今日は、鎌倉時代の文治2年に、鎌倉幕府が九州の御家人統率・軍事統括の為の鎮西奉行を設置した日ですが、新暦では1187年1月21日となります。
鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)は、鎌倉幕府が九州地方の地頭・御家人を統制するために設置した職制でした。1185年(元暦2/文治元)に、壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡、その後、源義経と源頼朝の対立が始まり、源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得ましたが、源義経および平氏残党の追捕と鎮西(九州)の御家人統率のため、伊豆国御家人の天野遠景が派遣され、文治2年12月10日(1187年1月21日)に鎮西奉行となります。
全九州に及ぶ武士統轄権を有し、遠景の後は武藤資頼が就任しました。次いで、その子資能がなって、武藤氏が世襲的に任命されるようになり、同時に大宰少弐(大宰府の在庁官人の長)をも兼任して少弐氏と称します。
元寇後は、鎮西談議所、1293年(永仁元)の鎮西探題の設置により吸収されました。
以下に、鎮西奉行設置について書かれた、『吾妻鏡』第六巻の文治2年12月10日の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇鎮西探題(ちんぜいたんだい)とは?
鎌倉時代の元寇後の1293年(永仁元)に、九州の御家人の統率と訴訟裁断を目的に博多に置かれた、鎌倉幕府の出先機関または、その長の職名です。九州の御家人を異国警固番役に専念させるために鎌倉へ行っての訴訟を禁止し、現地において処理できるようにしたものでした。そのために、代々北条氏一族がこの職に任命され、その下に鎮西有力御家人から任命された引付衆がいて、訴訟を裁決します。しかし、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡とともに消滅しました。
〇『吾妻鏡』第六巻 文治2年12月10日の条
<原文>
文治二年十二月小十日癸未。肥前國鏡社宮司職事。以草野次郎大夫永平被定補。是且任相傳。且被優奉公勞云々。
今日。藤原遠景爲鎭西九國奉行人。又給所々地頭職等云々。
<読み下し文>
文治二年十二月小十日癸未[1]。肥前の國鏡社[2]宮司の職事[3]、草野次郎大夫永平[4]を以て定補せらる。これ、且つは相傳に任せ、且つは奉公の勞に優ぜらると云々。
今日、藤原遠景[5]を鎭西九國[6]奉行人[7]と爲す。又、所々の地頭職[8]等を給はると云々。
【注釈】
[1]癸未:きび= 十干と十二支とを組み合わせたものの第二〇番目。みずのとひつじ。
[2]肥前國鏡社:ひぜんこくかがみしゃ=佐賀県唐津市南城内にある唐津神社で神功皇后が新羅遠征の海路の安全を祈願し、凱旋時に捧げたと伝えられる宝鏡を発見し祀ったのが始まりと伝えられる古社。
[3]宮司職事:ぐうじのしきじ=この場合は宮司を管理する職。
[4]草野次郎永平:くさのじろうたいふながひら=文治二年閏七月二日条に推挙され、文治二年八月六日条で在国司押領使を任命。同七日条で別な褒美をと云ってるので、その結果らしい。
[5]藤原遠景:ふじわらとおかげ=鎌倉時代初期の武将天野遠景のこと。藤原南家工藤氏の一族で、吉川氏と同族、伊豆国田方郡天野に住して、その地名を取り天野氏と称した。
[6]鎭西九國:ちんぜいきゅうかこく=鎭西は九州の異称なので、九州の筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9ヶ国のこと。
[7]奉行人:ぶぎょうにん=上位者の命を受けて政務を担当し執行する者。
[8]地頭職:じとうしき=全国の荘園・公領に置かれ、土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持つ。
<現代語訳>
文治2年12月小10日癸未。肥前国鏡社の宮司の管理職に、草野次郎大夫永平をもって任命した。これは、一つは先祖代々に受け継いできたことに従い、一つは奉公の労に報いるものとして特に与えられたとのこと。
今日、藤原天野遠景を九州9ヶ国の奉行として任命した。その他に、ところどころの地頭職も与えられたとのこと。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1901年(明治34) | 田中正造が足尾鉱毒問題について、明治天皇へ直訴しようとする | 詳細 |
1943年(昭和18) | 社団法人日本玩具統制協会から子供向けの「愛国イロハカルタ」が発行される | 詳細 |
1948年(昭和23) | 国連総会で「世界人権宣言」が採択される | 詳細 |
1997年(平成9) | 山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する | 詳細 |