ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年10月

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)に、戊辰戦争の箱館の戦い(箱館戦争)において、榎本武揚軍が五稜郭を占領した日ですが、新暦では12月9日となります。
 五稜郭(ごりょうかく)は、幕末の1857年(安政4)に、北方防備のための洋式城郭として築城が開始され、1866年(慶応2)に完成しました。その後、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争の最後の闘いである箱館の戦い(箱館戦争)が行われたことで有名です。
 これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。
 尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦です。鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 最後の箱館の戦い(箱館戦争)は、10月26日の榎本武揚軍による箱館五稜郭の占領に始まり、11月15日に暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没、翌年3月9日に箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発します。5月11日から箱館総攻撃が始まり、5月18日に五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結し、戊辰戦争が終わりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。これにより、明治臣政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日  「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日  奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日  長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館の五稜郭を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細


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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)を発して、石油関係法令廃止と配給会社解散を指令した日です。
 「石油製品の配給に関する覚書」(せきゆせいひんのはいきゅうにかんするおぼえがき)は、昭和時代中期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国最高司令官指令(SCAPIN)として日本国政府に対して発せられた基本的施策を定める指示・訓令の一つ(SCAPIN-1294)のことでした。その内容は、①石油及び石油製品の配給に関する一切の法律、命令及び規則を廃止する、但し石油及び石油製品の使用に関する法律、命令及び規則は引き続き効力を発する、②石油配給会社の解散、③政府全額出資による唯一の石油製品配給機関の設立、④商工省によって実施され、経済安定本部の指示によって運営される割当計画の策定、など5項目の指示からなっています。
 石油配給会社を解散し、石油および石油製品の流通に関連する限り、すべての法令、条例および命令を取り消すための指示、および企業を設立するためのものでした。これによって、同年11月に太平洋岸製油所が操業停止、商工省は「臨時物資需給調整法」(物調法)に基づいて、「石油製品配給規則」を公布しました。
 翌年2月に「石油配給取締規則」、「原油取締規則」が廃止、「指定配給物資配給手続規程」が公布・施行(切符制実施)されます。さらに、4月14日に「石油配給公団法」が公布され、石油配給株式会社が解散しました。
 以下に、「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)の英語版全文と日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)1946年(昭和21)10月25日GHQ指令

GENERAL HEADQUARTERS
SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

AG 463.7 (25 Oct 46) ESS/AC      APO 500
(SCAPIN-1294)            25 October 1946 

MEMORANDUM FOR:IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
THROUGH:Central Liaison Office, Tokyo.
Subject:Distribution of Petroleum Products.

1. References are the following Memoranda for the Imperial Japanese Government from General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers:
 a. AG 334 (3 Apr 46) ESS/IE, 3 April 1946, (SCAPIN-854), subject: “Board of Trade (Boeki Cho).”
 b. AG 463 (21 May 46) GD, 21 May 1946, (SCAPIN-791), subject: “Receipt and Distribution of Petroleum Products.”

2. The Imperial Japanese Government will revoke all statutes, ordinances and orders so far as they relate to the distribution of petroleum and petroleum products. Statutes, ordinances and orders relating to the use of petroleum and petroleum products will remain in effect.

3. The Imperial Japanese Government will dissolve the Petroleum Distribution Control Company, except for the purpose of holding assets for liquidation.

4. The Imperial Japanese Government will submit to the Supreme Commander for the Allied Powers, in quintuplicate, typed in English on 8"x 11" paper, within fifteen (15) days of the receipt of this directive, a proposal for establishment of a corporation responsible to the Ministry of Commerce and Industry, including in this proposal the following considerations:
 a. A provision that the corporation be capitalized in whole with government funds.
 b. A provision that the corporation be the sole distribution agency for petroleum products, except that those persons engaged in the business of selling petroleum products to consumers map engage in such distribution.
 c. A provision that the corporation have the following powers:
 (1) To acquire by lease any or all facilities and equipment of the Petroleum Distribution Control Company.
 (2) To acquire and distribute all petroleum products, whether imported or domestic.
 (3) To allocate, with the assent of the Ministry of Transportation and acting under the direction of the Economic Stabilization Board, all transportation facilities suitable for the distribution of petroleum and petroleum products.

