ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年12月

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 今日は、平成時代の1994年(平成6)に、小説家・推理作家多岐川恭の亡くなった日です。
 多岐川恭(たきがわ きょう)は、1920年(大正9)1月7日に、福岡県八幡市(現在の北九州市八幡)において生まれましたが、本名は松尾舜吉と言いました。旧制第七高等学校造士館を卒業し、東京帝国大学経済学部在学中の1944年(昭和19)に召集を受け、長崎県の捕虜収容所で通訳をしています。
 太平洋戦争後、横浜正金銀行の東京本店(現在の三菱UFJ銀行)に入行しましたが、食糧事情を理由に門司支店に転任、一時小説家を目指し退職したものの、毎日新聞西部本社に再就職しました。1953年(昭和28)に白家太郎の筆名で、「宝石」懸賞募集に『みかん山』を応募、佳作に入選してデビューします。
 1956年(昭和31)に短編懸賞に応募し、『落ちる』、『黄色い道しるべ』がそれぞれ2位と佳作に入選しました。1958年(昭和33)には、『濡れた心』で第4回江戸川乱歩賞、短編『落ちる』、『笑う男』、『ある脅迫』で第40回直木賞を受賞します。
 また、代表となって若手探偵作家の佐野洋、竹村直伸、星新一、水上勉、結城昌治らと共に親睦団体の「他殺クラブ」を結成しました。1961年(昭和36)に『変身島風物誌』、『お茶とプール』、『人でなしの遍歴』など8長編を発表、1967年(昭和42)には、時代小説『ゆっくり雨太郎捕物控』シリーズをスタート(~1975年)させています。
 1977年(昭和52)に推理長編『道化たちの退場』を発表、1984年(昭和59)には、ハードボイルド・ミステリ『京都で消えた女』とベッド・ディティクティヴ『おやじに捧げる葬送曲』の二冊を発表するなど、本格推理小説、時代小説、ミステリー、SF等の多彩な分野で活動しました。巧みなストーリー展開と綿密な性格描写で多くの読者を得て、1989年(平成元)に紫綬褒章を受章、1994年(平成6)には、「小説新潮」に約8年ぶりの長編ミステリー『レトロ館の殺意』を連載しましたが、その完結後の同年12月31日に、脳梗塞のため、74歳で亡くなっています。

〇多岐川恭の主要な著作

・『みかん山』(1953年)
・『濡(ぬ)れた心』(1958年)第4回江戸川乱歩賞受賞
・短編集『落ちる』(1958年)第40回直木賞受賞
・『氷柱』(1958年)
・SFミステリー『イヴの時代』(1961年)
・『変身島風物誌』(1961年)
・『お茶とプール』(1961年)
・『人でなしの遍歴』(1961年)
・『孤独な共犯者』
・『異郷の帆』(1961年)
・『墓場への持参金』(1965年)
・『宿命と雷雨』(1967年)
・『ゆっくり雨太郎捕物控』(1968年)
・『道化たちの退場』(1977年)
・『的の男』(1978年)
・『京都で消えた女』(1984年)
・『おやじに捧げる葬送曲』(1984年)
・『レトロ館の殺意』(1994年)

☆多岐川恭関係略年表

・1920年(大正9)1月7日 福岡県八幡市(現在の北九州市八幡)において、生まれる
・1944年(昭和19) 東京帝国大学経済学部を卒業する
・1953年(昭和28) 白家太郎の筆名で「宝石」懸賞募集に『みかん山』を応募、佳作に入選してデビューする
・1956年(昭和31) 短編懸賞に応募し、『落ちる』、『黄色い道しるべ』がそれぞれ2位と佳作に入選する
・1958年(昭和33) 『濡れた心』で第4回江戸川乱歩賞、短編『落ちる』、『笑う男』、『ある脅迫』で第40回直木賞を受賞する
・1961年(昭和36) 『変身島風物誌』、『お茶とプール』、『人でなしの遍歴』など8長編を発表する
・1967年(昭和42) 『ゆっくり雨太郎捕物控』シリーズをスタートさせる
・1977年(昭和52) 推理長編『道化たちの退場』を発表する
・1984年(昭和59) ハードボイルド・ミステリ『京都で消えた女』とベッド・ディティクティヴ『おやじに捧げる葬送曲』の二冊を発表する
・1989年(平成元) 紫綬褒章を受章する
・1994年(平成6) 「小説新潮」に約8年ぶりの長編ミステリ『レトロ館の殺意』を連載する
・1994年(平成6)12月31日 脳梗塞のため74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)文人画家・儒学者富岡鉄斎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1946年(昭和21)俳人中塚一碧楼の命日詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細
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 今日は、幕末明治維新期の慶応3年に、小説家・評論家斎藤緑雨の生まれた日ですが、新暦では1868年1月24日となります。
 斎藤緑雨(さいとう りょくう)は、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれましたが、本名は賢(まさる)と言いました。1876年(明治9)に、8歳の時一家で上京し、東京府中学を経て、明治法律学校(現在の明治大学)に進みましたが、弟たちのために中途で学業を断念し、文筆で立つことを決意します。
 1884年(明治17)に仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表しました。1885年(明治18年)に自由之燈に入社して記者となりましたが、翌年には退社し、今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表します。
 1889年(明治22)に東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューし、翌年には、大同新聞に入社し、『大夢』を連載しました。1891年(明治24)に小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められ、翌年には森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねるようになります。
 1894年(明治27)に両親を相次いで亡くしたものの、翌年には、「時論日報」という新聞の編輯主幹を任されました。1896年(明治29)に森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始めるようになります。
 1897年(明治30)に小説『あま蛙』を博文館から刊行、翌年には、万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水に知遇を得ました。1899年(明治32)に『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受けましたが、翌年には肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養することとなり、万朝報を辞めています。
 1901年(明治34)に東屋の女中頭だった金澤タケと結婚し、翌年に小唄『おもかげ草』を「明星」に発表しました。1903年(明治36)に小説『みだれ箱』を博文館から刊行、同年に東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなります。
 しかし、病状は悪化し、1904年(明治37年)4月13日に東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなり、翌日の「万朝報」に自身が口述筆記させた死亡広告「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段広告仕候也」が掲載されました。

