今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1943年(昭和18)に、大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出された日です。
大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、1943年(昭和18)11月5~6日に、東京の国会議事堂で開かれた日本占領下アジア各国代表の会議でした。出席者は日本 (東条英機首相) 、中国 (汪精衛行政院長) 、満州国 (張景恵国務総理) 、タイ (ワン・ワイタヤコン首相代理) 、フィリピン (ラウレル大統領) 、ビルマ (バ・モー首相) で、自由インド仮政府の C.ボース主席も陪席しています。
各国代表の演説の後、太平洋戦争の完遂、大東亜各国の共存共栄秩序の建設、自主独立の尊重、互恵提携をはかり、「大東亜を米英の桎梏 から解放」の五原則を内容とした「大東亜共同宣言」を採択しました。しかし、タイが正式代表を送らず、各国の対日批判の姿勢も強く、「独立尊重」はスローガンの域を出ないで、具体的政策協定もまとまらないままに終わり、内実を伴わない会議だったとされています。
以下に、「大東亜共同宣言」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「大東亜共同宣言」 1943年(昭和18)11月6日
昭和一八年一一月六日大東亞會議事務局發表
昭和十八年十一月五日及六日ノ兩日東京ニ於テ大東亞會議ヲ開催セリ同會議ニ出席ノ各國代表者左ノ通
日本國 内閣總理大臣 東條英機閣下
中華民國 國民政府行政院院長 汪兆銘閣下
「タイ」國 内閣總理大臣 「ピー、ピブン、ソンクラム」元帥閣下ノ名代トシテ「ワンワイタヤコーン」殿下
滿洲國 國務總理大臣 張景惠閣下
「フィリピン」共和國大統領 「ホセ、ペー、ラウレル」閣下
「ビルマ」國 内閣總理大臣 「バー、モウ」閣下
同會議ニ於テハ大東亞戰爭完遂ト大東亞建設ノ方針トニ關シ各國代表ハ隔意ナキ協議ヲ遂ケタル處全會一致ヲ以テ左ノ共同宣言ヲ採擇セリ
大東亞共同宣言
抑々世界各國カ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隸屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ケ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ増進ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンテ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス
「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1937年(昭和12) | 「日独伊防共協定」が調印される | 詳細 |
1938年(昭和13) | 北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す | 詳細 |
1945年(昭和20) | GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する | 詳細 |
1975年(昭和50) | 俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌) | 詳細 |