度改革に沿い一般財団法人に移行する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
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 今日は、江戸時代末期の1865年(元治2)に、長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行された日ですが、新暦では2月19日となります。
 大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)は、長崎県長崎市に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物でした。フランス人宣教師プティジャンらの指導により建設されたもので、正式名称は日本二十六聖殉教者堂といいました。
 教会完成後、浦上地区の村民たちが、ここのプチジャン司教を訪ね、カトリックの信者(江戸時代の間信仰を守った隠れキリシタン)であることを告白し、「信徒発見」とよばれる歴史的事件となります。1979年(明治12)には、木造からレンガ造りに改築(五廊式1塔の煉瓦壁漆喰塗)され、洋風のゴシック様式建造物となりました。
 現存する日本最古の洋風建造物として、とても貴重なので、1933年(昭和8)に、「国宝保存法」に基づき旧国宝(現行法の重要文化財に相当)となり、1953年(昭和28)には、「文化財保護法」に基づき国宝に指定されます。さらに、2018年(平成30)には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つとして、世界文化遺産に登録されました。

〇大浦天主堂関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1862年(文久2年) フランスのパリ外国宣教会宣教師で日本教区長のジラール神父の命により、横浜にいたフランス人司祭(神父)フューレが長崎に赴任、司祭館と教会堂の建築準備に着手する
・1863年(文久3年) プティジャン神父(後に司教)が長崎に着任、フューレを補助し、天主堂建設に尽力する
・1864年(元治元年12月1日) 大浦天主堂が竣工(西洋建築の木造三廊)する
・1865年(元治2年1月24日) ジラール神父を始め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに荘厳に献堂式が挙行される
・1865年(元治2年2月12日) 浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗る(信徒発見)
・1868年(慶応4年6月7日) フランス人神父ド・ロがペルーズ号で来航し、大浦天主堂に入る
・1875年(明治8年) ポアリエ神父の設計で、天主堂の大規模な増改築を開始する
・1879年(明治12年) 天主堂の大規模な増改築が完成し、九州初の煉瓦造構造(五廊式1塔の煉瓦壁漆喰塗)となる
・1891年(明治24年) カトリック長崎司教区(現・カトリック長崎大司教区)の司教座聖堂となる
・1933年(昭和8年)1月23日 当時の「国宝保存法」に基づき国宝(旧国宝:現行法の重要文化財に相当)に指定される
・1945年(昭和20年)8月9日 長崎市への原爆投下によって破損したが、爆心地から比較的離れていたため倒壊・焼失は免れる
・1952年(昭和27年)6月30日 原爆被害の修理が完了する
・1953年(昭和28年)3月31日 「文化財保護法」に基づき国宝に指定される(洋風建築としては初の国宝指定)
・1962年(昭和37年)1月1日 カトリック長崎大司教区の司教座聖堂が浦上教会に変更される
・1962年(昭和37年)6月8日 日本二十六聖人列聖記念100年祭のミサが執り行われる
・1962年(昭和37年)6月10日 西坂公園で記念式典を挙行、国内外よりカトリック信徒約1万人が参列する
・1965年(昭和40年)2月21日 大浦天主堂創建100周年記念式典が挙行される
・1965年(昭和40年)3月16日 キリスト信者発見100周年記念祭が開催。信者発見記念碑「聖母像」の除幕式が挙行される
・1965年(昭和40年)3月17日 ローマ教皇特使マレラ枢機卿が長崎を訪れ、大浦天主堂で荘厳ミサが執り行われる
・1975年(昭和50年)11月3日 天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が新築される
・2007年(平成19年) 建立当初の設計図(平面図と側面図)がパリ外国宣教会本部古文書局の保管資料から発見される
・2016年(平成28年) 教皇庁典礼秘跡省長官ロベール・サラ枢機卿による4月26日付公式文書により、日本初の小バシリカとなる
・2018年(平成30年)4月1日 「キリシタン博物館」が開設される
・2018年(平成30年)6月 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つとして、世界文化遺産に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結された日です。
 「日ソ漁業条約」(にっそぎょぎょうじょうやく)は、日本とソ連両国間のオホーツク海・ベーリング海を含む北西太平洋での漁業権に関する条約で、正式名称を「日本国「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間漁業条約」と言いました。1925年(大正14)1月20日に締結された「日ソ基本条約」第3条で「両締約国ノ政府ハ本条約実施ノ上ハ千九百七年ノ漁業協約ノ締結以後一般事態ニ付発生シタルコトアルヘキ変化ヲ考量シ右漁業協約ノ改訂ヲ為スヘキコトヲ約ス」としていて、それに基づいて同年12月からモスクワにおいて、両国間で協議が進められ、ようやく2年1ヶ月後の1928年(昭和3)1月23日に締結に至ったものです。
 条約本文は、①日本海、オホーツク海、ベーリング海のソビエト属地沿岸における魚類、水産物の捕獲・採取および加工する権利の規定(第1条)、②捕獲、採取、加工のための漁区の貸付は競売により、日本国民とソ連邦人民に何等の差別を設けないこと(第2条)、③漁区を租借した日本国民は、漁区内の陸地を自由に使用する(漁船・漁網の修繕、漁獲物の陸揚げ、加工、貯蔵、これらに必要な建物の建設)権利をもつこと(第3条)、④税金、課金、手数料徴収の平等(第4条)、⑤漁業権取得者の魚類、水産物の日本への輸出の自由(第9条)、⑥漁業権を取得したソビエト漁民と同一待遇を受ける権利(第14条)など全16条からなっていました。また、議定書甲乙丙、最終議定書、交換公文、会議録など6つの付属文書があって、北洋漁業権を広範に日本に認めたものとなっています。
 有効期間は8年とされましたが、それが経過した1936年(昭和11)以後は、1年ごとに条約延長の暫定協定を結び、1944年(昭和19)には効力5年の条約を締結したものの、翌年の日本敗戦で無効になりました。
 以下に、「日ソ漁業条約」本文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日本国「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間漁業条約」1928年(昭和3)1月23日締結