〇斎藤緑雨の主要な著作

・小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』(1886年)
・戯作評論『小説八宗』(1889年)
・『初学小説心得』(1890年)
・小説『油地獄』(1891年)
・小説『かくれんぼ』(1891年)
・『新体詩見本』(1894年)
・小説『門三味線』(1895年)
・小説『あま蛙(がえる)』(1897年)
・随筆『おぼえ帳』(1897年)
・小説『あられ酒』(1898年)
・『眼前口頭』(1898~99年)
・小説『わすれ貝』(1900年)
・随筆集『青眼白頭』(1900年)
・小説『みだれ箱』(1903年)

☆斎藤緑雨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年1月24日(慶応3年12月30日) 伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)で、津藩の医師であった父・斎藤利光、母・のぶの長男として生まれる
・1876年(明治9年) 8歳の時一家で上京する
・1884年(明治17年) 仮名垣魯文の門に入り、今日新聞の編集に携わり、認められて『初夏述懐』を発表する
・1885年(明治18年) 自由之燈に入社して記者となる
・1886年(明治19年) 今日新聞において、初めての小説『善悪(ふたおもて)押絵羽子板』を発表する
・1889年(明治22年) 東西新聞に入社し、正直正太夫の名で戯作評論『小説八宗』を著し、批評家デビューする
・1890年(明治23年) 大同新聞に入社し、『大夢』を連載する
・1891年(明治24年) 小説『油地獄』を「国会」に、『かくれんぼ』を「文学世界」に書き、小説家としても認められる
・1892年(明治25年) 森鷗外の千駄木の観潮楼をしばしば訪ねる
・1894年(明治27年) 両親を相次いで亡くす
・1895年(明治28年)9月 「時論日報」という新聞の編輯主幹を任される
・1896年(明治29年) 森鴎外、幸田露伴と匿名合評『三人冗語(じょうご)』を雑誌「めさまし草」に掲載、樋口一葉と手紙のやり取りを始める
・1897年(明治30年)5月 小説『あま蛙(がえる)』を博文館から刊行する 
・1898年(明治31年) 万朝報に入社し、『眼前口頭』を書き始め、幸徳秋水を知る
・1899年(明治32年) 『一葉全集』(博文館)の校訂を引き受ける
・1900年(明治33年)10月23日 肺結核にかかり、神奈川県鵠沼の旅館東屋で転地療養する
・1900年(明治33年)11月 万朝報を辞める
・1901年(明治34年)4月13日 東屋の女中頭金澤タケを伴って、タケの実家のある神奈川県小田原に移り、タケと結婚する
・1902年(明治35年)3月 小唄『おもかげ草』を「明星」に発表する
・1903年(明治36年)5月 小説『みだれ箱』を博文館から刊行する
・1903年(明治36年)10月 東京・本所横網町の金澤タケ方に寄寓する
・1903年(明治36年)11月 幸徳秋水のすすめで、週刊「平民新聞」に『もゝはがき』を寄稿することとなる
・1904年(明治37年)4月13日 東京において、肺結核により、数え年37歳で亡くなる
・1904年(明治37年)4月14日 「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也」と孤蝶に口述筆記させた死亡広告が「万朝報」に掲載される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、自由民権運動家・政治家河野広中の亡くなった日です。
 河野広中(こうの ひろなか)は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年7月7日)に、磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれました。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになり、1868年(慶応4)の戊辰戦争では討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助の知遇を得ます。
 明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
 1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
 1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
 1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
 1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
 1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。

