今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、駐米大使・高平小五郎と米国国務長官エルフ・ルートが清国門戸開放などの交換覚書(高平・ルート協定)に調印した日です。
高平・ルート協定(たかひら・るーときょうてい)は、日露戦争後深まった日米間の対立を緩和する目的で、太平洋方面における日米両国の現状維持、清国における商工業の機会均等主義の擁護などを定めた協定で、正式には「太平洋方面に関する日米交換公文」と言いました。アメリカのワシントンD.C.において、駐米大使高平小五郎とアメリカ国務長官 E.ルートとの間で交換された外交文書から成っています。
その主な内容は、①太平洋における両国商業の自由平穏な発達、②現状維持、所領の尊重、③清国の独立および領土保全、④清国における列国商工業の機会均等、⑤これらを侵迫する事件発生に際しての日米両国の協商など、5項目からなっていました。この協定により、日本はフィリピンなどに対する領土的野心がないことを表明、またアメリカは満州における日本の特殊権益を暗黙裡に認めることとなります。
しかし、1907年(明治40)以降、四次に渡る「日露協約」による日本のロシア帝国への再接近、満州への経済投資の増大により、この協定は、中国での日本の覇権に対するアメリカの影響力の弱体化に帰着することになりました。
以下に、「太平洋方面に関する日米交換公文」(高平・ルート協定)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「太平洋方面に関する日米交換公文」(高平・ルート協定)1908年11月30日調印(於:アメリカのワシントンD.C.)
明治四十一年(一九〇八年)十一月三十日「ワシントン」ニ於テ
明治四十一年(一九〇八年)十二月二日官報揭載
帝国大使ヨリ米国国務卿宛往翰
以書柬致啓上候陳者先頃来閣下ト本使トノ間ニ数次ノ会見ヲ遂ケ意見ヲ交換致候結果日本国及合衆国ハ太平洋方面ニ於テ本国国ヨリ隔在スル重要ナル島嶼ノ所領ヲ保有スルモノニ有之両国政府ハ同方面ニ於テ共通ノ目的、政策及旨意ヲ有スルコト明瞭ト相成候
帝国政府ハ該目的、政策及旨意ヲ真率ニ表明スルハ啻ニ日本国ト合衆国トノ間ニ久シク存在シタル友好善隣ノ関係ヲ鞏固ナラシムルニ至ルヘキノミナラス又以テ大局ノ平和ヲ維持スルニ資スル所大ナルヘキコトヲ信シ該共通ノ目的、政策及旨意ト認ムル所ノ左記綱領ヲ閣下ニ提出スヘキ旨本使ニ訓示有之候
一、太平洋ニ於ケル両国商業ノ自由平穩ナル発達ヲ奨励スルハ両国政府ノ希望タリ
二、両国政府ノ政策ハ何等侵略的傾向ニ制セラルルコトナク前記方面ニ於ケル現狀維持及清国ニ於ケル商工業ノ機会均等主義ノ擁護ヲ目的トス
三、従テ両国政府ハ相互ニ前記方面ニ於テ他ノ一方ノ有スル所領ヲ尊重スルノ強固ナル決意ヲ有ス
四、両国政府ハ又其ノ権内ニ属スル一切ノ平和手段ニ依リ清国ノ独立及領土保全並同帝国ニ於ケル列国ノ商工業ニ対スル機会均等主義ヲ支持シ以テ清国ニ於ケル列国ノ共通利益ヲ保存スルノ決意ヲ有ス
五、前述ノ現状維持又ハ機会均等主義ヲ侵迫スル事件発生スルトキハ両国政府ハ其ノ有益ト認ムル措置ニ関シ協商ヲ遂ケムカ為互ニ意見ヲ交換スヘシ
若シ前記綱領ニシテ合衆国政府ノ見解ト一致スルニ於テハ之ニ対スル閣下ノ確認ヲ得度候
本使ハ茲ニ閣下ニ向テ重テ敬意ヲ表シ候 敬具
一九千百年十一月三十日
在華盛頓日本帝国大使館ニ於テ
日本帝国特命全権大使男爵
高平小五郞
北米合衆国国務卿 エリヒュー、ルート閣下
米国国務卿ヨリ帝国大使宛來翰
以書柬致啓上候陳者先頃來本官ニ於テ数次閣下ト会見シ意見ヲ交換セル結果両国政府ノ太平洋方面ニ於ケル政策ニ関シテ双方ノ認識セル所ヲ開列セラレタル本日附貴柬正ニ領收致候
右双方認識ノ表明ハ能ク両国ノ親善ナル関係ニ適応シ且両国政府カ極東ニ関シ従来累次声明セル協同ノ政策ヲ約述互認スルノ機会ヲ与フルモノニシテ合衆国政府ノ歓迎スル所ニ有之候
茲ニ合衆国政府ヲ代表シ閣下ニ向テ左記両国政府ノ宣言ヲ確認スルヲ得ルハ本官ノ欣幸トスル所ニ有之候(以下高平公文ト同様略)
一千九百八年十一月三十日
在華盛頓国務省ニ於テ
北米合衆国国務卿
エリヒュー、ルート
日本帝国特命全権大使男爵
高平小五郞閣下
「日本外交年表竝主要文書 上巻」外務省編より
※旧字を新字に直してあります。
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