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 今日は、平成時代の2002年(平成14)に、歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎が亡くなった日です。
 家永三郎(いえなが さぶろう)は、1913年(大正2)9月3日に、後に陸軍少将となった父・家永直太郎の子として、愛知県名古屋市に生まれましたが、1921年(大正10)に東京に転居しました。1934年(昭和9)に東京高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、1937年(昭和12)に卒業します。
 教学局日本文化大観編纂助手を経て、1941年(昭和16)に新潟高等学校教授となり、1944年(昭和19)には、東京高等師範学校教授に転じました。太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に仙台へ疎開したものの、戦後は東京に戻り、1946年(昭和21)には、文部省教科書編纂委員嘱託として、歴史教科書「くにのあゆみ」を執筆します。
 初めは実証主義の史家として知られ、やまと絵の研究に関わる『上代倭絵全史』、『上代倭絵年表』で、1948年(昭和23)に日本学士院恩賜賞を受賞しました。1949年(昭和24)に、学制改革により、東京教育大学文学部史学科教授となり、1950年(昭和25)には、学位論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』により、東京大学より文学博士を得ます。
 1952年(昭和27)に高校教科書「新日本史」(三省堂発行)の執筆を始め、1954年(昭和29)には、「教育二法」の制定などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加しました。1955年(昭和30)に自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立、1957年(昭和32)には、第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出します。
 1959年(昭和34)の東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこない、1963年(昭和38)に「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強めました。1965年(昭和40)に国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起、1967年(昭和42)に「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起します。
 1977年(昭和52)に東京教育大学定年退官後、中央大学法学部教授に就任、1984年(昭和59)に中央大学を定年退職、再び1980年代の教科書検定を対象に国家賠償請求訴訟(第3次)を提起しました。1989年(平成元)に第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下され、1993年(平成5)に第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持されましたが、第3次訴訟では、検定制度自体は合憲としながらも1審で1ヶ所、控訴審理で3ヶ所、上告審で4ヶ所の検定意見の違法が認められ、国側に40万円の支払いを命ずる判決が、1997年(平成9)に最高裁で出され、“一部勝訴”となって、一連の教科書裁判は終結します。
 これによって、当時の文部省は検定制度見直しを迫られ、簡素化を中心にした1989年(平成元)の制度の全面改定につながりました。古代から近代にいたる日本思想史の研究、3次にわたる教科書裁判で注目を浴びたものの、2002年(平成14)11月29日に東京において、89歳で亡くなっています。

〇教科書裁判とは?

 歴史学者家永三郎(当時は東京教育大学教授)が執筆した、高等学校用日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)に対する教科書検定に関して、昭和時代後期に日本国政府を相手に起こした3つの裁判のことです。
 1965年(昭和40)提訴の第一次訴訟(教科書検定被害に対する国家賠償を請求)、1967年(昭和42)提訴の第二次訴訟(不当な教科書検定行政処分取り消しを請求)、1984年(昭和59)提訴の第三次訴訟(正誤訂正申請不受理処分を対象に国家賠償を請求)がありました。これに至る経緯は、1962年度の文部省教科書検定において、『新日本史』が不合格とされ、1963年度には条件つき合格となったものの大量の改善・修正意見がついたことによるものです。
 これは、「日本国憲法」 21条の表現の自由、検閲の禁止、23条の学問の自由、26条の教育を受ける権利に違反し、また、「教育基本法」 10条に定める教育行政の裁量権を逸脱した不当行為として、提訴したものでした。しかし、最高裁は「検閲にはあたらない」とし、教科書検定制度を合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、原告の実質的敗訴が確定します。
 一方、検定内容の適否については、1993年(平成5)東京高裁は「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」の3ヶ所の記述削除を違法とし、1997年(平成9)最高裁はさらに「731部隊」を加えた計 4ヵ所の記述削除を「国の裁量権逸脱」として違法とし、計40万円の支払いを国に命じました。この一連の裁判は、教科書検定制度の問題点を世間に明らかにし、公教育の在り方を広く問うものとなります。

〇家永三郎の主要な著作

・『日本思想史に於ける否定の論理の発達』(1940年)
・『上代倭絵年表』(1942年)日本学士院賞恩賜賞受賞
・『上代倭絵全史』(1946年)日本学士院賞恩賜賞受賞
・『日本道徳思想史』(1960年)
・『美濃部達吉の思想史的研究』(1964年)
・『権力悪とのたたかい 正木ひろしの思想活動』(1964年)
・『教科書検定:教育をゆがめる教育行政』(1965年)
・『近代日本の争点』(1967年)
・『一歴史学者の歩み』(1967年)
・『太平洋戦争』(1968年)
・『戦争責任』(1985年)
・小説『真城子』(1996年)
・戯曲『新編上宮太子未来記』

☆家永三郎関係略年表

・1913年(大正2)9月3日 後に陸軍少将となった父・家永直太郎の子として、愛知県名古屋市に生まれる
・1921年(大正10) 東京に転居する
・1934年(昭和9) 東京高等学校を卒業する
・1937年(昭和12) 東京帝国大学文学部国史学科を卒業する
・1938年(昭和13)10月31日 教学局日本文化大観編纂助手を嘱託される
・1941年(昭和16)1月31日 教学局日本文化大観編纂助手を解嘱される
・1941年(昭和16) 新潟高等学校教授となる
・1943年(昭和18)3月20日 国民精神文化研究所教員研究科高等教員研究科を修了する
・1944年(昭和19) 東京高等師範学校教授となる
・1945年(昭和20) 仙台へ疎開する
・1946年(昭和21) 文部省教科書編纂委員嘱託、歴史教科書「くにのあゆみ」を執筆する
・1948年(昭和23)6月11日 『上代倭絵全史』、『上代倭絵年表』で、日本学士院より恩賜賞を受賞する
・1949年(昭和24) 東京教育大学文学部史学科教授となる
・1950年(昭和25) 文学博士(東京大学:学位論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』)となる
・1952年(昭和27) 高校教科書「新日本史」(三省堂)の執筆を始める
・1954年(昭和29) 「教育二法」の制定などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加する
・1955年(昭和30) 自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立する
・1957年(昭和32) 第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出する
・1959年(昭和34) 東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこなう
・1963年(昭和38) 「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強める
・1965年(昭和40) 国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起する
・1967年(昭和42) 「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起する
・1977年(昭和52) 東京教育大学定年退官、中央大学法学部教授に就任する
・1984年(昭和59) 中央大学を定年退職、再び国家賠償請求訴訟(第3次)を提起する
・1989年(平成元)6月 第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下される
・1993年(平成5)3月 第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持される
・1997年(平成9) 第3次訴訟は、最高裁で1ヵ所の書き換え処分が違法とされ、国側に40万円の支払いを命ずる“一部勝訴”判決が出る(一連の教科書裁判終結)
・2002年(平成14)11月29日 東京において、89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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第1回帝国議会が開会する詳細
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1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細