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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が、論文『クロポトキンの社会思想の研究』をめぐる筆禍事件(森戸辰男事件)により休職処分を受けた日です。
 森戸辰男事件(もりとたつおじけん)は、東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が、1919年(大正8)12月発行の同学部内経済学研究会機関誌「経済学研究」第1巻第1号(1920年1月1日付)に発表した、論文『クロポトキンの社会思想の研究』に対する筆禍事件です。発表後、上杉慎吉教授を指導者とする興国同志会の策動により危険思想と喧伝され、政府もこれを問題として、翌年1月10日に、政府の強圧に屈した経済学部教授会より、「経済学研究」編集署名人の同学部助教授大内兵衛と共に休職処分を受け、雑誌は回収されました。
 さらに、1月14日には「新聞紙法」第42条の朝憲紊乱の罪に問われ、編集署名人の大内と共に起訴されます。同年3月3日に東京地裁で有罪判決、控訴審である6月29日の東京控訴院でも有罪判決が出され、10月22日の大審院が上告を棄却して、刑事裁判が確定、森戸は禁固3ヶ月・罰金70円、大内は禁錮1ヶ月(執行猶予1年)・罰金20円に処され、両人共に東京帝国大学を失職し、森戸は11月4日に下獄しました。
 裁判では佐々木惣一、吉野作造らが特別弁護人となり、河上肇、長谷川如是閑(にょぜかん)らも大学自治擁護の論陣を張り、学界をはじめ言論界にいたるまで、政府の思想弾圧事件として広く反響を巻起します。その後、森戸および行動をともにして辞職した櫛田民蔵、細川嘉六を加えて森戸の師、高野岩三郎を所長とする「大原社会問題研究所」が発足、大内は大学に復職しました。

〇森戸辰男(もりと たつお)とは?

 大正から昭和時代に活躍した、経済学者・社会思想家・教育者(初代広島大学学長・名誉教授)・政治家です。明治時代前期の1888年(明治21)12月23日に、広島県福山東堀瑞(現在の福山市)で、旧福山藩士の父・森戸鸞蔵、母・チカの二男として生まれました。
 広島県立福山中学校を経て、1910年(明治43)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学経済学科へ進みます。社会科学あるいは社会問題を生涯の研究課題とし、1914年(大正3)に卒業後、高野岩三郎の経済統計研究室でしばらく助手をした後、1916年(大正5)に東京帝国大学法科大学社会政策学科助教授となりました。
 1919年(大正8)に機関誌「経済学研究」に発表した論文『クロポトキンの社会思想の研究』で朝憲紊乱の罪に問われ(森戸辰男事件)、翌年に機関誌「経済学研究」編集署名人の同学部助教授大内兵衛と共に休職処分を受け、起訴され、刑事裁判が確定(禁固3ヶ月・罰金70円)して失職します。1921年(大正10)に「大原社会問題研究所」所員となり、ドイツに留学してマルクス主義関係文献を収集し、1923年(大正12)に帰国後は同所員として活動しながら、労働者教育にも携わり、論壇で活躍しました。
 太平洋戦争後は、高野岩三郎、杉森孝次郎らの提唱で結成された「日本文化人連盟」に参加、日本社会党の結成にも加わります。1946年の第22回衆議院議員総選挙で旧広島3区から日本社会党公認で当選(以後連続3期当選)、翌年から片山哲内閣・芦田均内閣で文部大臣を務め、六・三・三制の学校制度、教育委員会の公選制など戦後の教育改革に尽力しました。
 1950年(昭和25)に衆議院議員を辞職し、広島大学学長に就任(1963年まで)、1955年(昭和30)には中央教育審議会委員(1963年から会長)となり、1966年(昭和41)に愛国心育成を強調した中間答申「期待される人間像」や1971年(昭和46)の生涯教育、奨学制度問題、教師の職制・給与の改善等を柱とする「第三の教育改革」の答申作成に取り組み、いわゆる中教審路線の推進者となります。一方で、1962年(昭和37)に日米文化教育会議発足で初代委員長・首席代表となり、1963年(昭和38)に日本放送協会学園高等学校初代校長、日本育英会会長に就任、1964年(昭和39)には日本図書館協会会長などを歴任しました。
 これらの活動に対して、1971年(昭和46)に文化功労者、福山市名誉市民ともなり、1974年(昭和49)に勲一等旭日大綬章を受章するなど数々の栄誉にも輝きます。1975年(昭和50)に教育の正常化を目標とする日本教育会発足で会長となり、1980年(昭和55)には名誉会長となりましたが、1984年(昭和59)5月28日に、東京において、95歳で亡くなりました。