〇河野広中関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1849年(嘉永2年7月7日) 磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争には討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助を助ける
・1869年(明治2年11月) 若松藩(若松県)へ出仕する
・1870年(明治3年12月) 三春藩(三春県)庁捕亡取締となる
・1873年(明治6年)2月 磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)の副戸長に任命される
・1873年(明治6年)10月 磐前県第14区の戸長となる
・1874年(明治7年)1月 第5大区区長となる 
・1875年(明治8年)8月 石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる
・1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議する
・1878年(明治11年)1月 福島県属・庶務課民会掛となる
・1878年(明治11年)11月 三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導する
・1879年(明治12年)2月 三春町戸長となる
・1879年(明治12年)7月 共愛同謀会を結成する
・1879年(明治12年) 大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加する
・1880年(明治13年) 国会開設の請願書を政府に提出する
・1881年(明治14年)4月 福島県会議長となる
・1881年(明治14年)10月 自由党結成に参加し、自由党幹部となる
・1882年(明治15年) 福島県令に着任した三島通庸と対立、
・1882年(明治15年)12月 福島事件により国事犯として拘引される
・1883年(明治16年)9月 高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告される
・1889年(明治22年)2月 大日本帝国憲法発布の大赦により出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)する
・1897年(明治30年) 自由党を脱党する
・1898年(明治31年)6月 自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見る
・1902年(明治35年) 第11代衆議院議長となる
・1902年(明治35年)12月 第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至る(奉答文事件)
・1905年(明治38年)11月 日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄される
・1906年(明治39年)4月 無罪判決が出されて釈放される
・1909年(明治42年) アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加する
・1913年(大正2年) 桂太郎の立憲同志会に入る
・1915年(大正4年) 第2次大隈内閣の農商務大臣となる
・1916年(大正5年) 農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力する
・1923年(大正12年)12月29日 東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1964年(昭和39)詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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 今日は、江戸時代前期の天和2年に、江戸で天和の大火(お七火事)が起こり、死者3,500名余を出したとされる日ですが、新暦では1683年1月25日となります。
 天和の大火(てんなのたいか)は、正午頃に江戸・駒込の大円寺(現在の東京都文京区向丘一丁目)から出火し、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がり、加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。その後、本郷から湯島・神田方面から、柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火します。
 そして、回向院もまもなく焼失、さらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日の午前5時頃に鎮火しました。この大火によって、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95にも及び、死者は最大3,500名余と言われ、江戸の十大火事の一つとされています。
 これにより、両国橋も焼け、本所の開発は中止となり、深川芭蕉庵も焼けて、俳聖・松尾芭蕉は水に潜ってかろうじて助かりました。また、井原西鶴著『好色五人女』でも取り上げられ、その登場人物で八百屋の娘お七の名を取って、「お七火事」とも称されています。

〇江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830~3,500人余
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)平清盛が平重衡に命じて、南都焼討(東大寺・興福寺等を焼き払う)を行う(新暦1181年1月15日)詳細
1877年(明治10)日本画家・歌人平福百穂の誕生日詳細
1981年(昭和56)小説家・推理作家横溝正史の命日詳細
1986年(昭和61)山陰本線余部鉄橋で列車転落事故が起きる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1960年(昭和35)に、池田隼人内閣によって、「国民所得倍増計画について」が閣議決定された日です。
 「国民所得倍増計画について」(こくみんしょとくばいぞうけいかくについて)は、実質国民総生産を10年以内に2倍にすることを目標とする長期経済計画で、池田隼人内閣による閣議決定でした。具体的には、1961年(昭和36)度~1970年(昭和45)度までの10年間に実質国民総生産 (実質GNP) を年率平均7.2%増、実質国民所得を倍増しようというもので、① 社会資本の充実、② 産業構造の高度化、③ 貿易と国際経済協力の促進、④ 人的能力の向上と科学技術の振興、⑤ 二重構造の緩和と社会的安定の確保という5項目が計画の課題として掲げられます。
 これは、輸出増進による外貨獲得を主要な手段として、国民生産を倍増させ、これにより、道路・港湾・都市計画・下水・住宅等の社会資本の拡充と失業の解消や社会保障・社会福祉の向上等の実現を目標とし、経済成長を支える人間の要素に注目し、教育・訓練・科学技術の向上等を重視したものでした。太平洋戦争後の日本の経済計画策定の歴史に一時代を画したとされ、高度経済成長を背景に、10年で国民1人当たりの消費支出は2.3倍に拡大したものの、公害、物価上昇、格差の増大、社会保障の立ち後れなどのひずみを生んでいます。
 以下に、「国民所得倍増計画について」の閣議決定を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国民所得倍増計画について」 1960年(昭和35)12月27日閣議決定