5. The Imperial Japanese Government will establish a program for rationing of petroleum products to individual purchasers to be administered by the Ministry of Commerce and Industry and acting under the direction of the Economic Stabilization Board.

   FOR THE SUPREME COMMANDER:

               JOHN B. COOLEY,
               Colonel, AGD,
               Adjutant General.

<日本語訳>

石油製品の配給に関する覚書
一九四六年一〇月二五日

1. 連合国最高司令部発日本帝国政府宛の次の各覚書を参照すること:
 a. 一九四六年四月三日附、「貿易庁」に関する件
 b. 一九四六年五月二一日附、「石油製品の受領及び配給」に関する件

2. 日本帝国政府は、石油及び石油製品の配給に関する一切の法律、命令及び規則を廃止することを要する。石油及び石油製品の使用に関する法律、命令及び規則は引続き效力を有する。

3. 日本帝国政府は、石油配給統制会社を解散せねばならない。但し清算のためにその資產を保有する目的の場合はこの限りでない。

4. 日本帝国政府は、商工省に対して責任を負う団体の設立案を、以下各項を考慮に入れて作製し、8×11吋用紙に英文にてタイプしたその五通を本指令受領後一五日以內に連合国最高司令官に提出せねばならない。
 a. その団体の資本は全額政府資金より出資される旨の規定。
 b. その団体を石油製品の唯一の配給機関とする旨の規定。但し、石油製品を消費者に販売する業務に従事する者はそのような配給に従って差支はない。
 c. その団体に次のような権限を持たせる旨の規定:
(1)石油配給統制会社の施設の全部又は一部を賃貸借契約によつて入手すること
(2)輸入品であると国產品であるとをとわず一切の石油製品を入手配給すること
(3)運輸省の同意を得、経済安定本部の指示によつて、石油及び石油製品の配給に必要な一切の輸送施設を割当てること。
5. 日本帝国政府は、商工省によつて実施され、経済安定本部の指示によつて運営される石油製品の各購入者への割当計画を設定せねばならない。 

      『日本管理法令研究』15巻より

 ※原文の旧字を新字に変換してあります。

☆太平洋戦争後占領下での石油政策関係略年表

<1945年(昭和20)>
・10月1日 GHQが「石油販貢取締規則」、「廃油取締規則」などを廃止させる
・10月13日 GHQが「製油所に関する覚書」(SCAPIN-134)と「日本の石油製品に関する覚書」(SCAPIN-135)を指令する
・11月 GHQがG-4に石油顧問団(PAG)を設置する
・11月 商工省が原油輸入につきGHQに懇請する
・11月 GHQが食糧・綿花・石油・塩の輸入許可を表明する
・12月 石油精製業連合会が設立される
・12月 「石油配給統制要綱」が制定・施行される
・12月 ポーレー賠償調査団が、賠償中間案を発表する 

<1946年(昭和21)>
・1月16日 「石油業法」、「石油専売法」、「人造石油製造事業法」が廃止される
・1月21日 GHQが「原油輸入に関する覚書」(SCAPIN-640)を指令し、原油の輸入を禁止する
・5月21日 GHQが「石油製品の受領及び配給に関する覚書」(SCAPIN-971)を指令し、石油配給統制(株)を輸入・国産両石油製品の一元的取扱機関に指定する
・9月 石油統制会が解散する
・10月1日 「統制会社令」廃止に伴い、「臨時物資需給調整法」(物調法)が施行され、石油配給統制会社は、石油配給会社と改称される
・10月25日 GHQが「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)を指令する
・11月 ポーレー賠償調査団が、賠償問題最終報告書を発表する
・11月 GHQ指令により太平洋岸製油所が操業停止する
・11月 商工省は「臨時物資需給調整法」(物調法)に基づいて、「石油製品配給規則」を公布する

<1947年(昭和22)>
・2月 「石油配給取締規則」、「原油取締規則」が廃止される
・2月 「指定配給物資配給手続規程」が公布・施行(切符制実施)される
・4月1日 「石油製品配給規則」が施行される
・4月14日 「石油配給公団法」が公布される
・5月 GHQ指令(SCAPIN-1294 )に従って、石油配給(株)が解散する
・6月2日 資本金4,000万円で「石油配給公団」が設立される
・6月 「石油類売渡規則」が施行される