〇森戸辰男の主要な著作

・翻訳ブレンターノ作『労働者問題』(1919年)
・翻訳メンガー作『全労働収益権史論』(1921年)
・『クロポトキンの片影』(1922年)
・『思想と闘争』(1925年)
・『学生と政治』(1926年)
・『大学の顚落』(1930年)
・『青年学徒に与う』(1946年)
・『平和革命の条件』(1950年)
・『学問の自由と大学の自由』(1961年)
・『思想の遍歴』上・下(1972~75年)
・『第三の教育改革―中教審答申と教科書裁判』(1973年)

☆森戸辰男関係略年表

・1888年(明治21)12月23日 広島県福山東堀瑞(現在の福山市)に旧福山藩士の父・森戸鸞蔵、母・チカの二男として生まれる
・1902年(明治35)3月 広島県深安郡福山町高等小学校を卒業する
・1907年(明治40)3月 広島県立福山中学校を卒業する
・1910年(明治43)7月 第一高等学校を卒業する
・1914年(大正3)7月 東京帝国大学法科大学経済学科を卒業する
・1916年(大正5)9月 東京帝国大学法科大学社会政策学科助教授となる
・1919年(大正8)12月 機関誌「経済学研究」に発表した論文『クロポトキンの社会思想の研究』で、上杉慎吉教授を指導者とする興国同志会の策動により危険思想と攻撃される(森戸辰男事件)
・1920年(大正9)1月10日 政府の強圧に屈した経済学部教授会より、機関誌「経済学研究」編集署名人の同学部助教授大内兵衛と共に休職処分を受ける
・1920年(大正9)1月14日 森戸辰男事件で、「新聞紙法」第42条の朝憲紊乱の罪に問われ、機関誌「経済学研究」編集署名人の同学部助教授大内兵衛と共に起訴される
・1920年(大正9)3月3日 東京地裁で有罪判決が出される
・1920年(大正9)6月29日 東京控訴院で有罪判決が出される
・1920年(大正9)10月22日 大審院が上告を棄却して、刑事裁判が確定(禁固3ヶ月・罰金70円)し、東京帝国大学を失職する
・1920年(大正9)11月4日 下獄する
・1921年(大正10) 「大原社会問題研究所」所員となり、ドイツに留学してマルクス主義関係文献を収集する
・1923年(大正12) ドイツより帰国後、論壇で活躍する
・1945年(昭和20)秋 高野岩三郎、杉森孝次郎らの提唱で結成された「日本文化人連盟」に参加する
・1945年(昭和20)11月 日本社会党の結成に参加する
・1946年(昭和21)4月 第22回衆議院議員総選挙で旧広島3区から日本社会党公認で当選する(以後連続3期当選)
・1947年(昭和22)6月 片山哲内閣で文部大臣に就任する
・1950年(昭和25)4月 衆議院議員辞職し、広島大学学長に就任する(1963年まで)
・1955年(昭和30) 中央教育審議会委員(1963年から会長)となる
・1962年(昭和37) 日米文化教育会議発足で初代委員長・首席代表となる
・1963年(昭和38)4月 日本放送協会学園高等学校初代校長に就任する
・1963年(昭和38)12月10日 広島市名誉市民となる
・1964年(昭和39) 日本図書館協会会長となる
・1964年(昭和39)11月 勲一等瑞宝章を受章する
・1966年(昭和41)10月 中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」に添付して、中間答申「期待される人間像」が出される
・1971年(昭和46) 生涯教育、奨学制度問題、教師の職制・給与の改善等を柱とする「第三の教育改革」を答申する
・1971年(昭和46)11月 文化功労者顕彰を受け、福山市名誉市民ともなる
・1974年(昭和49) 松下幸之助に請われ松下視聴覚教育研究財団理事長となる。
・1974年(昭和49)11月 勲一等旭日大綬章を受章する
・1975年(昭和50) 教育の正常化を目標とする日本教育会発足で会長となる
・1980年(昭和55)6月 日本教育会名誉会長となる
・1984年(昭和59)5月28日 東京において、95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人島村抱月の誕生日(新暦2月28日)詳細
1922年(大正11)政治家・教育者大隈重信の命日詳細
1947年(昭和22)小説家織田作之助の命日詳細
1951年(昭和26)「日本の現代物理学の父」とも言われる物理学者仁科芳雄の命日詳細