日本国皇帝陛下及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中央執行委員会ハ千九百二十五年一月二十日北京ニ於テ締結セラレタル日本国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間ノ関係ヲ律スル基本的法則ニ関スル条約第三条ノ規定ニ從ヒ漁業条約ヲ締結スル為左ノ如ク各其ノ全権委員ヲ任命セリ

日本国皇帝陛下

 「ソヴィエト」社会主義共和国連邦駐劄特命全権大使正四位勳一等
田中都吉

 「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中央執行委員会
 「ソヴィエト」社会主義共和国連邦外務人民委員代理
「レフ、ミハイロヴィチ、カラハン」及露西亞社会主義連合「ソヴィエト」共和国農務人民委員部参与会員「マルチン、イヴァノヴィチ、ラツィス」

因テ各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ之カ良好妥当ナルヲ認メタル後左ノ諸条ヲ協定セリ

第一条 「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ハ河川及入江ヲ除キ日本海、「オホーツク」海及「ベーリング」海ニ於ケル「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ属地ノ沿岸ニ於テ膃肭獣及臘虎ヲ除キタル一切ノ種類ノ魚類及水產物ヲ捕獲シ、採取シ及加工スルノ権利ヲ本条約ノ規定ニ従ヒ日本国臣民ニ許与ス右例外ニ含マルル入江ハ本条約附属議定書(甲)第一条ニ之ヲ列挙ス

第二条 日本国臣民ハ魚類及水產物ノ捕獲、採取及加工ノ目的ヲ以テ特ニ指定セラレタル海上及陸地ニ亘ル漁区ニ於テ之ニ従事スルコト自由タルヘシ右漁区ノ貸付ハ競売ニ依リテ之ヲ為シ日本国臣民ト「ソヴィエト」社会主義共和国連邦人民トノ間ニ何等ノ差別ヲ設クルコトナカルヘシ
尤モ前項ニ対スル例外トシテ両締約国政府ノ合意アリタル漁区ハ競売ニ依ラスシテ之ヲ貸付スルコトヲ得ルモノトス
漁区ノ競売ハ毎年二月「ヴラヂヴォストック」ニ於テ行ハルヘク又之カ為指定セラレタル日及場所竝ニ売却セラルヘキ各種ノ漁区ノ貸付ニ関スル必要ナル細目ハ競売ノ少クトモ二月前ニ於テ「ヴラヂヴォストック」駐在日本国領事官ニ正式ニ通告セラルヘシ
競落者ナキ漁区ニ付テハ該漁区ハ前回ノ競売後十五日以內ニ且五日ヨリ早カラズシテ再ヒ競売ニ付セラルヘシ
鯨及鱈竝ニ特定ノ漁区內ニ於テ捕獲シ又ハ採取スルコト能ハサル一切ノ魚類及水產物ノ捕獲ハ特別ノ免許状ヲ具フル航海船ニ搭乗セル日本国臣民ニ許サルヘシ

