ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年12月

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 今日は、鎌倉時代の文永2年に、藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進した日ですが、新暦では1266年2月2日となります。
 『続古今和歌集』(しょくこきんわかしゅう)は、鎌倉時代の第11勅撰和歌集で、1259年(正元元年3月16日)に後嵯峨院の院宣により、藤原基家・為家・行家・光俊が撰し、1266年2月2日(文永2年12月26日)に成立、奏覧され、翌年3月12日に竟宴が催されました。全20巻で1,925首が収載され、菅原長成の真名序と藤原基家の仮名序を付し、構成は、1巻(春上)・2巻(春下)・3巻(夏)・4巻(秋上)・5巻(秋下)・6巻(冬)・7巻(神祇)・8巻(釈教)・9巻(離別)・10巻(羇旅)・11巻(恋一)・12巻(恋二)・13巻(恋三)・14巻(恋四)・15巻(恋五)・16巻(哀傷)・17巻(雑上)・18巻(雑中)・19巻(雑下)・20巻(賀)となっています。
 代表歌人は、宗尊親王(67首)、西園寺実氏(61首)、藤原定家(56首)、後嵯峨院(54首)、後鳥羽院(49首)、藤原為家(44首)、藤原家隆(41首)、土御門院(38首)、順徳院(35首)、藤原光俊(30首)などとなっていました。『古今集』・『新古今集』を勅撰集の正道と見なし、この二集を引き継ぐ意図が見られ、活発で華やかな後嵯峨院歌壇を反映し、多彩な作風を見せていますが、華麗ではあるものの、古風な傾向も顕著とされています。
 出典としては、1201年(建仁元)の「千五百番歌合」、1248年(宝治2)の「後嵯峨院百首」、1216年(建保4)の「後鳥羽院百首」、1261年(弘長元)以後の「弘長百首」などとなっていました。

<『続古今和歌集』の代表的な歌>

・「はつせめの 峰の桜の 花かづら 空さへかけて にほふ春風」(藤原為家)
・「しのぶべき これやかぎりの 月ならむ さだめなき世の 袖の別れは」(藤原基家)
・「神よかみ なほすみよしと みそなはせ わがよにたつる 宮ばしらなり」(後嵯峨院)
・「たづねばや 青葉の山の おそざくら 花ののこるか 春のとまるか」(後嵯峨院)
・「秋風に またこそとはめ 津の国の 生田の森の 春のあけぼの」(順徳院)
・「あすか風 かは音ふけて たをやめの 袖にかすめる 春の夜の月」(宗尊親王)

〇勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)とは? 

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

☆「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、医学者・細菌学者・生化学者梅澤濱夫の亡くなった日です。
 梅澤濱夫(うめざわ はまお)は、1914年(大正3)10月1日に、福井県小浜市において、医師で小浜病院院長であった父・梅澤純一(医学博士)の次男としてて生まれましたが、1923年(大正12)に父・純一が札幌鉄道病院長に任命されたのを機に、家族で札幌へ移住しました。1931年(昭和6)に東京の武蔵高校に入学し、1933年(昭和8)に卒業後、東京帝国大学医学部へ進みます。
 1937年(昭和12)に東京帝国大学医学部を卒業後、同大学の細菌学教室に入り、細菌の取り扱い方などを学びました。その後、千葉県習志野の陸軍病院に召集されましたが、1943年(昭和18)に召集解除され、東京帝国大学医学部細菌学教室の助手に就任します。
 1944年(昭和19)につくられたペニシリンの開発研究組織(後の碧素委員会)に参加、藤原工業大学(現、慶応義塾大学工学部)助教授の長兄純夫と共に日本で初めてペニシリンの分離に成功しました。同年に東京帝国大学助教授ともなり、翌年には、「ヘンリー氏マラリア血清反応に関する研究」で医学博士を取得しています。
 1947年(昭和22)に国立予防衛生研究所の抗生物質部長となり、1953年(昭和28)に、抗生物質ザルコマイシンを発見しました。1954年(昭和29)に東京大学応用微生物研究所の教授を兼任、1957年(昭和32)には、結核治療薬カナマイシンを発見、それにより、翌年に朝日賞を受賞、また、その特許料で財団法人微生物化学研究会を設立して理事長となります。
 そして、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰(1959年)、レジオンドヌール勲章(1961年)、日本学士院賞、フランス政府から衛生保健文化賞、文化勲章(1962年)など数々の栄誉にも輝きました。その後も、ブレオマイシン発見(1963年)、カスガマイシン発見(1964年)、ジョサマイシン発見(1965年)、アルベカシン創製(1973年)、ピラルビシン創製(1979年)など、抗生物質の研究で世界をリードします。
 これらの功績により、1980年(昭和55)にパウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞受賞、1981年(昭和56)にレオポルド・グリフエル賞受賞、1983年(昭和58)に国際化学療法学会賞受賞など国際的に評価されたものの、1986年(昭和61)12月25日に、東京において、72歳で亡くなりました。

