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 今日は、江戸時代前期の1669年(寛文9)に、国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の生まれた日ですが、新暦では2月3日となります。
 荷田 春満(かだ の あずままろ)は、京都において、京都伏見稲荷神社の神官、父・羽倉信詮(のぶあき)と母・貝子(細川忠興の家臣深尾氏の娘)の二男として生まれましたが、初名は信盛と称し、のちに東丸となりました。1697年(元禄10)の20歳の時、妙法院宮尭延法親王の家来となって和歌を進講し、翌年に歌集『春葉集』が成りましたが、1699年(元禄12)には暇をもらっています。
 1700年(元禄13)に江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して、教授講義をもって家名を興すために江戸に下りました。稲荷神道の喧伝につとめ、1707年(宝永4)頃から、『万葉集』をはじめとする古典の研究、講義に入ります。
 1713年(正徳3)にいったん帰京するも、すぐ出府しましたが、1714年(正徳4)に再び帰京して、老母に孝養を尽くました。1722年(享保7)に三度めの出府をし、将軍徳川吉宗から幕府書物奉行下田師古への和学相伝の命を受け、幕府書庫の蔵書の鑑定などを命じられ、また故実、書籍、古語についての下問に答えています。
 1723年(享保8)に帰京したものの、幕府からの下問には書簡で答えてきましたが、1727年(享保12)には、胸の病に罹って、幕臣としの職を辞しました。1728年(享保13)には、著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じ、養子在満を出府させ、幕府からの下問の仕事に当たらせています。
 日本古典の儒教的・仏教的解釈を排斥して、古語・古文によって、日本固有の古代精神を明らかにすることを試み、『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』などを研究しましたが、1730年(享保15)に中風に罹り、1736年(元文元年7月2日)に、京都において、数え年68歳で亡くなりました。賀茂真淵や養子の荷田在満をはじめ、多くの門人を取り立て、後の国学の発展に大きな影響を与え、後世に賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)と共に「国学の四大人(うし)」と呼ばれるようになります。

〇荷田春満の主要な著作

・『日本書紀訓釈』
・『万葉集改訓抄』
・『万葉集僻案抄』
・『万葉集童蒙抄(どうもうしょう)』
・『万葉集童子問』
・『伊勢(いせ)物語童子問』(1728年成立)
・『創学校啓 (そうがつこうけい) 』(1728年)
・歌集『春葉集』(1698年)

☆荷田春満関係略年表(日付は旧暦です)

・1669年(寛文9年1月3日) 京都において、京都伏見稲荷神社の神官、父・羽倉信詮(のぶあき)と母・貝子(細川忠興の家臣深尾氏の娘)の二男として生まれる
・1697年(元禄10年) 20歳の時、妙法院宮尭延法親王の家来となって和歌を進講する
・1698年(元禄11年) 歌集『春葉集』が成る
・1699年(元禄12年) 暇をもらう
・1700年(元禄13年) 江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して、教授講義をもって家名を興すために江戸に下る
・1707年(宝永4年)頃 『万葉集』をはじめとする古典の研究、講義に入る
・1713年(正徳3年) いったん帰京するも、すぐ出府する
・1714年(正徳4年) 帰京して老母に孝養を尽くす
・1722年(享保7年) 三度めの出府、将軍徳川吉宗から幕府書物奉行下田師古への和学相伝の命を受け、幕府書庫の蔵書の鑑定などを命じられ、また故実、書籍、古語についての下問に答える
・1723年(享保8年) 帰京したが、幕府からの下問に書簡で答える
・1727年(享保12年) 幕臣として仕えてきたが、胸の病に罹って職を辞す
・1728年(享保13年) 著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じ、養子在満を出府させ、幕府からの下問の仕事に当たらせる
・1730年(享保15年) 中風に罹る
・1733年(享保18年) 賀茂真淵 (まぶち) が入門する
・1736年(元文元年7月2日) 京都において、数え年68歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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