<1948年(昭和23)>
・7月 GHQが「太平洋岸製油所の操業および原油輸入に関する覚書」を指令する
・8月 GHQが外国石油3社に在日連合国人への石油製品販売を許可する
・9月2日 GHQが「石油主要基地を民営に移管すべき旨の連合国最高司令官覚書」を指令する

<1949年(昭和24)>
・3月 石油配給公団が廃止される
・9月22日 GHQが「太平洋岸製油所復旧計画の許可に関する覚書」を指令、各社別の復旧計画を許可する

<1950年(昭和25)>
・1月 原油輸入が許可され、太平洋岸各製油所が操業再開する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)島原の乱(島原・天草一揆)が起きる(新暦12月11日)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1936年(昭和11)に、東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)された日です。
 日本民藝館(にほんみんげいかん)は、東京都目黒区駒場にある美術館で、民芸品の収集展示を行ってきました。民芸運動の創始者である柳宗悦が、1926年(大正15)に、濱田庄司、河井寬次郎、富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、地方民芸の指導開発を目的として収集が開始されます。
 1927年(昭和2)に銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催、翌年には、東京・上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に「民藝館」を出品しました。その後、1931年(昭和6)に静岡県浜松市に「日本民藝美術館」が開設され、1934年(昭和9)には、日本民藝協会が発足し、柳宗悦が初代会長となります。
 そして、実業家で社会事業家の大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年(昭和11)10月24日に東京での「日本民藝館」の開設に至り、柳宗悦が初代館長となりました。日本・朝鮮・中国などの陶磁器や木漆器、染織品等の民芸品を収集・展覧を続け、現在では、世界各地の「民衆的工芸品」約 1万7,000点を収蔵するようになり、国指定重要文化財の絵唐津芦文壺なども含まれています。
 その中には、民芸運動の同志として活躍した、浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、富本憲吉(以上陶芸)、芹沢銈介(染色)、棟方志功(版画)らの作品も多数収蔵されてきました。尚、2021年(令和3)に、本館(附属塀を含む)、西館旧柳宗悦邸主屋、西館長屋門(附属塀を含む)が東京都指定有形文化財(建造物)に指定されています。

〇柳 宗悦(やなぎ むねよし)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した、民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者です。
 明治時代中頃の1889年(明治22)3月21日に、東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区)で、海軍少将だった父・柳楢悦、母・勝子の三男として生まれましたが、名は「そうえつ」とも読ませていました。学習院へ進み、1910年(明治43)の高等科在学中に武者小路実篤らと「白樺」の創刊に参加します。
 この頃バーナード・リーチを知り、W.ブレイクを研究するようになり、1911年(明治44)に東京帝国大学哲学科に進み、心理学を専攻、『科学と人生』を刊行しました。1913年(大正2)に大学を卒業、翌年に声楽家中島兼子と結婚、『ヰリアム・ブレーク』を洛陽堂から出版し、1919年(大正8)には、東洋大学教授として宗教学を教えるようになります。
 1921年(大正10)に日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催、1923年(大正12)の関東大震災を機に京都へ転居し、同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となりました。木喰五行明満の仏像の美しさにひかれ、1924年(大正13)から全国の木喰仏調査を開始、翌年には京都同志社女学校専門部教授に就任します。
 1926年(大正15)に陶芸家の富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、翌年には銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催しました。1928年(昭和3)に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に民藝館」を出品、初の本格的な工芸論『工藝の道』を刊行、1930年(昭和5)にヨーロッパを廻って帰国後、翌年には雑誌「工芸」を創刊します。
 1934年(昭和9)に日本民藝協会を発足させて会長に就任、1936年(昭和11)には、実業家の大原孫三郎の支援によって、東京駒場に「日本民藝館」を開設、初代館長となりました。1938年(昭和13)に京城に「朝鮮民族美術館」を開設、翌年に日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊され、1940年(昭和15)には、民衆的工芸の意味で“民芸”という語を創出し、浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を推進、専修大学教授となります。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に日米教育委員となり、1951年(昭和26)に雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめ、翌年には国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米しました。1957年(昭和32)に文化功労者となり、1960年(昭和35)には、朝日文化賞を受賞しましたが、1961年(昭和36)5月3日に、東京において、72歳で亡くなっています。

☆日本民藝館関係略年表

・1924年(大正13) 「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設する
・1925年(大正14) 「民藝」という造語が作られる
・1926年(大正15) 「日本民藝美術館設立趣意書」が発表され、地方民芸の指導開発を目的として収集が開始される
・1927年(昭和2) 銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催する
・1928年(昭和3) 東京・上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に「民藝館」を出品する
・1931年(昭和6)10月24日 浜松に「日本民藝美術館」が開設される
・1934年(昭和9) 日本民藝協会が発足し、柳宗悦が初代会長となる
・1935年(昭和10) 東京に柳宗悦邸(現在の西館)が完成する
・1936年(昭和11) 東京に「日本民藝館」が開設され、柳宗悦が初代館長に就任する
・1939年(昭和14) 日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊される
・1961年(昭和36)5月3日 初代館長の柳宗悦が亡くなる 
・1982年(昭和57) 旧大広間のあった位置に新館が建て替えられる
・2021年(令和3) 本館(附属塀を含む)、西館旧柳宗悦邸主屋、西館長屋門(附属塀を含む)が東京都指定有形文化財(建造物)に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細


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 今日は、奈良時代の765年(天平神護元)に、第47代の天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなった日ですが、新暦では11月10日となります。
 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、733年(天平5)に、奈良の平城京において、天武天皇の子である、舎人親王の第7皇子(母は当麻山背)として生まれましたが、名は大炊 (おおい) と言いました。735年(天平7)に父・舎人親王が亡くなり、756年(天平勝宝8)に聖武上皇が亡くなります。
 藤原仲麻呂の長子真従(まより)の未亡人粟田諸姉(あわたのもろあね)を妻とし、仲麻呂の邸宅である田村第に住むようになり、757年(天平宝字元)に道祖(ふなど)王が太子を廃されると、かわりに迎えられて立太子しました。758年(天平宝字2年8月1日)に孝謙天皇の譲位を受けて第47代とされる天皇として即位、粟田諸姉を妃とし、義父・藤原仲麻呂を太保 (右大臣) に任命し、姓を恵美、名を押勝とさせます。
 同年に国司の任期4年を6年に改め、760年(天平宝字4)に渤海国使・高南申ら方物を貢り、新銭 (万平通宝・大平元宝・開基勝宝など) を鋳造させ、旧銭 (和同開珎) と併用させ、藤原仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じました。760年(天平宝字4)に光明皇太后が亡くなると、道鏡の処遇をめぐって孝謙上皇と対立するようになり、翌年(天平宝字5)には、藤原仲麻呂勢力下の近江の保良宮を副都としてここに遷ります。
 762年(天平宝字6)に上皇は、天皇から国家の大事と賞罰の権を奪うと、追いつめられた義父・藤原仲麻呂は、764年(天平宝字8年年9月)に乱を起こして局面の打開をはかりましたが、逆賊として追討され敗死しました。天皇はその反乱の責めを問われ、淡路島に配流され、一院に幽閉されます。
 765年(天平神護元)に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化が命じられる中で、10月に配所を逃亡して捕えられ、その翌23日に配流先の淡路島において、数え年33歳で亡くなりました。その後、778年(宝亀9年3月)に淡路国三原郡の墓は山陵扱いとなります。
 尚、『続日本紀』では、廃帝(淡路廃帝)とされていましたが、1870年(明治3)になって淳仁の諡号が贈られることとなりました。