第三条 本条約第二条ノ規定ニ從ヒ漁区ノ貸付ヲ受ケタル日本国臣民ハ該漁区ノ限界内ニ於テ岸地ヲ自由ニ使用スルノ権利ヲ有スヘシ右日本国臣民ハ該岸地ニ於テ自己ノ漁船及漁網ニ必要ナル修繕ヲ行ヒ、之ヲ岸ニ引上ケ竝ニ自己ノ捕獲物及採集物ヲ陸揚シ、加工シ及貯藏スルコトヲ得ヘク又之カ為該岸地ニ建物、倉庫、小屋及乾燥場ヲ建テ又ハ之ヲ移転スルコト自由タルヘシ

第四条 漁業ニ関シテ徴セラルヘキ税金、課金及手数料ニ付テハ日本国臣民ハ左ノ条件ニ從フヘク又如何ナル場合ニ於テモ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ人民ニ与ヘラルル所ニ比シ不利益ナル待遇ヲ受クルコトナカルベシ
(一) 漁業権ヲ有スル日本国臣民ニ課セラルベキ営業税ノ額ハ右日本国臣民カ捕獲シ、採取シ又ハ加工シタル魚類及水產物ノ漁場ニ於ケル価格ノ百分ノ三ヲ超ユルコトナカルヘシ
(二) 右日本国臣民ハ営業課稅竝ニ本條約附属議定書(甲)第九条ニ揭クル税金、課金及手数料ヲ除クノ外一切ノ税金、課金及手数料ヲ免除セラルヘシ
(三) 営業税竝ニ他ノ税金、課金及手数料ノ支払ハ両政府間ノ特別取極ニ依リ之ヲ処理スルコトヲ得
(四) 日本国ニ住所ヲ有シ且日本国臣民ニ貸付セラレタル漁場ニ於テ季節的労働ニ従事スル日本人タル被使用者ノ所得ニ対シテハ何等ノ税金又ハ課金ヲ徴スルコトナカルヘシ

第五条 「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ハ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ極東水域ニ於テ捕獲セラレ又ハ採取セラレタル魚類及水產物ニ対シテハ該魚類及水產物カ製造工程ヲ経タルト否トニ拘ラス「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ヨリ日本国ニ輸出セラルベキモノナルトキハ何等ノ税金ヲ徴スルコトナカルヘシ

第六条 本条約第一條ニ特定セラルル地方ニ於テ魚類及水產物ノ捕獲、採取及加工ニ従事スル日本国臣民ノ被使用者ノ国籍ニ付テハ何等ノ制限ヲ設クルコトナカルヘシ

第七条 魚類及水產物ノ加工方法ニ付テハ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ハ本条約第一条ニ特定セラルル地方ニ於テ漁業権ヲ取得シタル日本国臣民ニ対シテハ該地方ニ於テ漁業権ヲ取得シタル「ソヴィエト」社会主義共和国連邦人民カ免除セラルル何レノ制限ヲモ加ヘサルコトヲ約ス

