今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、第1回帝国議会での山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説が行われた日です。
山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説(やまがたありともないかくそうりだいじんのしせいほうしんえんぜつ)は、1890年(明治23)11月25日~翌年3月7日まで開会された第1回帝国議会において、12月6日に山縣有朋内閣総理大臣が行った施政方針演説のことでした。主権線(国境)と共に、列強(特にロシア)の脅威に対するために、利益線(朝鮮)の確保を主張、その防衛のための軍事力増強(一般会計歳出額8,332万円という軍拡予算案)を主張したので、「主権線・利益線演説」とも呼ばれています。
第1回帝国議会の議員構成は、300議席中民党が171議席(内訳立憲自由党130議席、立憲改進党41議席)、吏党が84議席(内訳大成会79議席、国民自由党5議席)、無所属45議席と民党は過半数を超えていました。山縣首相の軍拡予算案に対して、民党側は「政費節減、民力休養」を主張したため、この点で政府と議会が鋭く対立します。政府は立憲自由党の一部(土佐派)を切り崩し、一部予算を可決させたものの、軍艦建造費など800万円以上を削減する大幅な軍縮予算とならざるを得ず、山縣首相は怒りをあらわにしました。
一方で、立憲自由党の議員だった中江兆民は、土佐派の裏切りに憤慨して、国会を「無地虫の陳列場」として、議員辞職する事態も起きています。
以下に、この時の山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「第1回帝国議会での山縣有朋内閣総理大臣の施政方針演説」1890年(明治23)12月6日
諸君我が天皇陛下は至仁なる聖慮に依りまして、曩きに千歳不磨の大典を立てさせられ、茲に諸君と相會するを得たるは、誠に國家の爲慶賀に堪へざる次第で御座ります、又本官の幸榮とするところで御座ります。
本官は今内外の政務に就きまして、諸君に其の方針の在る所を陳述致しまするの機會に遭遇致しましたるが、既に政府の執る所の政策に於きましては、先日開院の勅語に於きまして、其の大体を明示致されました以上に、今更に本官が事々しく辯明致しまする必要を見ませぬで御座ります、さりながら二三の要點に就き概略を陳述致しまして、諸君の公平なる判斷を煩はさんことを望みます。
顧みるに舊幕府が鎖港の政略を執りたる以來、我が國三百年間の無事大平を保續致しましたに相違御座りませぬことで御座ります、併し此の政略は宇内の大勢に背馳致しまして、我が國三百年間の進化を遲く致したる結果を生じたるは、甚た遺憾の至りに存じます
偖明治大政維新の時に膺りまして、世運の變遷を察して一旦此の方向を變じますると、過去數百年間滯るところの負債を償還せねばならぬと云ふ事に気が附きました故に、我々が此の短日月の間に於きまして、其の負債を償還することに努力致しましたで御座ります、然るに僅二十有餘年間の短日月なるが故に、今日に至るまで我々諸君と與に、背上に負擔するところの至重の義務は、未だ其の半を終ふるに至りませぬで御座ります、併しながら幸に上は 聖天子の宏遠なる皇謨と、下は先進諸氏の翼贊計畫するところに依りまして、其の大体の標準を一定することを得ました、故に漸次其の順序を追ふて今日まての運びと相成りました次第でありまする、勿論政府の實務上に就きましては、或は之を緩にし、或は之を急にし又は此の法を執り、又は此の法に依ることに至りまして、人々各々其の見るところに依りまして、各々出入異同あることは是數の免かる可からざるところと存じます、今其の小異は姑く擱きまして、施政の大局上に就いて觀察を下すときは、我々一樣に同一の軌轍の上に進み行きつヽあり、決して此の一大環線の外に脱出することは致しませぬ、是は本官が斷言するに更に憚らぬところであります。
偖政府より二十四年度の總豫算を提出致しましたるは、此の歳計豫算に就きまして、我々憲法上及び法律勅令を奉事するの義務者で御座ります、此の歳計豫算に就きましては本官は諸君が愼重公平なる審議翼賛のあることは信じて疑ひませぬ、豫算帳に就きまして最歳出の大部分を占めるものは、即陸海軍の經費で御座います、是に就きましては本官が政府の觀る所に就いて、將來の爲に一言を吐露して、諸君の注意を冀はんことを望みます、抑々今の時に方りまして國家の最急務とする所のものは、行政及地方の制度を整へ運用を敏活ならしめることである、又農工及通商の業務を奬勵作進して、國の實力を養成致すことが最必要のことと思ひます、されば内治即内政は一日も忽にならぬことは、勿論申す迄もないことヽ存じます、又是と同時に國家の獨立を維持し、國勢の伸張を圖ることが最緊要のことヽ存じます、此の事たるや諸君及我々の共同事務の目的であつて、獨政府のなすべきことで御座りますまい、將來政事上の局面に於て何等の變化を現出するも、決して變化することは御座りますまいと存じます、大凡帝國臣民たる者は協心同力して、此の一直線の方向を取って、此の共同の目的に達することを誤らず、進まなければならぬと思ひます蓋國家獨立自營の道に二途あり、第一に主權線を守護すること、第二には利益線を保護することである、其の主權線とは國の疆域を謂ひ、利益線とは其の主權線の安危に、密着の關係ある區域を申したのである、凡國として主權線、及利益線を保たぬ國は御座りませぬ、方今列國の間に介立して一國の獨立を維持するには、獨主權線を守禦するのみにては、決して十分とは申されませぬ、必ず亦利益線を保護致さなくてはならぬことヽ存じます、今果して吾々が申す所の主權線のみに止らずして、其の利益線を保つて一國の獨立の完全をなさんとするには、固より一朝一夕の話のみで之をなし得べきことで御座りませぬ、必ずや寸を積み尺を累子て、漸次に國力を養ひ其の成蹟を觀ることを力めなければならぬことと存じます、即豫算に掲けたるやうに、巨大の金額を割いて、陸海軍の經費に充つるも、亦此の趣意に外ならぬことと存じます、寔に是は止むを得ざる必要の經費である以上演べまする所の數箇の要點は、假令小異はあるとも、其の大体に就きましては、諸君に於て必ず協同一致せられんことは、本官は信じて疑ひませぬ、大凡是等の事に就きまして、今申述べまする樣に成るべくは速に拂盡さねばならぬ共同義務である、然らば此の重大の義務を盡さんが爲には、我々境遇に伴ふ所の一箇の利益を犠牲に供して、公平無私に相倶に胸襟を押開いて、腹蔵なく相談し相議するに於ては、互に其の意見を一致することに於て、決して難きことはないことと存じまする、本官は幸に諸君の了察あらんことを望みます。
「帝国議会衆議院議事速記録」より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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