akinofuku01

 今日は、平成時代の2001年(平成13)に、日本画家秋野不矩が亡くなった日です。
 秋野不矩(あきの ふく)は、明治時代後期の1908年(明治41)7月25日に、静岡県磐田郡二俣町城山(現在の浜松市天竜区二俣町)の神主の家に生まれましたが、本名はふくと言いました。静岡県立二俣高等女学校(現在の県立天竜高等学校)を経て、1925年(大正14)に静岡県女子師範学校2部(現在の静岡大学)へ入学し、美術教師・三沢佐助の指導を受けます。
 1926年(大正15)に卒業後、静岡県磐田郡横山尋常高等小学校へ赴任したものの、翌年には教職を辞し、父親の勧めで石井林響に入門しました。1929年(昭和4)に師・林響、脳溢血症で倒れると西山翠嶂の塾青甲社に入門します。
 1930年(昭和5)に『野を帰る』で第11回帝展に初入選、1932年(昭和7)には澤宏靱と結婚、雅号を「不矩」としました。1936年(昭和11)に『砂上』で新文展鑑査展で選奨、1938年(昭和13)に『紅裳』で第2回新文展特選となり、無監査になります。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に日展、帝展、新文展の系列から離別して、創造美術協会 (現・創画会) の結成に参画、翌年には、京都市立美術専門学校助教授に就任しました。1951年(昭和26)に『少年群像』で第1回上村松園賞を受賞、1962年(昭和37)には、インド・「ビスバ・バーラティ大学」(現タゴール国際大学)客員教授に赴任して1年間滞在、インド旅行をします。
 1966年(昭和41)に京都市立美術大学教授に昇任(1973年退任)、度々インドを訪れ、インドを主題とした作品を制作するようになりました。1978年(昭和53)に京都市文化功労者、1981年(昭和56)に京都府美術工芸功労者、1983年(昭和58)に天竜市名誉市民、1986年(昭和61)に第27回毎日芸術賞、1988年(昭和63)に第1回京都美術文化賞、1990年(平成2)に第43回中日文化賞など数々の栄誉に輝きます。
 インドの大地と人々の暮らしを力強い筆と鮮やかな色彩で描き、現代日本画に新境地を開くなどの業績により、1991年(平成3)に文化功労者、1993年(平成5)に第25回日本芸術大賞受賞、そして、1998年(平成10)には故郷の静岡県天竜市に秋野不矩美術館が開館しました。1999年(平成11)に文化勲章を受章しましたが、2001年(平成13)10月11日に、京都府美山町のアトリエにおいて、93歳で亡くなっています。

〇秋野不矩の主要な作品

・『野を帰る』(1930年)第11回帝展入選
・『砂上』(1936年)新文展鑑査展選奨
・『紅裳』(1938年)第2回新文展特選
・『少年群像』(1951年)第1回上村松園賞受賞
・『インド女性』(1964年)
・『ガンガー』(1979年)
・『残雪』(1980年)
・『廻廊』(1984年)

☆秋野不矩関係略年表

・1908年(明治41)7月25日 静岡県磐田郡二俣町城山(現在の浜松市天竜区二俣町)の神主の家に生まれる。
・1920年(大正9) 二俣尋常高等小学校6年で図画教師・鈴木俊平の影響を受ける
・1925年(大正14)3月 静岡県立二俣高等女学校(現在の県立天竜高等学校)を卒業する
・1925年(大正14)4月静岡県女子師範学校2部(現在の静岡大学)へ入学し、美術教師・三沢佐助の指導を受ける
・1926年(大正15)4月 静岡県磐田郡横山尋常高等小学校へ赴任する
・1927年(昭和2)9月 教職を辞し、父親の勧めで石井林響に入門する
・1929年(昭和4)3月 師・林響、脳溢血症で倒れる
・1929年(昭和4)11月 西山翠嶂の塾青甲社に入門する
・1930年(昭和5) 『野を帰る』で第11回帝展に初入選する
・1932年(昭和7)  澤宏靱と結婚、京都市左京区田中樋口町に住み、雅号を「不矩」とする
・1933年(昭和8)1月 秋野不矩後援会が発足する
・1933年(昭和8)1月 長男・癸巨矢(きくし)が誕生する
・1933年(昭和8)10月 「奈那久佐(七草)会」を京都大阪の同志で結成、後の春泥社につながる
・1935年(昭和10)4月 次男・亥左牟(いさむ)が誕生する
・1935年(昭和10)12月 父・惣吉が亡くなるく
・1936年(昭和11) 『砂上』で新文展鑑査展で選奨となる
・1937年(昭和12)6月 京都の女流画家の会『春泥社』に結成参加(梶原緋佐子、三谷十糸子、広田多津)する
・1937年(昭和12)10月 三男・子弦(みつる)が誕生する
・1937年(昭和12)10月 京都市東山区粟田口に転居する
・1938年(昭和13) 『紅裳』で第2回新文展特選となる
・1940年(昭和15)1月 長女・靱子(ゆきこ)が誕生する
・1942年(昭和17)5月 四男・矩之(のりゆき)が誕生する
・1944年(昭和18)12月 京都市左京区岡崎法勝寺町へ転居する
・1945年(昭和20)2月 五男・等(ひとし)が誕生する
・1948年(昭和23)1月 「創造美術」を結成する
・1949年(昭和24)9月 京都市立美術専門学校助教授に就任する
・1950年(昭和25)4月 京都市立美術大学助教授に就任(美專兼任)する
・1950年(昭和25)9月 「創造美術」と「新制作派協会」が合流「新制作協会日本画部」となる
・1951年(昭和26)2月 『少年群像』で第1回上村松園賞を受賞する
・1958年(昭和33)10月 澤宏靱と離婚する
・1962年(昭和37)7月 インド・「ビスバ・バーラティ大学」(現タゴール国際大学)客員教授に赴任する
・1962年(昭和37)10月 インド旅行をする
・1964年(昭和39) 個展(東京高島屋美術画廊)を開催する
・1966年(昭和41)5月 京都市立美術大学教授に昇任する
・1969年(昭和44)12月 ミクロネシア旅行(1ヶ月)をする
・1971年(昭和46)10月 インド・アフガニスタン旅行(約3ヶ月)をする
・1972年(昭和47) 画室(岡崎)がほぼ全焼する
・1973年(昭和48)7月 京都市左京区岡崎法勝寺町の画室が全焼する
・1974年(昭和49)2月 京都市左京区八瀬近衛町に移転する
・1974年(昭和49)3月 京都市立芸術大学美術学部退職
・1974年(昭和49)5月 新制作協会から日本画部が退会。創画会を結成
・1974年(昭和49)5月 インド旅行(約1年)をする
・1974年(昭和49)7月 京都市立芸術大学名誉教授となる
・1976年(昭和51)10月 京都市左京区八瀬近衛町の画室、火災。伏見区墨染の末男井上等宅に同居する
・1977年(昭和52)4月 インド旅行(約1年)をする
・1978年(昭和53)5月 マラリアで倒れる
・1978年(昭和53)11月 京都市文化功労者表彰を受ける
・1980年(昭和55)10月 京都府北桑田郡美山町の三男子弦宅隣に画室をもつ
・1981年(昭和56)10月 京都府美術工芸功労者表彰を受ける
・1982年(昭和57)9月 インド訪問(3ヶ月)ナンドラル・ボース生誕100年祭出席。アテシャ生誕千年を記念して「チベット高僧アテシャ」贈呈
・1983年(昭和58)11月 天竜市名誉市民となる
・1985年(昭和60)2月~4月 「女流画家インドを描く 秋野不矩自選展」が開催される
・1986年(昭和61)1月 第27回毎日芸術賞を受賞する
・1988年(昭和63)2月 「秋野不矩作品展」が開催される
・1988年(昭和63)5月 第1回京都美術文化賞を受賞する
・1988年(昭和63)5月 インド旅行をする
・1990年(平成2)5月 第43回中日文化賞を受賞する
・1991年(平成3)7月 インド旅行をする
・1991年(平成3)11月 文化功労者顕彰を受ける
・1992年(平成4)11月~12月 個展「秋野不矩インド」が開催される
・1993年(平成5)6月 第25回日本芸術大賞を受賞する(財・新潮文芸 振興会)
・1993年(平成5)8月 インド旅行をする
・1993年(平成5)10月〜翌年4月 「秋野不矩展」が開催される
・1995年(平成7)12月 インド・カンボジア旅行をする
・1996年(平成8)2月 カンボジア(アンコールワット)を旅行する
・1996年(平成8)9月 天竜市立秋野不矩美術館起工式を挙行する
・1996年(平成8)10月 京都府あけぼの賞を受賞する
・1996年(平成8)10月 インド旅行(約1ヶ月)をする
・1997年(平成9)2月 インド旅行(約1ヶ月)をする
・1997年(平成9)10月 「秋野不矩展-デッサンから本画へ-」(ギャラリー鉄斎堂)
・1998年(平成10)2月 インド旅行(約1ヶ月)をする
・1998年(平成10)3月 「秋野不矩展-インド 大地と生命の讃歌-」が開催される
・1998年(平成10)4月 天竜市立秋野不矩美術館竣工式を挙行する
・1999年(平成11)1月 第17回京都府文化賞特別功労賞を受賞する
・1999年(平成11)2月 インド旅行(約40日)をする
・1999年(平成11)11月 文化勲章を受章する
・2000年(平成12)2月 アフリカ旅行(1ヶ月)をする
・2001年(平成13)10月11日 京都府美山町のアトリエにおいて、93歳でなくなる、従三位に叙される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1231年(寛喜3)第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなる(新暦11月6日)詳細
1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細