第八条 漁業権ヲ取得シタル日本国臣民ハ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ権限アル領事館カ日本国ニ於テ発給シタル航海證書及日本国官憲カ発給シタル健全證書ヲ具フル航海船ヲ日本国ヨリ自己ノ漁場ヘ、自己ノ一ノ漁場ヨリ他ノ漁場ヘ及自己ノ漁場ヨリ日本国ヘノ直航ノ用ニ供スルコトヲ得又右船舶ハ搭載セル魚類及水產物ニシテ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ極東水域ニ於テ捕獲セラレ又ハ採取セラレタルモノノ第三国ヘノ輸出ニ要スル手続ニ従フニ於テハ漁場ヨリ直接右第三国ヘ航行スルコトヲ得
前記船舶ハ漁業ニ必要ナル人及物件竝ニ捕獲物及採取物ヲ課金及税金ヲ徴セラルルコトナク運搬スルコト自由タルヘシ
漁業権ヲ取得シタル日本国臣民ハ自己ノ漁区又ハ本条約第二条末項ニ揭クル免許状ヲ具フル船舶ノ間ニ於テ前記ノ人、物件、捕獲物及採取物ヲ陸上岸ニ沿ヒ又ハ海上漁船ニ搭載シテ課金及税金ヲ徴セラルルコトナク運搬スルコトヲ得
本条ノ規定ハ各自別別ノ漁区又ハ免許状ヲ有スル者カ共同シテ一ノ船舶又ハ漁船ヲ使用スル場合ニモ均シク適用セラルベシ
本条ノ規定ハ貸付期間ノ滿了シタル漁区内ニ在ル殘留財產ノ他ノ漁区又ハ日本国ヘノ移転ニ適用セラルヘシ
前記ノ船舶及漁船ハ他ノ一切ノ点ニ付テハ沿岸貿易ニ関シ制定セラレ又ハ制定セラルルコトアルヘキ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ法令ニ従フヘシ

第九条 漁業権ヲ取得シタル日本国臣民ハ日本国臣民カ捕獲シ又ハ採取シタル魚類及水產物ヲ何等ノ輸出免許ヲ要セスシテ日本国ニ自由ニ輸出スルコトヲ得又右日本国臣民ハ右魚類及水產物ヲ之カ輸出ニ要スル手続ニ従ヒ第三国ニ輸出スルコトヲ得
「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ国営若ハ他ノ企業又ハ人民ヨリ購入シタル魚類及水產物ノ輸出ニ付テハ右日本国臣民ハ之カ輸出ニ要スル手続ニ従フヘシ
右日本国臣民ハ専ラ自己ノ漁業ノ為及自己又ハ自己ノ被使用者ノ為ニ使用スルコトヲ目的トスル必需品ヲ何等ノ輸入免許ヲ要セスシテ輸入スルコト自由タルヘシ
前記貨物ノ輸入ニ対シテハ何等ノ税金及課金ヲ徴スルコトナカルヘシ右貨物及其ノ数量ハ毎年適当ナル時期ニ於テ権限アル地方官憲カ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ中央官憲ノ承認ヲ経テ作成スヘキ品目表中ニ明記セラルヘシ

第十条 漁業権ヲ取得シタル日本国臣民及其ノ被使用者ニシテ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦人民ニ非サルモノノ入国、滯在、移転及出国ニ関シテハ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ官憲ニ依リ制定セラレ又ハ制定セラルルコトアルヘキ簡易規則ヲ本条約第一条ニ特定セラルル地方ニ適用スヘシ他ノ一切ノ場合ニ於テハ日本国臣民ハ外国人ノ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ヘノ入国、之ニ於ケル滯在及之ヨリノ出国ニ関シ制定セラレ又ハ制定セラルルコトアルヘキ法令及規則ニ從フヘシ
前記地方ニ於テ漁業権ヲ取得シタル日本国臣民及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦人民ハ魚類ノ養殖、魚類及水產物ノ保護、之ニ密接ノ関係アル產業ノ取締竝ニ漁業ニ関スル他ノ一切ノ事項ニ関シ制定セラレ又ハ制定セラルルコトアルヘキ法律、規則及命令ニ付均等ノ地步ニ置カルヘシ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ極東水域ニ於ケル漁業ニ適用セラルヘキ法律及規則ニシテ新ニ制定セラレタルモノハ之カ施行ノ少クトモ三月前ニ日本国政府ニ通知セラルヘク「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ地方官憲ニ依リ新ニ発セラレタル右ト同一性質ノ命令ハ之カ施行ノ少クトモ二月前ニ「ハバロフスク」駐在日本国領事官ニ通知セラルヘシ

第十一条 日本国臣民ハ本条第一條ニ特定セラルル地方ノ限界外ニ在ル自己借受ノ陸上地区ニ於テ魚類及水產物ノ加工ニ従事スルコト自由タルヘシ但シ制定セラレ又ハ制定セラルルコトアルヘキ法律、規則及命令ニシテ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ一切ノ外国人ニ適用セラルヘキモノニ常ニ従フヘシ

第十二条 日本国政府ハ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦政府カ本条約ニ依リ日本国臣民ニ漁業権ヲ許与シタルコトニ鑑ミ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ極東水域ニ於テ捕獲セラレ又ハ採取セラレタル魚類及水產物ニ対シテハ該魚類及水產物カ製造工程ヲ経タルト否トニ拘ラス何等ノ輸入税ヲ課セサルコトヲ約ス

第十三条 日本人タル非使用者ハ日本国ニ居住シ、日本国ニ於テ雇傭セラレ及季節的漁業ノ労働ニ従ヒタル後日本国ニ帰還スルモノナルコト、其ノ慣行及習俗ハ日本人ニ特有ノモノナルコト、日本国及漁場間ノ無賃往復竝ニ全雇傭期間中ノ無料給食ヲ許与セラルルコト、正規ノ賃銀以外ニ捕獲物及採集物ノ配当ヲ与ヘラルルコト竝ニ医療及他ノ救恤手段ノ無料施設アルコトヲ認ムルニ因リ
「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ハ制定セラレ又ハ制定セラルルコトアルヘキ労働ノ保護及規律ニ関スル其ノ法令及規則ヲ本条約ノ規定ニ依リ日本国臣民ニ貸付セラレタル漁場ニ於ケル日本人タル被使用者ノ労働ニ適用スルニ当リ前記事実ニ適合セシムルコトヲ約ス

第十四条 本条約ニ於テ特ニ規定セラレサルモ本条約第一条ニ特定セラルル地方ニ於ケル漁業ニ関スル事項ニ付テハ日本国臣民ハ右地方ニ於テ漁業権ヲ取得シタル「ソヴィエト」社会主義共和国連邦人民ニ与ヘラルル所ト同一ノ待遇ヲ受クルノ権利ヲ有スヘシ

第十五条 本条約ハ八年間引続キ效力ヲ有スヘク且右期間ノ終ニ於テ修正又ハ更新セラルヘク爾後本条約ハ毎十二年ノ終ニ於テ修正又ハ更新セラルヘシ
締約国ノ一方ハ本条約ノ終了ノ十二月前ニ於テ本条約ヲ修正スルノ希望ヲ他方ニ通告スルコトヲ得右修正ノ為ノ商議ハ右十二月以内ニ結了セラルヘシ
締約国ノ何レモ右修正ノ為ノ通告ヲ為ササルトキハ本条約ハ更ニ十二年間引続キ效力ヲ有スヘシ

第十六条 本条約ハ批准セラルヘク又其ノ批准書ハ成ルヘク速ニ且如何ナル場合ニ於テモ之カ署名後四月ヨリ後ルルコトナク東京ニ於テ交換セラルヘシ
本条約ハ其ノ批准書交換ノ日ノ後五日目ヨリ実施セラルヘシ

右証拠トシテ各全権委員ハ英吉利語ヲ以テセル本条約二通ニ署名調印セリ

千九百二十八年一月二十三日「モスコー」市ニ於テ之ヲ作成ス
  田中都吉(印)
  エル、カラハン(印)
  エム、ラツィス(印)

    「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より
 ※旧字を新字に改めてあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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katoutakaaki01
 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、第50帝国議会衆議院本会議において、加藤高明首相による「普通選挙法提案理由」説明が行われた日です。 
 「普通選挙法」(ふつうせんきょほう)は、大正時代の1925年(大正14)に、加藤高明内閣によって制定された、成年男子による普通選挙を規定する、改正「衆議院議員選挙法」(大正14年5月5日法律第47号)の通称でした。
 日本の近代的選挙法は、1889年(明治22)の「衆議院議員選挙法」に始まりましたが、選挙権は①日本臣民の男子で年齢満25歳以上、②選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内に本籍を定め居住し引き続き居住している、③選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内において直接国税15円以上を納め引き続き納めている、という要件がある制限瀬選挙となります。その後納税資格は、1900年(明治33)の改正で直接国税10円以上、1919年(大正8)の改正で直接国税3円以上となり、徐々に選挙権も拡大されていきました。
 大正デモクラシーの中、普通選挙運動が高揚し、第50帝国議会(1924年12月~1925年3月)で、1925年(大正14)1月22日に加藤高明首相による「普通選挙法提案理由」説明が行われ、いろいろと議論された上、3月2日に衆議院で修正可決、3月26日に貴族院で修正可決され、「衆議院議員選挙法」改正(通称:普通選挙法)が公布されます。これによって、満25歳以上の男子はすべて有権者となり、同30歳以上の男子に被選挙権が与えられましたが、「貧困ニ因リ生活ノ為公私ノ救助ヲ受ケ又ハ扶助ヲ受クル者」「一定ノ住居ヲ有セサル者」などの最下層民衆や「華族ノ戸主」および現役軍人などには与えられず、また植民地の人民も除外され、また、選挙運動には全面的規制がなされました。
 その結果、有権者数は1920年(大正9年)5月現在で307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1,240万人(人口に対し20.1%)へと4倍に拡大されます。これに基づいて、1928年(昭和3年)2月20日に第16回衆議院選挙が実施され、立憲政友会が218議席、立憲民政党が216議席を得ましたが、無産政党も8議席(社会民衆党4議席、労働農民党2議席、日本労農党1議席、九州民憲党1議席)を獲得しました。
 尚、地方議会についても、1926年(大正15)6月の府県制、市制、町村制の改正により、ほぼ同様の普通選挙制が採用され、満25歳以上の男子はすべて有権者となります。しかし、当時の女性には参政権はなく、女性は「普選より婦選へ」をスローガンに婦人参政権を要求して運動を展開したものの、それが実現するのは、太平洋戦争後の1945年(昭和20)12月の改正「衆議院議員選挙法」成立によってで、翌年4月戦後最初の総選挙より、20歳以上の男女に選挙権が与えられてからとなりました。
 以下に、「加藤高明首相にの普通選挙法提案理由」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「加藤高明首相の普通選挙法提案理由」 1925年(大正14)1月22日衆議院本会議にて

 諸君恭しく考えまするに先帝が維新の宏謨を定め給いてより我国諸般の施設は実に驚くべき速度を以て進んだのであります。明治五年には学制が頒布せられ六年には徴兵令に依り国民皆兵の制が創始せられ、八年には元老院及び地方官会議が設けられ十四年に至っては国会開設が宣布せられる等その革新の程度は真に世界史上類例の稀なるところでありまして遂に明治二十二年を以って大憲が制定せられいよいよ立憲の制が実施せられることとなったのであります。恭しく案じまするに憲法御制定の終極の御趣旨は広く国民をして大政に参与せしめられ普く国民をして国家の進運を扶持せしめらるるにありと信じます。学生頒布以来実に五十余年を経ましたる今日に国民の智見も大いに進み、国民教育の普及並に程度に至っては世界列強に比して別に遜色ありとも考えられないのであります。徴兵令に依り国民皆兵の制が行われて以来亦五十年、その間数回の対外戦争をも経、国民は義勇奉公の誠を致し国家防護の責を尽すの実績を挙げたと見るに十分なりと信ずるのであります。因より自治の創始以来国民が政治的試練を経たることこれまた五十年に近いのでありまして、政治的責任の自覚及びその普及に至っても誠に徹底せるものありと認むるものであり、近時に至り普通選挙制の鬱然として与論の大勢を為すに至りましたことは誠に偶然でないと云わねばなりませぬ。政府はこの時代精神の嚮う所に鑑み広く国民をして国家の義務を負担せしめ普く国民をして政治上の責任に参加せしめ以って国運発展の衝に当らしめるが刻下最も急務なりと認めるのであります。斯かる趣旨より致しまして普通選挙制を骨子とする衆議院議員選挙法改正案を提出致為した次第であります。扨て又近時選挙を実見致しするに各種の悪弊百出し殆んどその極に達したりと見られることがあります。斯くの如くにして改めるところなくんば適材は候補たるを忌避するに至り随って議院全般の品位低落となり、憲政前途のため誠に憂慮に堪えないのであります。就中選挙費用の濫増は最も著しきものの一つであります。政府はこれ等弊害を矯正して選挙の公正を期するの途を立て選挙費用の低下を図りて選良を衆議院に網羅するの方法を講ずるは立憲政治をして健全なる発達を遂げしむる所以なりと信じ、これらに関する規則に対し根本的に改革を施すの必要を認めたのであります。これらの趣旨を以て衆議院議員選挙法全般に亙る改正案を提出いたしました、何卒御審議の上御協賛を乞う次第であります。

   「大阪朝日新聞」記事より

〇「普選法の国会通過」(抄文)

顧みれば普選案の衆議院上程は今日まで六回に及んでいる。第一回は第四十二議会、‥‥‥六回目の今回にいたって漸くものになったわけだ。‥‥‥普選の実施は何といっても我が憲政史上、画期的な重要事である。国会開設に次での有意義な出来事で、民権発達史上、特筆大書さるべきである。不公平にして不道理な制限選挙のために、折角立憲の聖代に生まれながら、参政権利を拒絶されて、君民同治の恩沢に浴することのできなかった国民の大部分が、これによって、いよ/\その力を政治生活、社会生活の上に合理的に、合法的にのばし、得ることになるのである。無産者として社会の下積みにされてゐた階級のうちから、新しい元気と精気とが‥‥‥発散され、新しい活動と創造との力を生み、国の命となり、社会の柱となって、無限に国礎を固め、国運を拓いて行くであらう。‥‥‥兎に角新しい時代の夜明けが迫ろうとしている。大正維新の第一歩を踏みだした訳である。
  
  「大阪朝日新聞」1925年(大正14)3月3日付社説より

〇改正「衆議院議員選挙法」(通称:普通選挙法)抜粋

第五条 帝国臣民たる男子にして年齢満二十五年以上の者は選挙権を有す。
     帝国臣民たる男子にして年齢満三十年以上の者は被選挙権を有す。

第六条 左に掲くる者は選挙権及被選挙権を有せず。
 三、貧困に因り生活の為公私の救助を受け又は扶助を受くる者
 四、一定の住居を有せざる者
    大正十四年五月五日

☆衆議院選挙の選挙権の推移

・1889年(明治22)の「衆議院議員選挙法」制定当初、次の資格を満たす者とされる
 ①日本臣民の男子で年齢満25歳以上
 ②選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内に本籍を定め居住し引き続き居住している
 ③選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内において直接国税15円以上を納め引き続き納めている
・1900年(明治33)の改正「衆議院議員選挙法」により次の資格を満たす者となる
 ①帝国臣民たる男子で年齢満25歳以上
 ②選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その選挙区内に住居を有し引き続き有する
 ③選挙人名簿調製の期日より前満1年以上地租10円以上又は満2年以上地租以外の直接国税10円以上若しくは地租とその他の直接国税とを通して10円以上を納め引き続き納めている
・1919年(大正8)の改正「衆議院議員選挙法」により、直接国税3円以上納付の満25歳以上の男子に改められる
・1925年(大正14)の改正「衆議院議員選挙法」(通称:普通選挙法)により納税資格が撤廃され、満25歳以上の男子となる
・1945年(昭和20)の改正「衆議院議員選挙法」により20歳以上の男女に選挙権が拡大され、婦人参政権が認められる
・2015年(平成27)の「公職選挙法等の一部を改正する法律」により、選挙権が満20年以上から満18年以上に改められる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1893年(明治26)歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の命日詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア美術家同盟(AR)が結成される詳細
1941年(昭和16)「人口政策確立要綱」を閣議決定し、1夫婦の出産目標数を平均5児とする詳細
1993年(平成5)小説家・劇作家・演出家安部公房の命日詳細
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