〇淳仁天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・733年(天平5年) 天武天皇の子である、舎人親王の第7皇子(母は当麻山背)として生まれる
・735年(天平7年11月14日) 父・舎人親王が亡くなる
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武上皇が亡くなる
・757年(天平宝字元年4月4日) 廃太子道祖(ふなど)王にかわって迎えられて立太子する
・758年(天平宝字2年8月1日) 孝謙天皇の譲位を受けて第47代とされる天皇として即位、時の有力者藤原仲麻呂の長男真従 (まより) の妻であった粟田諸姉 (あわだのもろね) を妃とする
・758年(天平宝字2年8月) 藤原仲麻呂を太保 (右大臣) に任命し、姓を恵美、名を押勝とさせる
・758年(天平宝字2年10月) 国司の任期4年を6年に改める
・760年(天平宝字4年1月5日) 渤海国使・高南申ら方物を貢る
・760年(天平宝字4年) 新銭 (万平通宝・大平元宝・開基勝宝など) を鋳造させ、旧銭 (和同開珎) と併用させる
・760年(天平宝字4年) 藤原仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じる
・760年(天平宝字4年6月7日) 光明皇太后が亡くなる
・761年(天平宝字5年10月) 藤原仲麻呂勢力下の近江の保良宮を副都としてここに遷る
・762年(天平宝字6年6月3日) 孝謙上皇と対立し、上皇は天皇から国家の大事と賞罰の権を奪う
・764年(天平宝字8年年9月) 上皇との対立を契機に藤原仲麻呂の乱が起き、仲麻呂は討たれる
・764年(天平宝字8年10月9日) 天皇を廃されて淡路に流され、淡路公・淡路廃帝と称される
・765年(天平神護元年2月) 現地の国守である佐伯助らに警戒の強化が命じられる
・765年(天平神護元年10月) 配所を逃亡して捕えられる、
・765年(天平神護元年10月23日) 配流先の淡路島において、数え年33歳で亡くなる
・778年(宝亀9年3月) 淡路国三原郡の墓は山陵扱いとなる
・1870年(明治3年) 淳仁の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細


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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われた日です。
 明治神宮外苑(めいじじんぐうがいえん)は、東京都新宿区霞ヶ丘町・港区北青山(一部)に所在する緑地です。明治時代は、青山練兵場でしたが、1912年(明治45)に明治天皇が亡くなった時に、葬場殿が設けられ、大葬儀が行われました。その後、明治神宮が国費で造営(内苑)されるにあたって、記念施設として民間の献金により外苑として造成されます。
 1918年(大正7)6月1日に明治神宮外苑地鎮祭で着工されたものの、当初計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設のみとするものでした。1923年(大正12)の関東大震災により、造営作業は中断し、敷地を被災者に開放 救護施設を建設、翌年には計画が変更され、野球場、水泳場、相撲場も設けられることになります。
 1924年(大正13)10月25日に、先行して明治神宮競技場が竣功(戦後に国立競技場として建替)、第1回明治神宮競技大会(内務省主催)が開催されました。1926年(大正15)10月22日には、絵画館、野球場、相撲場、児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われます。
 翌日から野球場開場記念試合として東京六大学紅白試合が行われ、その後は東京六大学リーグ戦の会場となりました。1931年(昭和6)に水泳場、1933年(昭和8)に相撲場併用バスケットボール場設備が出来、1936年(昭和11)には絵画館壁画が完成しています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)の東京大空襲の際に、野球場をはじめ、苑内樹木が被災、戦後はGHQによって接収され、メイジパークとして米将兵の運動場ともなりました。1952年(昭和27)にGHQの接収が解除され、米軍施設を引き継ぎ、中央広場は軟式球場として公開されます。
 1952年(昭和27)に「宗教法人法」の施行に伴い明治神宮外苑は宗教法人となりましたが、1956年(昭和31)に1964年の東京オリンピック開催のため、外苑競技場は国(文部省)に譲渡され、国立競技場に建て替えられました。その後、諸施設が設けられ、洋風庭園としても整備され、現在は面積約30万㎡で、聖徳記念絵画館、明治記念館、明治神宮野球場、明治神宮外苑アイススケート場、日本青年館などのスポーツ、文化施設があります。
 絵画館前へ通ずるイチョウ並木は、東京におけるもっとも美しい街路樹の一つとされ、1982年(昭和57)には「新東京百景」にも選定されました。

