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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、土佐藩士・自由民権家・政治家片岡健吉が亡くなった日です。
 片岡健吉(かたおか けんきち)は、江戸時代後期の1844年2月14日(天保14年12月26日)に、土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれましたが、幼名は寅五郎、諱は益光と言いました。1849年(嘉永2)に藩主への御目見えを許され、1861年(文久元)に御扈従、1863年(文久3)には、御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となります。
 1865年(慶応元)に祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぎ、1866年(慶応2)に外輪物頭六明組郷士隊長、1867年(慶応3)に御侍別撰小隊司令、そして京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となりました。1868年(慶応4)に迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられ、京都に向けて出陣、現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立て、陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増されます。
 1869年(明治2)に参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、明治維新後は新政府に出仕、1871年(明治4)には、高知藩権大参事となり、2年間のロンドン留学に出発しました。1873年(明治6年)に帰国後、海軍中佐となりましたが、政府内の征韓論派の失脚(明治六年政変)に伴い、職を辞して高知に帰ります。
 1874年(明治7)に板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設、翌年には初代社長となりました。1877年(明治10)の西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出したものの、受け入れられず不受理となり、立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕されて、翌年には禁獄100日の判決を受けます。
 1879年(明治12)に高知県会の初代議長となりましたが、1ヶ月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職しました。1880年(明治13)の第4回愛国社大会の議長を務め、河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可ヲ上願スル書」を提出しましたが拒絶されます。
 1881年(明治14)の自由党の結成に重要な役割りを果たし、高知新聞社長となり、翌年には海南自由党を結成しました。1885年(明治18)に洗礼を受けてプロテスタントとなり、高知教会長老に選ばれます。
 1887年(明治20)の三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられ、「保安条例」違反で退去命令が出されるものの従わず、禁錮2年6か月の刑に処され、1889年(明治22)の帝国憲法発布の大赦で出獄しました。1890年(明治23)の第1回衆議院議員総選挙で高知県から当選(以後8期連続)、副議長、議長を歴任し、自由党解散後は、憲政党、立憲政友会にも属しましたが、1903年(明治36)に退党しています。
 一方で、基督教青年会(YMCA)理事長、同志社社長兼校長、土陽新聞社長などを歴任したものの、1903年(明治36)10月31日に、高知県において、数え年61歳で亡くなっています。

〇片岡健吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1844年2月14日(天保14年12月26日) 土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれる
・1849年(嘉永2年7月7日) 藩主への御目見えを許される
・1860年(万延元年8月18日) 前年に乾退助らと相諮り南川原相撲場へ立ち入って不作法に及んだ事を咎められ謹慎処分を受ける
・1861年(文久元年3月17日) 御扈従に就任する
・1862年(文久2年11月27日) 御側小性を免じられ、御馬廻りへ転任する
・1863年(文久3年2月5日) 御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となる
・1863年(文久3年4月8日) 当役を以って外輪物頭を兼ねる
・1865年(慶応元年10月22日) 祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぐ
・1866年(慶応2年5月11日) 鉄砲頭を免じ御馬廻に再任される
・1866年(慶応2年8月2日) 外輪物頭六明組郷士隊長となる
・1867年(慶応3年3月6日) 文武出精を賞され褒詞を受ける
・1867年(慶応3年7月17日) 御侍別撰小隊司令に就任する
・1867年(慶応3年11月4日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となる
・1867年(慶応3年12月10日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属を免じられ、御馬廻りに転任、乾退助と共に勤王論を唱導し、その意を同じくする
・1868年(慶応4年1月8日) 迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられる
・1868年(慶応4年1月20日) 京都に向けて出陣する
・1868年(慶応4年2月2日) 現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立てる
・1868年(明治元年11月26日) 陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増される
・1868年(明治元年11月27日) 当役まま大目付を兼帯する
・1869年(明治2年3月13日) 参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、維新後は新政府に出仕する
・1871年(明治4年2月) 高知藩権大参事となる
・1871年(明治4年5月6日) 2年間のロンドン留学に出発する
・1873年(明治6年)10月 帰国後に海軍中佐となるが、政府内の征韓論派の失脚に伴い、職を辞して高知に帰る(明治六年政変)
・1874年(明治7年) 板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設する
・1875年(明治8年)4月 立志社の初代社長となる
・1875年(明治8年)8月24日 高知県七等出仕する
・1876年(明治9年)1月 高知県七等出仕を辞める
・1877年(明治10年)6月9日 西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出するも、受け入れられず不受理となる
・1877年(明治10年)8月18日 立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕される
・1878年(明治11年)8月 禁獄100日の判決を受ける
・1879年(明治12年) 高知県会の初代議長となったが、1か月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職する
・1880年(明治13年)3月 第4回愛国社大会の議長を務める
・1880年(明治13年)4月 河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可(いんか)ヲ上願スル書」を提出したが拒絶される
・1881年(明治14年) 自由党の結成に協力、高知新聞社長となる
・1882年(明治15年) 海南自由党を結成する
・1885年(明治18年)5月15日 高知市中島町の森武興邸(高知教会の発祥地)においてナックス宣教師の洗礼を受けてプロテスタントとなる
・1885年(明治18年)10月8日、片岡健吉・坂本直寛が高知教会長老に選ばれる
・1887年(明治20年) 三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられる
・1887年(明治20年)12月26日 「保安条例」違反で退去命令が出されるが従わず、禁錮2年6か月の刑に処される
・1889年(明治22年) 帝国憲法発布の大赦で出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆議院議員総選挙で当選する
・1893年(明治26年) 植村正久・井深梶之助(旧会津藩士)・グリナン宣教師・山田平左衛門・坂本直寛らと協力して高知県下の伝道を行なう
・1898年(明治31年) 衆議院議長となる
・1902年(明治35年)3月27日 同志社社長となる
・1903年(明治36年)10月31日 高知県において、数え年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
1943年(昭和18)軍需会社法」が公布される詳細
1967年(昭和42)医学者佐々木隆興の命日詳細