政府は、別冊「国民所得倍増計画」をもつて、昭和三十二年十二月十七日閣議決定の「新長期経済計画」に代えるものとするが、今後における経済の運営にあたつては、内外経済の実勢に応じて弾力的に措置するものとし、とくに別紙「国民所得倍増計画の構想」によるものとする。

国民所得倍増計画の構想

(1)計画の目的
国民所得倍増計画は、速やかに国民総生産を倍増して、雇用の増大による完全雇用の達成をはかり、国民の生活水準を大巾に引き上げることを目的とするものでなければならない。この場合とくに農業と非農業間、大企業と中小企業間、地域相互間ならびに所得階層間に存在する生活上および所得上の格差の是正につとめ、もつて国民経済と国民生活の均衡ある発展を期さなければならない。

(2)計画の目標
国民所得倍増計画は、今後一〇年以内に国民総生産二六兆円(三三年度価格)に到達することを目標とするが、これを達成するため、計画の前半期において、技術革新の急速な進展、豊富な労働力の存在など成長を支える極めて強い要因の存在にかんがみ、適切な政策の運営と国民各位の協力により計画当初三カ年について三五年度一三兆六千億円(三三年度価格一三兆円)から年平均九%の経済成長を達成し、昭和三八年度に一七兆六千億円(三五年度価格)の実現を期する。

(3)計画実施上とくに留意すべき諸点とその対策の方向
経済審議会の答申の計画は、これを尊重するが、経済成長の実勢はもとより、その他諸般の情勢に応じ、弾力的に措置するとともに、経済の実態に即して、前記計画の目的に副うよう施策を行わなければならない。とくにこの場合次の諸点の施策に遺憾なきを期するものとする。
(イ)農業近代化の推進
国民経済の均衡ある発展を確保するため、農業の生産、所得及び構造等の各般の施策にわたり新たなる抜本的農政の基底となる農業基本法を制定して農業の近代化を推進する。
これに伴い農業生産基盤整備のための投資とともに、農業の近代化推進に所要する投融資額は、これを積極的に確保するものとする。
なお、沿岸漁業の振興についても右と同様に措置するものとする。
(ロ)中小企業の近代化
中小企業の生産性を高め、二重構造の緩和と、企業間格差の是正をはかるため、各般の施策を強力に推進するとともにとくに中小企業近代化資金の適正な供給を確保するものとする。
(ハ)後進地域の開発促進
後進性の強い地域(南九州、西九州、山陰、四国南部等を含む。)の開発促進ならびに所得格差是正のため、速やかに国土総合開発計画を策定し、その資源の開発につとめる。さらに、税制金融、公共投資補助率等について特段の措置を講ずるとともに所要の立法を検討し、それら地域に適合した工業等の分散をはかり、以つて地域住民の福祉向上とその地域の後進性克服を達成するものとする。
(ニ)産業の適正配置の推進と公共投資の地域別配分の再検討
産業の適正配置にあたつては、わが国の高度成長を長期にわたつて持続し、企業の国際競争力を強化し、社会資本の効率を高めるために経済合理性を尊重してゆくことはもとより必要であるが、これが地域相互間の格差の拡大をもたらすものであつてはならない。
したがつて、経済合理性を尊重し、同時に地域格差の拡大を防止するため、とくに地域別の公共投資については、地域の特性に従つて投融資の比重を弾力的に調整する必要がある。これにより経済発展に即応した公共投資の効果を高めるとともに、地域間格差の是正に資するものとする。
(ホ)世界経済の発展に対する積極的協力
生産性向上にもとづく輸出競争力の強化とこれによる輸出拡大、外貨収入の増大が、この計画の達成の重要な鍵であることにかんがみ、強力な輸出振興策ならびに観光、海運その他貿易外収入増加策を講ずるとともに、低開発諸国の経済発展を促進し、その所得水準を高めるため、広く各国との経済協力を積極的に促進するものとする。

(別冊 項目のみ掲載)

第一部 総説
Ⅰ 計画作成の基本的態度
Ⅱ 計画の課題
Ⅲ 目標年次における経済規模と構造
第二部 政府公共部門の計画
Ⅰ 計画における政府の役割
Ⅱ 社会資本の充足
Ⅲ 人的能力の向上と科学技術の振興
Ⅳ 社会保障の充実と社会福祉の向上
Ⅴ 財政金融の適正な運営
第三部 民間部門の予測と誘導政策
Ⅰ 民間部門の地位
Ⅱ 貿易および経済協力の促進
Ⅲ 産業構造の高度化と二重構造の緩和
第四部 国民生活の将来
Ⅰ 雇用の近代化
Ⅱ 消費水準の向上と高度化
Ⅲ 国民生活の将来

     「内閣制度百年史 下」内閣制度百年史編纂委員会編より

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