〇明治神宮外苑の主な施設

・聖徳記念絵画館 - 1926年竣工。明治天皇にまつわる幕末・明治期の政局を描いた絵画を中心に展示されている
・明治記念館 - 明治神宮による結婚式場として有名、大日本帝国憲法の草案を作った建物も残っている
・明治神宮野球場 - 東京ヤクルトスワローズの本拠地、また全日本大学野球選手権大会の舞台
・明治神宮外苑軟式グラウンド - 絵画館の正面にある野球場。
・明治神宮外苑にこにこパーク - 山やログハウスなど緑豊かな有料児童遊園(大人200円、子供50円)
・明治神宮外苑アイススケート場 - 一年中利用できる室内アイススケート場
・神宮外苑フットサルクラブ - 神宮外苑によるフットサルコート
・明治神宮外苑テニスクラブ - 神宮外苑によるテニスクラブ、1957年設立、室内と屋外の2つがある
・明治神宮外苑ゴルフ練習場 - 神宮外苑によるゴルフ練習場
・明治神宮バッティングドーム - 神宮にある全12打席のバッティングセンター
・日本青年館 - 宿泊・会議などもできる施設
・日本文化芸術研究センター - 2010年7月、京都造形芸術大学と東北芸術工科大学が共同で設置したサテライトキャンパス
・三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア - 2019年11月22日に開業した三井ガーデンホテルの1つ

