今日は、鎌倉時代の1185年(文治元)に、源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可した日ですが、新暦では12月21日となります。
「文治の勅許」(ぶんじのちょっきょ)は、京都守護・北条時政による奏請により、朝廷が源頼朝に対して与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可したものでした。同年11月25日に上洛した北条時政が、同月28日に吉田経房と対面して諸国への守護・地頭の設置と権門勢家の荘園・公領を問わず反別五升の兵糧米を充てることを申し入れます。
経房は、後白河法皇に守護地頭設置を願い出て裁可され、翌日に公布されました。これによって、源義経・源行家を追討するために全国各地に地頭職を設置するこが認められ、鎌倉幕府に託された地方の警察権の行使や御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものとなります。
しかし、反発が強く、北条時政が自身の七ヵ国の地頭職成敗権を辞退、その後、翌年5月に源行家が討たれ、源義経はいまだ行方不明とはいっても、無期限に戦時体制を続けるわけにはいかず、6月~7月にかけての源頼朝と朝廷の交渉が持たれ、平家没官領や謀反人所帯跡以外の地頭職は停止されることとなりました。
以下に、『吾妻鏡』と『玉葉』のこのことを記述した部分を抜粋して、掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「文治の勅許」1185年(文治元年11月28日)
☆『吾妻鏡』より
<原文>
文治元年十一月大十二日辛夘。
(中略)凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟悪者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。
文治元年十一月大廿八日丁未。
補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。
文治元年十一月大廿九日戊申。
北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。
<読み下し文>
文治元年十一月大十二日辛夘。
(中略)凡そ今度の次第[1]、関東[2]の重事たるの間[3]、沙汰の篇[4]、始終の趣[5]、太だ恩食し煩うの処[6]、因幡前司広元[7]申して云く。世已に澆季[8]、梟悪の者[9]尤も秋を得るなり[10]。天下に反逆の輩有るの条、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所[11]たるに依りて、靜謐[12]せしむと雖も、奸濫[13]定めて他方に起らんか。之を相鎮めんがため、毎度東士[14]を発遣せらるるは、人々の煩なり、国の費なり[15]。此次を以て[16]、諸国の御沙汰を交え[17]、国衙・庄園毎に、守護・地頭を補せらるれば、強ち[18]怖るる所有るべからず。早く申し請わしめ給うべしと云。二品[19]、殊に甘心[20]し、此儀を以て治定[21]す。本末の相応[22]、忠言[23]の然らしむる所なり。
文治元年十一月大廿八日丁未。
諸国平均に守護・地頭を補任[24]し、権門勢家[25]庄公[26]を論ぜず、兵粮米[27](段別五升[28])を宛て課すべきの由、今夜、北条殿[29]、藤中納言経房卿[30]に謁し申すと云々。
文治元年十一月大廿九日戊申。
北条殿[29]申さるるところの諸国守護地頭兵粮米[27]の事、早く申す請うに任せて御沙汰あるべきの由[31]、仰せ下さるるの間、師中納言[32]、勅を北条殿[29]に伝えらると云々。
【注釈】
[1]今度の次第:こんどのしだい=後白河法皇が「頼朝追討の宣旨」出したこと。
[2]関東:かんとう=鎌倉幕府のこと。
[3]重事たるの間:じゅうじたるのあいだ=重大事件であるので。
[4]沙汰の篇:さたのへん=どのように扱うべきか。
[5]始終の趣:しじゅうのおもむき=どのように処置するか。
[6]恩食し煩うの処:おぼしめしわずらうのところ=心配していたところ。思い悩んでいたところ。
[7]因幡前司広元:いなばぜんじひろもと=前因幡の守であった大江広元(政所別当)のこと。
[8]澆季:ぎょうき=末の世。末世。
[9]梟悪の者:きょうあくのもの=極悪・非道の者。
[10]秋を得るなり:ときをえるなり=時流にかなう。
[11]御居所:おんきょしょ=幕府(頼朝)の本拠地。
[12]靜謐:せいひつ=おだやかに治まる。鎮静。
[13]奸濫:かんらん=悪賢く、秩序を乱す。
[14]東士:とうし=東国武士。関東御家人。
[15]費なり:ついえなり=無駄である。
[16]次を以て:ついでをもって=機会に。
[17]御沙汰を交え:ごさたをまじえ=命令を出して。
[18]強ち:あながち=一概に。必ずしも。必要以上に。
[19]二品:にほん=二位の称。ここでは源頼朝のこと。
[20]甘心:かんしん=満足する。感服する。
[21]治定:ちじょう=決定。裁定を下す。
[22]本末の相応:ほんまつのそうおう=本と末がつり合うこと。論理が一貫していること。
[23]忠言:ちゅうげん=忠告。
[24]補任:ほにん=任命。
[25]権門勢家:けんもんせいか=権威のある門閥・家柄。
[26]庄公:しょうこう=荘園と公田。私有地である荘園と公領である国衙領を含むすべての土地、所領をいう。
[27]兵粮米:ひょうろうまい=兵糧にあてる米。軍隊動員に際し,兵粮として一般からとりたてる米。
[28]段別五升:たんべつごしょう=田地一段に付き五升の米。
[29]北条殿:ほうじょうどの=北条時政(源頼朝の妻政子の父)のこと。
[30]藤中納言経房卿:とうちゅうなごんつねふさきょう=公卿の藤原経房(1143~1200年)のこと。
[31]御沙汰あるべきの由:ごさたあるべきのよし=申請通りに処置せよと。
[32]師中納言:そちのちゅうなごん=公卿の藤原経房(1143~1200年)のこと。
<現代語訳>
文治元年(1185年)11月大12日辛夘。
(中略)そもそも今度の経緯は、鎌倉幕府の重大事件であるので、どのように扱うべきか、どのように処置するか、とても思い悩んでいたところ、前因幡の守であった大江広元が次のように申し上げた。「世もすでに末世となり、極悪・非道の者がもっとも時流にかなうようになり。世の中の反逆者が有ることについて、なかなか断絶することができないでしょう。ところで東海道の地域については、幕府(頼朝)の本拠地であることによって、おだやかに治まっているといっても、秩序の乱れは、きっと他方に起こるでしょう。これを鎮圧するために、その都度東国武士を派遣することは、人々の負担となり、国費の無駄でありましょう。この機会に、諸国に命令を出して、国衙領・荘園ごとに、守護・地頭を任命されれば、必要以上に怖れることはありません。早くこれを申請して下さい。」と。源頼朝は、ことに満足し、この提案に対して裁定を下した。論理が一貫した忠告のそうさせた所である。
文治元年(1185年)11月大28日丁未。
諸国に一様に守護・地頭を任命し、権威のある門閥・家柄、荘園と公田を区別ぜず、兵糧にあてる米を田地一段に付き五升の割合で徴税するように、今夜、北条時政が、公卿の藤原経房に拝謁して申し入れたとのこと。
文治元年(1185年)11月大29日戊申。
北条時政が申し入れたところの諸国の守護・地頭、兵糧にあてる米の事は、早く申し出に任せて申請通りに処置せよと、裁可されたことを、公卿の藤原経房が、天皇の命令として北条時政に伝えられたとのこと。
☆九条兼実著『玉葉』より
十一月廿八日条
陰晴[33]定まらず。伝え聞く、頼朝の代官北条丸[34]、今夜経房[35]に謁す[36]べしと云々。定めて重事等を示す歟。又聞く、件の北条丸[34]以下の郎従[37]等、相分って五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を賜はり、庄公[38]を論ぜず、兵糧段別五升[39]を宛て催すべし。啻に兵粮の催しのみに非ず、惣じて以て田地を知行[40]すべしと云々。 凡そ言語の及ぶ所に非ず。
【注釈】
[33]陰晴:いんせい=曇りと晴れ。晴曇。
[34]北条丸:ほうじょうまる=北条時政(源頼朝の妻政子の父)のこと。
[35]経房:つねふさ=公卿の藤原経房(1143~1200年)のこと。
[36]謁す:えっす=身分の高い人に会う。
[37]郎従:ろうじゅう=武者や国司に仕えた従僕の総称。
[38]庄公:しょうこう=荘園と公田。私有地である荘園と公領である国衙領を含むすべての土地、所領をいう。
[39]兵糧段別五升:ひょうりょうたんべつごしょう=兵糧にあてる米、田地一段に付き五升。
[40]知行:ちぎょう=特定の領地を与えられ、支配すること。
<現代語訳>
11月28日の条
曇ったり晴れたりと天気が定まらない。聞くところによると、源頼朝の代官北条時政が、今夜経藤原経房に会ったということだとか。きっと重大事等を示すのであろう。また聞くころでは、あの北条時政以下の従僕たちを、相分って五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を分け与えられ、荘園と公田の区別なく、兵糧米を田地一段に付き五升の割合で徴収するという。それは単に兵粮米の徴収だけでなく、ひろく田地を支配するとか。全く言語道断のことである。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1872年(明治5) | 「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日) | 詳細 |
1878年(明治11) | 物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日 | 詳細 |
1883年(明治16) | 鹿鳴館が開館する | 詳細 |
1897年(明治30) | 小説家・随筆家宇野千代の誕生日 | 詳細 |