〇梅澤濱夫関係略年表

・1914年(大正3)10月1日 医師梅澤純一(医学博士、元小浜病院院長、元札幌鉄道病院院長)の次男として福井県小浜市にて生まれる
・1923年(大正12) 父・純一が札幌鉄道病院長に任命されたのを機に、家族で札幌へ移住する
・1931年(昭和6) 武蔵高校に入学する
・1933年(昭和8) 武蔵高校を卒業し、東京帝国大学医学部へ入学する 
・1937年(昭和12) 東京帝国大学医学部を卒業、同大学の細菌学教室に入り、細菌の取り扱い方などを学ぶ。
・1943年(昭和18) 召集解除され、東京帝国大学医学部細菌学教室の助手に就任する
・1944年(昭和19) 東京帝国大学助教授となり、梅澤純夫と共に日本で初めてペニシリンの分離に成功する
・1945年(昭和20) 「ヘンリー氏マラリア血清反応に関する研究」で東京大学から医学博士を得る 
・1947年(昭和22) 国立予防衛生研究所の抗生物質部長となる
・1953年(昭和28) 抗生物質ザルコマイシンを発見する
・1954年(昭和29) 東京大学応用微生物研究所の教授を兼任する
・1957年(昭和32) 結核治療薬カナマイシンを発見する
・1958年(昭和33) 朝日賞(抗生物質の研究、とくにカナマイシンの発見)
・1959年(昭和34) カナマイシンの特許料で財団法人微生物化学研究会を設立して理事長となり、科学技術庁長官賞科学技術功労者の表彰を受ける
・1961年(昭和36) レジオンドヌール勲章を受章する
・1962年(昭和37) 財団法人微生物化学研究会微生物化学研究所所長となり、日本学士院賞、フランス政府から衛生保健文化賞、文化勲章を受章する
・1963年(昭和38) ブレオマイシンを発見する
・1964年(昭和39) イネのいもち病にきくカスガマイシンを発見する
・1965年(昭和40) ジョサマイシンを発見する
・1966年(昭和41) ブレオマイシンという抗生物質を制癌剤として利用する方法を創始する
・1971年(昭和46) 藤原賞を受賞する
・1973年(昭和48) アルベカシンを創製する
・1976年(昭和51) 高松宮妃癌研究基金学術賞を受賞する
・1977年(昭和52) 東京大学名誉教授となる
・1979年(昭和54) ピラルビシンを創製する
・1980年(昭和55) パウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞を受賞する
・1981年(昭和56) レオポルド・グリフエル賞を受賞する
・1983年(昭和58) 国際化学療法学会賞 (ISC Award)を受賞する
・1986年(昭和61)12月25日 東京において、72歳で亡くなり、勲一等瑞宝章、従三位が追贈される 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、「徴兵適齢臨時特例」が公布・施行され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳になった日です。
 「徴兵適齢臨時特例」(ちょうへいてきれいりんじとくれい)は、太平洋戦争時に戦局の悪化による兵力不足を補うために、当面の間、徴兵年齢を1歳引き下げ、20歳から19歳へ変更する勅令(昭和18年勅令第939号)でした。まず、兵力不足に対応するため、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消し(学徒出陣)を決め、1943年(昭和18)10月2日に勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行されます。
 さらに、10月12日に「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められました。続いて、この勅令が12月24日に出され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳に拡大され、翌年10月18日には、「兵役法施行規則改正」(陸軍省令第49号)で、11月1日付けで17歳以上が兵役に編入されます。こうして、若者が次々と召集されて、戦地に赴くこととなりました。
 以下に、「徴兵適齢臨時特例」(昭和18年勅令第939号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「徴兵適齢臨時特例」(昭和18年勅令第939号)1943年(昭和18)12月24日公布・施行

兵役法第二十四条ノ二ノ規定ニ依リ当分ノ内同法第二十三条第一項及第二十四条ニ規定スル年齢ハ十九年ニ変更ス

  附 則

1 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス但シ朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定ノ適用ヲ受クル者ニ対シテハ別ニ定ムル期日ヨリ之ヲ適用ス
2 昭和十八年十二月一日ヨリ昭和十九年十一月三十日迄ノ間ニ於テ年齢二十年ト為ル者ニ付テハ本令ヲ適用セズ

<現代語訳>

「兵役法」第24条の二の規定によって、当分の間同法第23条第1項および第24条に規定する年齢は、19年に変更する。

 付則

1 本令は公布の日より施行する。ただし、朝鮮民事令戸籍に関する規定の適用を受けている者に対しては別に定める期日より適用する。
2 昭和18年12月1日より昭和19年11月30日までの間に年齢が20年となる者については本令を適用しない。

☆学徒出陣関係略年表

<1941年(昭和16)>
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」(勅令第924号)が出される
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和16年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第79号)で、1941年度卒業生は修業年限が3ヵ月短縮される
・11月1日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和17年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第81号)で、1942年度卒業生は修業年限6ヵ月短縮される(予科と高等学校も含む)
・12月 同年の卒業生を対象に臨時徴兵検査を実施する

<1942年(昭和17)>
・2月 修業年限3ヶ月短縮の臨時徴兵検査合格者を入隊させる
・10月16日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和18年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第68号)で、1943年度卒業生は修業年限6ヵ月短縮される

