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明恵(みょうえ)は、紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現在の和歌山県有田川町)で、高倉上皇の武者所に伺候した父・平重国の子(母は湯浅宗重の第四女)として生まれましたが、得度して成弁、のち高弁と言いました。1180年(治承4)の9歳の時、両親を失い、翌年の秋に、母方の叔父の上覚を頼り、高雄神護寺(現在の京都市)に入ります。
1188年(文治4)の17歳の時、東大寺戒壇院で受戒して法諱を成弁とし、尊勝院弁暁・聖詮について華厳・俱舎を受学し、密教を興然・実尊に、禅を栄西について学びました。1195年(建久6)に遁世して、紀州白上峰に籠って修行を積み、1198年(建久9)には高雄に戻ります。
高雄を拠点として活動し、1202年(建仁2)にインドに渡ろうとしたものの、病気のため断念、1205年(元久2)には、釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくり、再度インドに渡って仏跡を拝せんとしましたが、春日明神の託宣により果たせませんでした。1206年(建永元)に後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾の地を与えられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興して、華厳宗を唱え、南都仏教の復興を図ろうとします。
1212年(建暦2)に、法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、翌年には、『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著してそれを補足しました。また、上覚から伝法灌頂を受け、華厳と密教との融合、学問研究と実践修行の統一を図り、『唯心観行式(ゆいしんかんぎょうしき)』、『三時三宝礼釈(らいしゃく)』、『華厳仏光三昧観秘宝蔵(けごんぶっこうざんまいかんひほうぞう)』を著しています。
1221年(承久3)の承久の乱では、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交し、栄西が将来したチャを栂尾に栽培して、その普及に尽くしました。女人救済にも努め、1223年(貞応2)に善妙尼寺を開創しましたが、本尊は高山寺に安置されていた釈迦如来像が遷されたものです。
1231年(寛喜3)に、故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれたものの、翌年1月19日に、弥勒の宝号を唱えながら、数え年60歳で亡くなりました。
1188年(文治4)の17歳の時、東大寺戒壇院で受戒して法諱を成弁とし、尊勝院弁暁・聖詮について華厳・俱舎を受学し、密教を興然・実尊に、禅を栄西について学びました。1195年(建久6)に遁世して、紀州白上峰に籠って修行を積み、1198年(建久9)には高雄に戻ります。
高雄を拠点として活動し、1202年(建仁2)にインドに渡ろうとしたものの、病気のため断念、1205年(元久2)には、釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくり、再度インドに渡って仏跡を拝せんとしましたが、春日明神の託宣により果たせませんでした。1206年(建永元)に後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾の地を与えられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興して、華厳宗を唱え、南都仏教の復興を図ろうとします。
1212年(建暦2)に、法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、翌年には、『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著してそれを補足しました。また、上覚から伝法灌頂を受け、華厳と密教との融合、学問研究と実践修行の統一を図り、『唯心観行式(ゆいしんかんぎょうしき)』、『三時三宝礼釈(らいしゃく)』、『華厳仏光三昧観秘宝蔵(けごんぶっこうざんまいかんひほうぞう)』を著しています。
1221年(承久3)の承久の乱では、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交し、栄西が将来したチャを栂尾に栽培して、その普及に尽くしました。女人救済にも努め、1223年(貞応2)に善妙尼寺を開創しましたが、本尊は高山寺に安置されていた釈迦如来像が遷されたものです。
1231年(寛喜3)に、故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれたものの、翌年1月19日に、弥勒の宝号を唱えながら、数え年60歳で亡くなりました。
〇明恵の主要な著作
・『摧邪輪(ざいじゃりん)』3巻(1212年)
・『持経講式』(1214年)
・『三時三宝礼釈』(1215年)
・『光明真言功能』(1223年以降)
・『入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)』
・『華厳信種義(しんしゅぎ)』
・『光明真言句義釈』
・『華厳唯心義』
・『光明真言土沙勧信記』
☆明恵関係略年表(日付は旧暦です)
・1173年(承安3年1月8日) 紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現在の和歌山県有田川町)で、平重国の子(母は湯浅宗重の第四女)として生まれる
・1180年(治承4年) 9歳の時、両親を失う
・1181年(養和元年)秋 高雄神護寺(現在の京都市)に入る
・1188年(文治4年) 17歳の時、叔父の上覚上人を師として出家し、東大寺戒壇院で受戒し、成弁となる
・1190年(建久元年) 19歳の時から記録を書き始める
・1195年(建久6年) 遁世して、紀州白上峰に籠る
・1198年(建久9年) 高雄にもどる
・1202年(建仁2年) インドに渡ろうとしたが、病気のため断念する
・1205年(元久2年) 釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくる
・1206年(建永元年) 後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾(とがのお)の地をあたえられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興する
・1212年(建暦2年) 法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著す
・1213年(建暦3年) 『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著す
・1221年(承久3年) 承久の乱で、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交する
・1223年(貞応2年) 女人救済にも努め、善妙尼寺を開創する
・1231年(寛喜3年) 故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれる