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 今日は、平安時代末期の1173年(承安3)に、華厳宗の学僧明恵が生まれた日ですが、新暦では2月21日となります。
 明恵(みょうえ)は、紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現在の和歌山県有田川町)で、高倉上皇の武者所に伺候した父・平重国の子(母は湯浅宗重の第四女)として生まれましたが、得度して成弁、のち高弁と言いました。1180年(治承4)の9歳の時、両親を失い、翌年の秋に、母方の叔父の上覚を頼り、高雄神護寺(現在の京都市)に入ります。
 1188年(文治4)の17歳の時、東大寺戒壇院で受戒して法諱を成弁とし、尊勝院弁暁・聖詮について華厳・俱舎を受学し、密教を興然・実尊に、禅を栄西について学びました。1195年(建久6)に遁世して、紀州白上峰に籠って修行を積み、1198年(建久9)には高雄に戻ります。
 高雄を拠点として活動し、1202年(建仁2)にインドに渡ろうとしたものの、病気のため断念、1205年(元久2)には、釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくり、再度インドに渡って仏跡を拝せんとしましたが、春日明神の託宣により果たせませんでした。1206年(建永元)に後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾の地を与えられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興して、華厳宗を唱え、南都仏教の復興を図ろうとします。
 1212年(建暦2)に、法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、翌年には、『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著してそれを補足しました。また、上覚から伝法灌頂を受け、華厳と密教との融合、学問研究と実践修行の統一を図り、『唯心観行式(ゆいしんかんぎょうしき)』、『三時三宝礼釈(らいしゃく)』、『華厳仏光三昧観秘宝蔵(けごんぶっこうざんまいかんひほうぞう)』を著しています。
 1221年(承久3)の承久の乱では、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交し、栄西が将来したチャを栂尾に栽培して、その普及に尽くしました。女人救済にも努め、1223年(貞応2)に善妙尼寺を開創しましたが、本尊は高山寺に安置されていた釈迦如来像が遷されたものです。
 1231年(寛喜3)に、故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれたものの、翌年1月19日に、弥勒の宝号を唱えながら、数え年60歳で亡くなりました。

〇明恵の主要な著作

・『摧邪輪(ざいじゃりん)』3巻(1212年)
・『持経講式』(1214年) 
・『三時三宝礼釈』(1215年)
・『光明真言功能』(1223年以降)
・『入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)』
・『華厳信種義(しんしゅぎ)』
・『光明真言句義釈』
・『華厳唯心義』
・『光明真言土沙勧信記』

☆明恵関係略年表(日付は旧暦です)

・1173年(承安3年1月8日) 紀伊国有田郡石垣荘吉原村(現在の和歌山県有田川町)で、平重国の子(母は湯浅宗重の第四女)として生まれる
・1180年(治承4年) 9歳の時、両親を失う
・1181年(養和元年)秋 高雄神護寺(現在の京都市)に入る
・1188年(文治4年) 17歳の時、叔父の上覚上人を師として出家し、東大寺戒壇院で受戒し、成弁となる
・1190年(建久元年) 19歳の時から記録を書き始める
・1195年(建久6年) 遁世して、紀州白上峰に籠る
・1198年(建久9年) 高雄にもどる
・1202年(建仁2年) インドに渡ろうとしたが、病気のため断念する
・1205年(元久2年) 釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくる
・1206年(建永元年) 後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾(とがのお)の地をあたえられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興する
・1212年(建暦2年) 法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著す
・1213年(建暦3年) 『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著す
・1221年(承久3年) 承久の乱で、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交する
・1223年(貞応2年) 女人救済にも努め、善妙尼寺を開創する
・1231年(寛喜3年) 故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれる
・1232年(貞永元年1月19日) 弥勒の宝号を唱えながら、数え年60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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