<1943年(昭和18)>
・1月21日 「高等学校令中改正」(勅令第38号)、「大学令中改正」(勅令第40号)で、高等学校・大学予科の修業年限を2年に短縮し、1943年入学者から適用する
・3月8日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」改正(勅令第111号)で、大学の在年限短縮を例年続けることを決定する
・10月1日 閣議において、大学や専門学校などに通う理工系と教員養成系を除く学生・生徒の徴兵猶予を取り消しを決める
・10月2日 勅令「在学徴集延期臨時特例」が公布・施行され、文科系学生の徴兵猶予が撤廃される
・10月12日 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められる
・10月12日 「在学徴集延期停止ニ関スル件」文部次官通達で、徴集延期中の学生・生徒に、全員10月25日~11月5日まで本籍地での徴兵検査を受けることを指示する
・10月21日 明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集う
・11月25日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和19年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第74号)で、1944年度卒業生は修業年限が6ヵ月短縮される
・12月24日 「徴兵適齢臨時特例」(勅令第939号)で、徴兵年齢を19歳に引き下げる

<1944年(昭和19)>
・10月18日 「兵役法施行規則改正」(陸軍省令第49号)で、11月1日付けで17歳以上を兵役に編入される

<1945年(昭和20)>
・3月19日 「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和20年度臨時短縮ニ関スル件」(文部省令第74号)で、医学部,医学専門部,臨時教員養成所等の学生も含め、1944年度卒業生は修業年限が6ヵ月短縮される。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)言語学者・国語学者橋本進吉の誕生日詳細
1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
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1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細

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 今日は、江戸時代前期の慶長18年に、徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布された日ですが、新暦では1614年2月1日となります。
 「伴天連追放之文[禁教令]」(ばてれんついほうのふみ)は、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠名で発布されたキリスト教禁止を全国に広げた法令でした。それ以前の1612年4月21日(慶長17年3月21日)に、江戸幕府は江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して「禁教令」を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じ、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行っています。
 しかし、一方でポルトガル等との貿易は継続していたので、その趣旨は徹底せず、潜伏する者もいて、一部で伝道者たちが残り、依然としてキリスト教の活動は続くこととなりました。そこで、「禁教令」の全国への徹底を意図して、徳川家康は金地院崇伝に命じて、「伴天連追放之文」を起草させ、1614年2月1日(慶長18年12月23日)に徳川秀忠の名で公布します。
 これは、南蛮人と日本人たるとを問わず、またイエズス会、フランシスコ会の区別なく、伝道者たちを日本から徹底的に追放することを意図したものとなりました。これによって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されています。
 以後、江渡幕府のキリスト教に対する基本法となって継続されていきました。
 以下に、伴天連追放之文(禁教令)を現代語訳・注釈付で全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
 
☆伴天連追放之文(禁教令) (全文)  1614年2月1日(慶長18年12月23日)発布 

<原文> 

乾為父坤為母、人生於其中間、三才於是定矣、夫日本者、元是神国也、陰陽不測、名之謂神、聖之為聖、霊之為霊、誰不尊崇、況人之得生、悉陰陽之所感成、五体六塵、起居動静、須臾不離神、神非求乎他、人々具足、介々円成、廼是神之体也。又称仏国、不無據、文云、惟神明垂迹国、而大日之本国矣、法華曰、諸仏救世者、住於大神通、為悦衆生故、現無量神力、此金口妙文、神與仏其名異、而其趣一者、恰如合符節、上古緇素、各蒙神助、航大洋而遠入震旦、求仏家之法、求仁道之教、孜孜矻矻、而内外之典籍負将来、後来之末学、師々相承的々伝受、仏法之昌盛、超越於異朝、豈是非仏法東漸乎、爰吉利支丹之徒党、適来於日本、非啻渡商船而通資材、叨欲弘邪法惑正宗、以改域中之政号、作己有、是大禍之萌也、不可有不制矣、日本者神国仏国、而尊神敬仏、専仁義之道、匡善悪之法、有過犯之輩、随其軽重、行墨劓剕宮大辟之五刑、礼云、喪多而服五、罪多而刑五、有罪之疑者、乃以神為證誓、定罪罰之条目、犯不犯之区別、繊毫不差、五逆十悪之罪人者、是仏神三宝、人天大衆之所弃捐也、積悪之余殃難逃、或斬罪、或炮烙、獲罪如是、勧善懲悪之道也、欲制悪悪易積、欲進善害難保、豈不加炳誡乎、現世猶如此、後世冥道閣老之呵責、三世諸仏難救、歴代列祖不奈、可畏、可畏、彼伴天連徒党、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正方、残義損善、見有刑人、載欣載奔、自拝自礼、以是為宗之本懐、非邪法何哉、実神敵仏敵也、急不禁、後世必有国家之患、殊司号令不制之、却蒙天譴矣、日本国之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、強有違命者、可刑罰之、今幸受天之詔命、主于日域、乗国柄者、有年於茲、外顕五常之至徳、内帰一大之蔵教、是故国豊民安、経曰、現世安穏、後世善処、孔子亦日、身体髪膚、受于父母、不敢毀傷、孝之始也、全其身乃是敬神也、早斥彼邪法、弥昌吾正法、世既雖及繞季、益神道仏法紹隆之善政也、一天四海、宜承知、莫敢遺失矣。
    慶長十八龍集癸丑臘月日
      御朱印 

   『異国日記』より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

乾[1]は父と爲し、坤[2]は母と爲す。人其の中間[3]に生まる。三才[4]是に於て定まる。夫れ日本は元是れ神国也。陰陽[5]測られず、これを名づけて神と謂う。聖の聖為る、霊の霊為る、誰か尊崇[6]せざらん。況人の生を得る、悉く陰陽[5]の感ずる所成り。五体[7]六塵[8]、起居動静[9]、須臾[10]も神を離れず、神は他に求むるにあらず。人々具足[11]、介々円成[12]、廼ち是神の体也。又仏国と称する、據る[13]無からず。文に云わく、惟神明[14]垂迹[15]の国、而して大日[16]の本国たりと。法華[17]に曰く、諸仏の救世[18]は、大神通[19]に住す、衆生[20]を悦ばすが為の故に、無量[21]の神力を現す。此の金口[22]妙文[23]、神と佛と其名異なりて、而して其趣一なるは、恰も符節[24]を合するが如し。上古緇素[25]、各神助[26]を蒙り、大洋を航して遠く震旦[27]に入り、仏家の法を求め、仁道[28]の教を求めて、孜孜矻矻[29]たり。而して内外の典籍[30]負て将来[31]し、後来の末学[32]、師々相承け的々伝受[33]し、仏法の昌盛、異朝[34]に超越す。豈是仏法の東漸[35]に非ずや。爰に吉利支丹の徒黨[36]、適日本に來り、啻に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨るに、邪法[37]を弘め、正宗[38]を惑はさんと欲し、以つて域中の政號[39]を改めて、己が有と作さんとす。是れ、大禍の萠[40]なり。制せずんば有るべからず。日本は神国・佛国にして、神を尊び、佛を敬す。仁義[41]の道を専らにし、善悪の法を匡し、過犯[42]の輩有らば、其軽重に随い、墨劓剕宮大辟[43]の五刑を行う。礼に云く、喪多くして服五[44]、罪多くして刑五[45]、罪の疑有る者は、乃ち神を以て證誓[46]と為し、罪罰の条目を定め、犯不犯の区別、繊毫[47]も差わず、五逆十悪[48]の罪人は、是仏神三宝、人天大衆の弃捐[49]する所なり。積悪の余殃[50]逃れ難し、或は斬罪に、或は炮烙[51]に、罪を獲る是の如し、勧善懲悪[52]の道なり、悪を制せんと欲して悪積み易く、善を進めんと欲して害保ち難し、豈炳誡[53]を加えざらんや。現世猶此の如し、後世冥道[54]閣老[55]の呵責[56]、三世諸仏[57]も救い難く、歴代の列祖[58]奈ともせず、畏るべし、畏るべし。彼の伴天連[59]の徒党、皆件の政令[60]に反し、神道を嫌疑し、正法[61]を誹謗し、義を残ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載ち欣び載ち奔り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐[62]と爲す。邪法[37]に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴[63]を蒙らん。日本国の内、寸土の尺地[64]、手足を措く所無し[65]。強いて 違命[66]有らば、之れを刑罰すべし。今幸に天の詔命[67]を受け、日域[68]に主となり、国柄[69]を乗る者、茲に年有り。外五常[70]の至徳を顕し、内一大の蔵教[71]に帰す。是故に国豊にして民安し、経に曰く、現世安穏[72]、後世善処[73]と、孔夫子亦曰く、身躰髪膚[74]、父母に受く、放て毀傷[75]せざるは孝の始也と。全きその身乃ちこれ敬神也。早く彼の邪法[37]を斥けば、弥々吾が正法[61]昌んならん。世既に澆季[76]と雖も、益々神道仏法紹隆[77]の善政也。一天四海[78]宜しく承知すべし。敢て違失[79]するなかれ。
 慶長十八年龍集癸丑臘月日
      御朱印
 
