enchifumiko01

 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、小説家・劇作家円地文子の亡くなった日です。
 円地文子(えんち ふみこ)は、1905年(明治38)10月2日に、東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区)で、国語学者の父・上田万年、母・鶴子の次女として生まれました。東京高等師範学校付属小学校二部(後の筑波大学附属小学校)を経て、1918年(大正7)に日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学しましたが、1922年(大正11)に校風に馴染めず中退します。
 1924年(大正13)に小山内薫の公演を聞いて感銘を受け、戯曲を志すようになり、1926年(大正15)には、雑誌「歌舞伎」に戯曲『ふるさと』が当選、劇作家として活動を開始し、小山内薫に師事しました。1928年(昭和3)に「女人芸術」掲載の『晩春騒夜』が、築地小劇場で上演され好評を得ましたが、打ち上げの席で小山内が倒れ死去します。
 1930年(昭和5)に円地与四松と結婚して、円地姓となり、翌年に長女・素子を出産、「日暦」、「人民文庫」に参加するようになりました。1935年(昭和10)に戯曲集『惜春』刊行後、小説に転じ、翌年には初めての小説となる短篇『社会記事』を「日暦」に発表します。
 1937年(昭和12)に父・上田万年が亡くなり、翌年には、自身も結核性乳腺炎のために東大病院に入院、手術を受けました。戦時下では海軍文芸慰問団の一員として戦地を巡りましたが、1945年(昭和20)に中野の家が空襲に遭い、家財蔵書の一切を焼失、軽井沢の別荘に疎開します。
 戦後、1946年(昭和21)に上京して母が隠居する谷中清水町17番地に戻り、子宮癌で子宮摘出しました。健康回復後も不遇の時代が続きましたが、1951年(昭和26)に河盛好蔵の尽力により「小説新潮」に『光明皇后の絵』が掲載されます。
 それからは、1953年(昭和28)に『ひもじい月日』で第6回女流文学者賞、1957年(昭和32)に『女坂』で第10回野間文芸賞、1958年(昭和33)に女流文学者会の会長就任、1966年(昭和41)に『なまみこ物語』で第5回女流文学賞受賞など女流文壇の第一人者として高く評価されるようになりました。その後も、1967年(昭和42)に『源氏物語』の現代語訳に着手、1969年(昭和44)に『朱を奪うもの』、『傷ある翼』、『虹と修羅』の一連の活動で第5回谷崎潤一郎賞、1970年(昭和45)に日本芸術院会員、1972年(昭和47)に『遊魂』三部作で第4回日本文学大賞を受賞するなど活躍が続きます。
 さらに、1979年(昭和54)に文化功労者となり、1985年(昭和60)には、文化勲章も受章したものの、1986年(昭和61)11月14日に、東京都台東区谷中清水町の自宅で、急性心不全によって81歳で亡くなりました。

〇円地文子の主要な著作

・『ひもじい月日』(1953年)第6回女流文学者賞受賞
・『朱を奪うもの』(1955~56年)第5回谷崎潤一郎賞受賞
・『妖(よう)』(1956年)
・『女坂』(1949~57年)第10回野間文芸賞受賞
・『二世の縁拾遺』(1957年)
・『傷ある翼』(1960年)第5回谷崎潤一郎賞受賞
・『虹(にじ)と修羅(しゅら)』(1965~67年)第5回谷崎潤一郎賞受賞
・『なまみこ物語』(1959~61、65年)第5回女流文学賞受賞
・『狐火』(1969年)
・『遊魂』(1970年)第4回日本文学大賞受賞
・『蛇の声』(1970年)
・『円地文子訳源氏物語』10巻(1972~73年)
・『食卓のない家』(1979年)

☆円地文子関係略年表

・1905年(明治38)10月2日 東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区)で、国語学者の父・上田万年、母・鶴子の次女として生まれる
・1907年(明治40) 2歳の時、東京市麹町区(現在の千代田区)富士見町30に転居する
・1912年(明治45)4月 東京高等師範学校付属小学校二部(後の筑波大学附属小学校)に入学する
・1918年(大正7)4月 日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学する
・1922年(大正11) 日本女子大学附属高等女学校を中退する
・1924年(大正13)5月 慶応義塾ホールで小山内薫の公演を聞いて感銘を受け、戯曲を志すようになる
・1926年(大正15) 雑誌「歌舞伎」に戯曲『ふるさと』が当選、劇作家として活動を開始し、小山内薫に師事する
・1928年(昭和3) 「女人芸術」掲載の「晩春騒夜」が築地小劇場で上演され好評を得たが、打ち上げの席で小山内が倒れ死去する
・1930年(昭和5) 円地与四松と結婚する
・1931年(昭和6) 長女・素子を出産。「日暦」、「人民文庫」に参加
・1935年(昭和10) 戯曲集『惜春』刊行後、小説に転じる
・1936年(昭和11) 初めての小説となる短篇『社会記事』を「日暦」に発表する
・1937年(昭和12)10月26日 父・上田万年が亡くなる
・1938年(昭和13)4月 結核性乳腺炎のために東大病院に入院、手術を受ける
・1939年(昭和14) 「東京日日新聞」に『源氏物語私語』を掲載する
・1941年(昭和16) 海軍文芸慰問団の一員として長谷川時雨、尾崎一雄ら十数名と広州方面から海南島を廻る
・1943年(昭和18)10月 日本文学報国会の一員として朝鮮総督府に招聘され、深田久弥らと北朝鮮を旅行する
・1945年(昭和20) 中野の家が空襲に遭い、家財蔵書の一切を焼失、軽井沢の別荘に疎開する
・1946年(昭和21) 上京して母が隠居する谷中清水町17番地に戻り、子宮癌で子宮摘出する
・1951年(昭和26) 河盛好蔵の尽力により「小説新潮」に『光明皇后の絵』が掲載される
・1953年(昭和28) 『ひもじい月日』で第6回女流文学者賞を受賞する
・1957年(昭和32) 『女坂』で第10回野間文芸賞を受賞する
・1958年(昭和33) 女流文学者会の会長に就任する
・1966年(昭和41) 『なまみこ物語』で第5回女流文学賞を受賞する
・1967年(昭和42) 『源氏物語』の現代語訳に着手する
・1969年(昭和44) 『朱を奪うもの』、『傷ある翼』、『虹と修羅』の一連の活動で第5回谷崎潤一郎賞を受賞(自身が選考委員)する
・1970年(昭和45) 日本芸術院会員に選出される
・1972年(昭和47) 『円地文子訳源氏物語』刊行開始。『遊魂』三部作で第4回日本文学大賞を受賞する
・1976年(昭和51) 女流文学者会会長を辞任する
・1977年(昭和52) ヨーロッパを旅行する
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1984年(昭和59) 最後の長編となった『菊慈童』を刊行する
・1985年(昭和60) 文化勲章を受章する
・1986年(昭和61)11月14日 東京都台東区谷中清水町の自宅で、急性心不全によって81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

735年(天平7)皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王の命日(新暦12月2日)詳細
1951年(昭和26)天野貞祐文相の「教育勅語」に代わる国民道徳の基本としての「国民実践要領」の大綱が明らかになる詳細
1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細