☆明治神宮外苑関係略年表

・1912年(明治45)7月30日 明治天皇が亡くなる
・1912年(大正元)9月13日 旧青山練兵場(現在の明治神宮外苑)葬場殿にて大葬儀が行われる
・1914年(大正3) 明治神宮奉賛会創立準備委員会が結成され、旧青山練兵場を明治天皇を記念する公園施設(外苑)とすることとなる
・1918年(大正7)6月1日 明治神宮外苑地鎮祭で着工されたが、当初の開発計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、憲法記念館、陸上競技場の4施設のみとする
・1919年(大正8) 工夫賃金が上昇して予算がひっ迫すると、全国各地の青年団が勤労奉仕として造営に加わることとなる
・1923年(大正12) 関東大震災により、造営作業は中断し、敷地を被災者に開放 救護施設を建設する
・1924年(大正13) 計画が変更され、野球場・水泳場・相撲場も設けられることになる
・1924年(大正13)10月25日 明治神宮競技場が竣功する(戦後に国立競技場として建替)
・1924年(大正13)10月30日 第1回明治神宮競技大会(内務省主催)が開催される
・1926年(大正15)10月22日 絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる
・1926年(大正15)10月23日 野球場開場記念試合として東京六大学紅白試合が行われる
・1926年(大正15)10月24日 東京六大学リーグ戦が開始される
・1931年(昭和6)5月9日 野球場改築工事が竣功し、アーケード型通路となる
・1931年(昭和6)6月19日 水泳場が竣功する
・1933年(昭和8)1月19日 相撲場併用バスケットボール場設備が奉献される
・1936年(昭和11)4月21日 絵画館壁画が完成し記念式が行われる
・1943年(昭和18)10月21日 明治神宮競技場で出陣学徒壮行会が挙行される
・1945年(昭和20)5月25日 東京大空襲のため、野球場をはじめ、苑内樹木が被災する
・1945年(昭和20)9月18日 GHQによって接収され、メイジパークとして米将兵の運動場となる
・1945年(昭和20)10月28日 戦後初の六大学野球OB戦が行われる
・1945年(昭和20)11月18日 全早慶戦が行われる
・1945年(昭和20)11月23日 野球場初のプロ野球試合、東西対抗戦が行われる
・1947年(昭和22)6月1日 大相撲夏場所が晴天の10日間開催される(国技館米国接収につき)
・1947年(昭和22)11月1日 憲法記念館を「明治記念館」として結婚式場を開館する
・1950年(昭和25)11月22日 プロ野球初の日本選手権試合、毎日対松竹が行われる
・1952年(昭和27)3月1日 新宿区より絵画館が「建造物の部」で文化財に指定される
・1952年(昭和27)3月31日 GHQの接収が解除され、米軍施設を引き継ぎ、中央広場を軟式球場として公開(当初2面)する
・1952年(昭和27)10月22日 「宗教法人法」の施行に伴い明治神宮外苑は宗教法人となる
・1953年(昭和28)2月3日 ゴルフ練習場が開場する(29.12.31まで野球場外野スタンド)
・1956年(昭和31)12月25日 外苑競技場を国(文部省)に譲渡、国立競技場となる(東京オリンピック開催のため)
・1957年(昭和32)4月1日 硬式テニスコート開場式が行われ、テニスクラブが発会する
・1959年(昭和34)6月21日 絵画館前角池を子供プールに使用する(かっぱ天国 36年まで)
・1960年(昭和35)3月25日 児童遊園が有料化され、こども電車が営業開始する(40年まで)
・1961年(昭和36)4月19日 第二球場が竣功する(相撲場跡地)
・1962年(昭和37)4月7日 神宮球場でのプロ野球公式戦使用を開始する(東映)
・1962年(昭和37)6月8日 野球場ナイター照明工事が竣功する
・1963年(昭和38)11月6日 水泳場新館増改築工事が竣功する(家族プール兼アイススケート場)
・1963年(昭和38)11月7日 アイススケート場が営業開始する
・1964年(昭和39)4月1日 神宮球場を国鉄球団(現在の東京ヤクルトスワローズ)の本拠地として使用開始する
・1964年(昭和39)7月23日 国旗掲揚塔が奉納される
・1964年(昭和39)10月10日 東京オリンピックが開会する
・1968年(昭和43)4月1日 絵画館学園が開校する(明治維新100年事業として)
・1968年(昭和43)8月3日 外苑円周道路においてサイクリングが開始される(日・祝日のみ使用 現在も実施中)
・1969年(昭和44)2月11日 「建国記念塔」が奉納される
・1970年(昭和45)11月6日 第一回明治神宮野球大会が開催される
・1971年(昭和46)5月25日 室内球技場が竣功する
・1972年(昭和47)8月13日 ゴルフ練習場が営業開始する
・1976年(昭和51)10月29日 野球場竣功50周年物故者慰霊祭が行われる
・1977年(昭和52)4月16日 打撃練習場が竣功する
・1978年(昭和53)1月10日 陶芸教室が竣功する
・1978年(昭和53)3月30日 野球場外野芝生席が改修される(椅子席となる)
・1978年(昭和53)10月10日 児童遊園内にトリム遊具が設置される
・1980年(昭和55)3月15日 電光式スコアボードが新設される(野球場)
・1980年(昭和55)8月1日 第一回神宮外苑花火大会が開催される(以降毎年実施)
・1982年(昭和57)3月17日 野球場透水性人工芝生敷設工事が竣功する
・1982年(昭和57)7月29日 キリンビアフェスタが開催される(児童遊園)以降「森のビアガーデン」として毎夏盛況を博す
・1982年(昭和57)10月1日 外苑フィギュア・スケートクラブが発会する
・1982年(昭和57)10月1日 「新東京百景」に選定される
・1990年(平成2)10月22日 聖徳記念絵画館夜間照明が竣功する
・1991年(平成3)3月8日 世界陸上が開催される(軟式球場サブトラックとして使用)
・1993年(平成5)3月27日 室内テニスコートが竣功する
・1994年(平成6)9月21日 アイススケート場通年営業開始
・1996年(平成8)12月26日 銀杏並木「新日本街路樹100景」に認定
・1997年(平成9)3月18日 フットサルコート竣功(軟式球場・水泳場)
・1997年(平成9)11月22日 第一回神宮外苑いちょう祭りが開催される(以降毎年実施)
・2002年(平成14)12月2日 明治神宮水泳場が閉場する
・2003年(平成15)4月25日 フットサル千駄ヶ谷コートが竣功する
・2003年(平成15)6月2日 絵画館が東京都選定歴史的建造物に指定される
・2006年(平成18) 社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会関東支部は、「2016東京オリンピック招致に向けたランドスケープ提言」をまとめる
・2006年(平成18)11月4日 外苑創建八十年記念奉納試合が開催される(東京六大学選抜対東京ヤクルトスワローズ)
・2008年(平成20)3月6日 野球場リニューアル工事が竣功、人工芝全面張替、スコアボード全面LEDハイビジョン化、両翼拡張(91m→101m)される
・2015年(平成27)4月1日  都は指定の容積率を使い切っていない公園や緑地も多いため、神宮外苑地区の地権者と、街づくり(再整備)の検討に向けた基本覚書を交わす
・2018年(平成30)8月23日 都は新国立競技場を中心とした明治神宮外苑地区の再開発について、2020年以降の街づくり指針を有識者らが協議する検討委員会(座長・下村影男東京大学教授)は、大まかな将来像を示めす
・2018年(平成30)11月22日 上記を受けて都がまちづくり指針を発表する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
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