【注釈】

[1]乾:けん=そら。天。あめ。 
[2]坤:こん=土地。大地。つち。 
[3]中間:ちゅうげん=二つのものの間にあるもの、間に考えられるもの。 
[4]三才:さんさい=世界を形成するものとしての天・地・人の称。三元。三儀。三極。 
[5]陰陽:おんよう=易で、相対する概念。陰(いん)と陽。いんよう。 
[6]尊崇:そんすう=尊びあがめること。尊敬。 
[7]五体:ごたい=身体の五つの部分。筋、脈、肉、骨、毛皮の称。 
[8]六塵:ろくじん=色・声・香・味・触・法の六境のこと。心を汚し煩悩を起こさせるのでいう。 
[9]起居動静:きこどうじょう=起きること、居ること、働くこと、静かにしていること。日常の動作、生活をいう。 
[10]須臾:しゅゆ=短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。 
[11]人々具足:にんにんぐそく=人には、それぞれみな仏性(ぶっしょう)がそなわっているということ。 
[12]介々円成:かいかいえんじょう=助け合って円満に成就すること。 
[13]據る:よる=よりどころ。 
[14]神明:しんめい=神。神祇(じんぎ)。 
[15]垂迹:すいじゃく=仏教と神道とが結びついて生れた思想で,仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために,かりに神々の姿となって示現すること。
[16]大日:だいにち=密教の中心本尊である大日如来のこと。 
[17]法華:ほっけ=大乗仏教の最も重要な経典の一つである法華経のこと。 
[18]救世:きゅうせい=乱れた世の人々を救うこと。特に、宗教の力でこの世の苦しみや罪悪から人々を救うこと。 
[19]神通:じんつう=無礙自在で超人的な不思議な力。また、そのはたらき。霊妙ではかり知れず、自由自在にどんな事をもなしうる働きや力。 
[20]衆生:しゅじょう=迷いの世界にあるあらゆる生類。仏の救済の対象となるもの。いきとしいけるもの。 
[21]無量:むりょう=はかりしれなく大きいこと。限りもなく多いこと。莫大であること。 
[22]金口:きんこう=仏を尊んでその口をいう語。仏の金色の口。転じて、仏の言説。尊い言葉。 
[23]妙文:みょうぶん=霊妙な経典。特に、法華経。 
[24]符節:ふせつ=割符(わりふ)のこと。 
[25]緇素:しそ=僧侶と俗人。僧俗。 
[26]神助:しんじょ=神の慈悲の力によるたすけ。天佑。 
[27]震旦:しんたん=振旦,真丹とも書く。中国の古称。 
[28]仁道:じんどう=仁の道。人としてふみ行なうべき道。 
[29]孜孜矻矻:ししこつこつ=たゆまず熱心に励む。 
[30]典籍:てんせき=書物。書籍。本。 
[31]将来:しょうらい=引き連れてくること。特に、外国など他の土地から持ってくること。 
[32]末学:まつがく=学者が自分のことをへりくだっていう語。浅学。 
[33]伝受:でんじゅ=伝え受けること。伝授されること。 
[34]異朝:いちょう=外国。異国。 
[35]東漸:とうぜん=勢力がしだいしだいに東方へと移り進むこと。 
[36]吉利支丹の徒黨:きりしたんのととう=キリスト教の一団。 
[37]邪法:じゃほう=人を惑わし、世間に害を与えるような教え。邪道。ここでは、キリスト教のこと。 
[38]正宗:しょうしゅう=正しい肝腎の本旨。ここでは日本本来の宗教つまり、仏教・神教のこと。 
[39]域中の政號:いきちゅうのせいごう=天下の政治。 
[40]大禍の萠:たいかのきざし=大きなわざわいのきざし。大きな災難の前兆。 
[41]仁義:じんぎ=儒教道徳の根本理念で、ひろく人や物を愛し、物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと。 
[42]過犯:かはん=罪科を犯すこと。また、犯した罪科。犯罪。 
[43]墨劓剕宮大辟:ぼくぎひきゅうたいへき=罪人に対する五つの刑罰。古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。 
[44]喪多くして服五:もおおくしてふくご=喪服は多くても五つ。 
[45]罪多くして刑五:つみおおくしてけいご=罪人に対する刑罰は多くても五つ。 
[46]證誓:しょうせい=誓いの証とすること。 
[47]繊毫:せんごう=細かい毛。きわめてわずかなこと、非常に小さなこと、ささいなことのたとえとされる。 
[48]五逆十悪:ごぎゃくじゅうあく=父・母・仏道修行者を殺す、僧団の和合を壊す、仏の身体を傷つけるの「五逆」と殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の「十悪」のこと。 
[49]弃捐:きそん=捨てて用いないこと。捨ててかえりみないこと。 
[50]余殃:よおう=悪事のむくいとして起こる災禍。先祖の行なった悪事のむくい。余慶に対していう。 
[51]炮烙:ほうらく=あぶり焼くこと。 
[52]勧善懲悪:かんぜんちょうあく=善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめること。 
[53]炳誡:へいかい=あきらかないましめ。炯戒(けいかい)。 
[54]冥道:みょうどう=死後の世界。特に閻魔王のいるところ。地獄。冥界。冥府。 
[55]閣老:かくろう=宮廷の高官。江戸幕府の役職、老中の異称。 
[56]呵責:かしゃく=厳しくとがめてしかること。責めさいなむこと。 
[57]三世諸仏:さんぜしょぶつ=過去・現在・未来の3世にわたって存在する一切の仏。 
[58]列祖:れっそ=代々の祖先。歴代の先祖。列宗。 
[59]伴天連:ばてれん=キリシタン宣教師のうちの司祭。 
[60]件の政令:くだんのせいれい=江戸幕府の法令のこと。 
[61]正法:しょうぼう=正しい教法。仏教のこと。 
[62]本懐:ほんかい=かねてからの願い。本意。本望。本願。 
[63]天譴:てんけん=天のとがめ。天帝が、ふとどきな者にくだすとがめ。天罰。 
[64]寸土の尺地:すんどのせきち=わずかな土地。せまい土地。 
[65]手足を措く所無し:しゅそくをおくところなし=安心して身をおく場所がない。安んじて生活できる所がない。 
[66]違命:いめい=言い付けにそむくこと。命令に背くこと。 
[67]詔命:しょうめい=天子の命令。みことのり。 
[68]日域:じちいき=日が照らす域内。転じて、天下。 
[69]国柄:こくへい=国家を統治する権力。政権。国権。 
[70]五常:ごじょう=儒教で、人が常に行なうべき五種の正しい道をいう。通例、仁、義、礼、智(知)、信。 
[71]蔵教:ぞうきょう=天台教学で釈迦一代の教説を分類した四教の一つ。三蔵教の略称。 
[72]現世安穏:げんせあんおん=現世では安穏に生活できるということ。 
[73]後世善処:ごしょうぜんしょ=後生ではよい世界に生まれるということ。 
[74]身躰髪膚:しんたいはっぷ=肉体と髪と皮膚、すなわち、からだ全体。 
[75]毀傷:きしょう=そこない傷つけること。傷つけ、こわすこと。損傷。 
[76]澆季:ぎょうき=道徳の薄れた人情軽薄な末の世。末世。 
[77]紹隆:しょうりゅう=先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること。 
[78]一天四海:いってんしかい=天の下と四方の海。天下全体。全世界。 
[79]違失:いしつ=まちがうこと。しくじり。過失。落度。 

<現代語訳>  伴天連追放之文

天は父となり、地は母となる。人間はその二つの間に生まれたものだ。天・地・人すべてはこの道理によっている。そもそも日本は、元来神国である。陰陽の働きは人智を超えたものがあって測り知れず、これを名づけて神という。聖の中の聖であり、霊の中の霊であり、誰か尊崇しないものはいない。まして人の生を得ること、ことごとく陰陽の感ずる所である。体のすべて、煩悩のすべて、起きていても寝ていても、一瞬も神は離れず、神は他に求めるものではない。人にはそれぞれみな仏性が備わっていて、助け合って円満に成就している。すなわちこれが神の姿である。また仏の国と称するのは、よりどころがないわけではない。書に言うことには、「よく考えてみると仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために神々の姿となって示現する国である、それに加えて大日如来の本国である。」と。『法華経』に言うことには、「諸仏の救世は、偉大で無礙自在で超人的な不思議な力に定まる、いきとしいけるものを悦ばすがためによって、はかりしれないの神力の霊験を示す。」と。この尊い言葉と霊妙な経典、神と仏はその名前は異なっているがその目的とするところは同じであたかも勘合符がぴったりと合うようなものだ。大昔から僧侶と俗人、各々が神の慈悲の力による助けをいただいて、大洋を航海して遠く中国に入って、仏家の法を求め、仁道の教を求めて、たゆまず熱心に励んだ。そのようにして仏教と儒教の典籍を背負って持ち来たり、行く末の学者が、師から弟子へ引き継いでその正しきを伝授し、仏法が昌盛し、外国に勝った。まさにこれは仏法の東方への進出に他ならない。ここにキリシタンの一団がたまたま日本にやったて来た。彼らは、ただ、商船を遣わして貿易するだけでなく、勝手に邪悪な教え(キリスト教)を布教して神仏を惑わし、日本の政治を改め、自分の領土としてしまおうと望んでいる。これは明らかに大きな災難の前兆である。禁止をしないわけにはいかない。日本は神の国・仏の国であり、これらを敬っている。仁義の道を専らにし、善悪の法を正しくし、犯罪を犯す者が有れば、その重さに従って、墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)の五刑を行う。『礼記』に言うことには、「喪服は多くても五つ、罪人に対する刑罰は多くても五つ」と、罪の疑いが有る者は、すなわち神をもって誓いの証とし、罪罰の条目を定め、罪を犯したか犯していないかの区別は、極めてわずかでも違わず、五逆十悪を犯す罪人は、これ仏教・神教の本尊・布教者・経典においても、人と天そして大衆の捨てて顧みないものである。積み重なった悪事の災禍から逃れることはできない、あるいは首切りの刑に、あるいは火あぶりの刑に、罪を判断すればこのとおりで、善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめる道である、悪を制止しようと欲しても悪を積みやすく、善を進めようと欲しても害を保ち難いもので、どうしてあきらかな戒めを加えないでおかれようか。現世でもなおこのようであり、後の世の死後世界の高官の厳しいとがめ、過去・現在・未来の三世にわたって存在する一切の仏も救い難く、歴代の先祖もどうしようもない、畏るべきこと、畏るべきこと。あのバテレンの集団がみな幕府の政令に違反し、神道を疑い仏法を非難し、義や善い行いまで否定している。罪人として死刑になったものをみては、かえって喜び、走り回り、これを拝んでいる。これがこの宗教の正体である。これが邪悪な教えでなくてなんであろうか。まさに、神道の敵・仏法の敵である。急いで禁じなければ、後に必ず国家の禍になるであろう。わざわざ命令してこれを禁止しなければさらなる天の災いを被るであろう。日本国の内、わずかな土地でも、彼らが安心して身をおく場所は存在しない。強いて命令に背くことが有るならば、これに刑罰を課すべきである。今幸なことに天皇の命令を受け、天下の主となり、政権をつかさどる者、ここに年月が経過する。儒教の仁・義・礼・智・信の最高の徳を明らかにし、仏教で非常に重要な三蔵教に帰依する。これによって豊かな国となって、人々は心穏やかである。『法華経』に言うことには、「現世では安穏に生活でき、後生ではよい世界に生まれる」と、孔子がまた言うことには、「わが身体は両手・両足を始め毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母から戴いたものであり、これを傷つけないようすることが孝行の始めである。」と。完全であるその身体すなわちこれは神を尊び敬うことである。一刻も早くこの邪宗教(キリスト教)を退け、われらが仏の御教えを盛んにしなければならない。世の中はすでに末法の世であるが神様の道、仏の道を開いていくよき政令である。天下の人々はこのことをしっかりと承知すべきである。決して間違ってはならない。

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kabayamasukenori01
 今日は、明治時代中頃の1891年(明治24)に、第2回帝国議会において、海軍大臣樺山資紀の「蛮勇演説」が行われた日です。
 蛮勇演説(ばんゆうえんぜつ)は、第2回帝国議会の衆議院本会議において、薩摩藩出身の海軍大臣樺山資紀(すけのり)によって行われた演説でした。その内容は、民党(立憲自由党・立憲改進党)の海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万を削減要求に激怒して、「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。」と、薩長藩閥政府を擁護し、民党側の海軍・政府批判に反論したものです。
 しかし、民党側議員の猛反発を受け、議場は大混乱となり、結局民党側の賛成多数により、衆議院で約800万を削減した予算改定案が可決されました。このため、松方正義首相は12月25日に初めて衆議院解散を断行することとなり、翌年2月15日に第2回衆議院議員選挙が行われます。
 この時、内務大臣品川弥二郎の指揮によって、史上空前の選挙干渉が行われたものの、民党側は29議席を減らしつつも計142議席を得て、吏党側の計137議席を上回りました。
 以下に、この時の樺山資紀の「蛮勇演説」の速記録を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「樺山資紀の蛮勇演説」 1891年(明治24年)12月22日の第2回帝国議会において

・国務大臣(子爵樺山資紀君) 国体[1]ニ対シテ、ドレ程……国権[2]ヲ汚シタコトガアルカ。

 サウイフ今日事業[3]ヲ見ズニシテ於テ、徒ニ唯目前ノ事ヲ以テ一億二千万[4]ヲ使用シタト云フハ(問題外ト呼ブ者アリ[5])、本大臣ニ於テ意外千万[6]ノコトデアル。サウイフ事ヲ以テ、今日海軍大臣ガ不信用ダト言ッテハ、カクテハ事ノ事実ヲ損ヒ、事ノ即チ虚妄[7]ノ事ヲ連ネテ、海軍大臣ガ不信用デアルト云フノハ、自ラ不信用ヲ招クノ所以デハナイカ。分カッタ話デアルジャロウ。其処デ今日此新事業ノ新事業二件[8]ヲ削除セラレタト云フ如キハ、此ノ如キノ事件ヨリ起コレリ、此ノ如キ事由ニ依ッテ削除スルト云フコトナレバ、本大臣ニ於テ遺憾千万[9]デアル。
 此何回ノ役[10]ヲ経過シテ来タ海軍デアッテ、今迄此国権[2]ヲ汚シ、海軍ノ名誉ヲ損ジタ事ガアルカ。却ッテ国権[2]ヲ拡張シ海軍ノ名誉ヲ施シタ事ハ幾度カアルダラウ。四千万ノ人民モ其位ノ事ハ御記憶デアルダラウ。先日井上角五郎君ガ四千万ノ人民ハ八千万ノ目ガアルト云フタ。四千万ノ人民デ今日幾分カ不具ノ人ガアルト見テモ、千万人ノ目ハアルダラウ。其目ヲ以テ見タナレバ、今日海軍ヲ今ノ如キ事ニ見て居ル人がアルデアラウカ(アルアルト呼ブ者アリ)。
 此ノ如ク今日此海軍ノミナラズ、即チ現政府デアル。現政府ハ此ノ如ク内外国家多難ノ艱難[11]ヲ切リ抜ケテ、今日迄来タ政府デアル。薩長政府[12]トカ何政府トカ言ッテモ今日国ノ此安寧[13]ヲ保チ、四千万ノ生霊[14]ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功力デアル(笑声起ル)。甚ダ……御笑ニ成ル様ノ事デハゴザイマスマイ。ドレ程倒レ且ツ廃疾[15]ニ成リ、実ニ泉下[16]ニ対シテ我輩死ンダ時ニハ面目[17]ガナイ。夫ニ依ッテ今ノ即チ此軍艦製造費、此製鋼所設立ノ件ニ就イテ、此ノ如キ理由ニヨリ削除シタト云フコト成レバ、本大臣ニ於テ決シテ……不満足ニ考へル。他ニ理由ガアレバ宜シイ。能ク御分リニナリマシタロウ。

・議長(中島信行君) 海軍大臣ニチョット申シマスガ。

・海軍大臣(子爵樺山資紀君) 趣意[18]ノ起コルトコロヲ只今申しタノデアル。

・議長(中島信行君) 海軍大臣ニ申シマス。

   〔此時議長号鈴[19]ヲ鳴ラス〕

・海軍大臣(樺山資紀君) 諸君ヨ、諸君ヨ。

   〔此時議長号鈴[19]ヲ鳴ラス〕

   〔議長ノ命令ニ従ワヌカト呼ブ者アリ〕

   〔無礼千万[20]ト呼ブ者アリ〕

   〔海軍大臣ニ退場ヲ命ゼヨト呼ブ者アリ〕

   〔帝国議会ヲ何ト思フト呼ブ者アリ〕

   〔退場セヨト呼ブ者アリ議場喧騒[21]ス〕

   〔議長マタ号鈴[19]ヲ鳴ラス〕

   〔海軍大臣演壇ヲ降リル〕

・議長(中島信行君) 静カニ。

   「衆議院第2回本会議第20号速記録」より

【注釈】

[1]国体:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[2]国権:こっけん= 国家の権威。国家権力。また、国家の支配や統治を行なう権力。
[3]事業:じぎょう=これまでの海軍の活躍を指す。
[4]一億二千万:いちおくにせんまん=これまでの海軍費を指す。
[5]問題外と呼ぶ者あり:もんだいがいとさけぶものあり=この樺山の発言は上奏案の内容を批判したものであり、予算審議の場で取り上げる問題ではないという趣旨の野次。
[6]意外千万:いがいせんばん=非常に思いがけないさま。まったく予想もしていなかったさま。主として好ましくない場合にいう。
[7]虚妄:きょもう=根拠も理由もないこと。
[8]新事業2件:しんじぎょうにけん=海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万を削減したことを指す。
[9]遺憾千万:いかんせんばん=非常に心残りであるさま。残念この上ないさま。
[10]何回の役:なんかいのえき=台湾出兵(1874年)、西南戦争(1877年)、壬午軍乱(1882年)、甲申事変(1884年)などを指す。
[11]艱難:かんなん=困難。苦労。
[12]薩長政府:さっちょうせいふ=薩長両藩の出身者によって組織された藩閥政府のこと。
[13]安寧:あんねい=安らかなこと。安泰。
[14]生霊:せいれい=生物の霊長。人類。人民。生民。民。
[15]廃疾:はいしつ=身体障害を伴う回復不能の病。
[16]泉下:せんか=黄泉(こうせん)の下。死後、人の行くというところ。あの世。よみじ。冥途。
[17]面目:めんぼく=人に合わせる顔。世人に対する体面や名誉。また、世間からの評価。
[18]趣意:しゅい=物事をなすときの考えやねらい。また、言わんとする意味。趣旨。
[19]号鈴:ごうれい=旧衆議院規則第181条に「議長号鈴ヲ鳴ラストキハ何人モ総テ沈黙スヘシ」となっていた。
[20]無礼千万:ぶれいせんばん=はなはだしく礼儀にはずれていること。このうえなく失礼なこと。
[21]喧騒:けんそう=物音や人声のうるさく騒がしいこと。また、そのさま。

<現代語訳>

・国務大臣(子爵樺山資紀君) 国家の根本体制に対して、どれほど……国家の権威を汚したことがあるだろうか。

 そういうこれまでの海軍の活躍を見ずにしておいて、いたずらにただ目前の事をもって1億2,000万円を使用したと言うことは(問題外と呼ぶ者あり)、本大臣において非常に思いがけないことである。そういう事をもって、こんにち海軍大臣が不信用だと言っては、そうしてかえって事の事実を損ない、事のすなわち根拠も理由もない事を連ねて、海軍大臣が不信用であると言うのは、自ら不信用を招くの理由ではないのか。分かった話であるじゃろう。そこで今日この新事業の新事業2件(海軍艦艇建造費・製鋼所設立費)を削除せられたということは、このような事件より起こったことだ、このような事由によって削除するということなれば、本大臣において非常に残念である。
 この何回かの戦争を経過して来た海軍であり、今までこの国家の権威を汚したり、海軍の名誉を損なった事があるだろうか。逆に国家の根本体制を拡張し海軍の名誉を施した事は何度かあるだろう。4,000万の人民もそのくらいのことは記憶されているだろう。先日、井上角五郎君が4,000万の人民は8,000万の目があると言った。4,000万の人民で今日幾分か身体不自由の人があると考えても、1000万人の目はあるだろう。その目をもって見たなれば、今日の海軍を今のように見ている人があるであろうか(あるあると呼ぶ者あり)。
 このように今日この海軍だけではなく、すなわち現在の政府である。現在の政府はこのように内政・外交と国家多難の苦労を切り抜けて、今日までやって来た政府である。薩長藩閥政府とか何とか政府とか言われても今日の国のこの安泰を保ち、4,000万の人民に関係せず、安全を保ったということは、誰のお蔭であるか(笑い声が起こる)。甚だ……お笑いになるようのことではないであろう。どれほど命を落とし傷を負い、実に冥途に対して私が死んだ時には人に合わせる顔がない。それによって今のすなわちこの軍艦製造費、この製鋼所設立の件について、このような理由より削除したということであるならば、本大臣において決して……不満足だと考える。他に理由があればよろしい。よくご理解いただけたであろう。

・議長(中島信行君) 海軍大臣にちょっと述べますが。

・海軍大臣(子爵樺山資紀君) 言わんとする理由について、ただいま述べたのである。

・議長(中島信行君) 海軍大臣に述べます。

   〔この時議長号鈴[4]を鳴らす〕

・海軍大臣(樺山資紀君) 諸君よ、諸君よ。

   〔この時議長号鈴を鳴らす〕

   〔議長の命令に従わないのかと呼ぶ者あり〕

   〔このうえなく失礼だと呼ぶ者あり〕

   〔海軍大臣に退場を命ぜよと呼ぶ者あり〕

   〔帝国議会を何と思っていると呼ぶ者あり〕

   〔退場せよと呼ぶ者あり議場が騒然となる〕

   〔議長また号鈴を鳴らす〕

   〔海軍大臣演壇を降りる〕

・議長(中島信行君) 静かに。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1572年(元亀3)三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破る(新暦1573年1月25日)詳細
1902年(明治35)「年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を出す詳細
1945年(昭和20)「労働組合法」が制定される詳細
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