今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」が発表された日です。
「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」(おきなわへんかんにかんするやらちょうびょうりゅうきゅうせいふしゅせきせいめい)は、1969(昭和44)年6月に、アメリカのワシントンD.C.で、沖縄返還の日米交渉が正式に始まり、同年11月21日の「佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領との間の共同声明」が発表されましたが、その翌日に、これに対して出された屋良朝苗琉球政府主席の声明でした。前日の共同声明が、多くの沖縄県民が求めていた「基地のない平和な沖縄」とは程遠いものであったことに対する意見表明で、即時無条件全面返還を求めていくための一層の努力を訴えたものです。
その後、1971(昭和46)年6月17日に「沖縄返還協定」が調印されましたが、沖縄県内に多くの米軍基地が残されることとなりました。そこで、同年11月の「沖縄返還協定」の国会承認を前に、屋良朝苗琉球政府主席は県民の声を国会に訴えるべく11月17日に、「復帰措置に関する建議書」を携えて上京します。
しかし、「沖縄返還協定」は屋良主席の到着を待つことなく衆議院特別委員会で強行採決され、県民の声は国会に届きませんでした。その後、11月24日衆院本会議で自民党の賛成多数によって可決され、12月22日には、参院本会議でも可決されます。
そして、1972年(昭和47)5月15日に沖縄の施政権が日本へ返還さたものの、沖縄県内に多くの米軍基地が残され、様々な問題が引き続くこととなりました。
以下に、「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」 1969年(昭和44)11月22日発表
県民の皆さん、私はさきほど、今回の沖縄返還に関する日米首脳会談の結果出された共同声明を受けて、その評価とともに、私の所感と意見を申し述べましたが、私は県民を代表する責任ある立場の者として、ここに県民の皆さんに対し、心をこめて、次の呼びかけをいたします。
県民の皆さん、今回の日米共同声明によって、わが沖縄の復帰問題はここに、一応の区切りがつけられました。これは先にも申し述べたように、終戦以来、この日のくることを堅く信じつつ、実に二十五年の長きにわたって、国民的十字架を一身に担い、民族の悲劇と幾多の試練や苦難に耐えぬいて来た百万県民と、沖縄問題の解決に、民族的連帯感と責任のもとに、真剣に取り組んで来た祖国一億同胞との復帰へのたゆまぬ熱情と努力の結実であることは言うまでもありません。今回の返還交渉による共同声明の成果に対して、県民の皆さんはそれぞれの立場から、それぞれの感触でこれを評価し、受け取っておられることと思います。
しかし、いずれにしても、沖縄のこれからの地位については、現実に決定をみたわけであります。私たちは、きびしい中にあってもこの歴史の事実を冷静に受け止めなければならないと思います。
県民の皆さん、このたびの日米交渉の結果、取り決められた一九七二年返還に伴いいよいよ重大な転換期を迎えることになりました。このような世がわりの大事件は、過去においてもかつてなかったし、また、将来の歴史にも絶対にあらしめてはなりません。この歴史上かつて体験したことのない一大転換期への突入に伴い私たちを取りまく四囲の情勢は、大激動を始めるでありましょう。そして、このたびの共同声明にもられた沖縄返還の方針に基づきいろいろな措置が打ち出されるでありましょう。
私たちは、この推移をきびしく見守るとともに、私たちも、復帰が自らの問題であるとの強い認識に立ち、政治、経済、社会、文化、教育などのあらゆる面で、自主主体的に、復帰に備える準備に真剣に取り組まなければなりません。
思うに、わが沖縄は四半世紀の長期間に及ぶ異民族による統治をしいられたことにより、私たちは、日本本土とは異なる不健全な社会体質と社会秩序の中での生活を余儀なくされてきました。したがって、実際に復帰への作業が進められると、いよいよ複雑困難な具体的諸問題に私たちが直面することは火をみるより明らかであります。もちろん、本土政府は、国の責任において日本国民である沖縄百万の県民を抱き取るために、政治的にも道義的にも重大な責任があります。
すなわち、県民生活を現在より安定向上させ、希望のもてるものにすべく全力を尽くし、県民の期待と要望にこたえる決意であります。
県民の皆さん。私たちは、これまで沖縄の祖国復帰の正しい姿は、民主平和、平等の日本国憲法のもとに、差別のない権利を回復することだと考え、そのためには即時無条件全面返還以外にはあり得ないと信じ、それを強く叫び主張してきました。
しかし、今回の共同声明にうたわれた沖縄返還の内容は、私たちの主張を全面的に取り入れたものとはいえません。私は、これに対し、不満の意を表明しました。私たちは今後とも私たちの主張した基本線を堅持し、自らの歴史の創造と開拓に一段と努力しなければならないと思います。
県民の皆さん、私たちはいよいよきょうから、復帰の道へ第一歩を踏み出します。この道には幾多の困難が立ちはだかり、文字通りイバラの道になりましょう。しかし、県民の皆さんには、この際、いたずらに動揺することなく思想、信条または立場の相違を乗り越えて、互いに手をにぎり、心を一つにして、政府と一体となって、祖国復帰の大道に足並みをそろえ、真の平和と幸福をかちとるために、努力されることを心から訴え切望いたします。
昭和四十四年十一月二十二日
琉球政府行政主席 屋良朝苗
1969年(昭和44)11月23日「琉球新報」記事より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1724年(享保9) | 浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の命日(新暦1725年1月6日) | 詳細 |
1917年(大正6) | 江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日 | 詳細 |
1944年(昭和19) | 米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる | 詳細 |
1945年(昭和20) | 「農地制度改革ニ関スル件」が閣議決定される | 詳細 |