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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、軍部・右翼団体の攻撃で、河合栄治郎の『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分(河合栄治郎事件)となった日です。
 河合栄治郎事件(かわいえいじろうじけん)は、この年から1943年(昭和18)まで続いた、東京帝国大学経済学部教授の河合栄治郎に対する、思想弾圧事件でした。河合栄治郎は1933年(昭和8)に、ナチスの台頭を目のあたりにしてドイツ留学より帰国、その後ファシズム批判の姿勢を強めます。
 天皇機関説事件の時の批評や二・二六事件に際して軍部批判を公にしたことにより、右翼・軍部より攻撃を受けるようになり、1938年(昭和13)10月5日に、内務省より、『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分とされました。これを契機に、東京帝国大学新総長平賀譲は経済学部内の派閥対立問題の解決とからめて河合の処分を決意、翌年1月に河合の休職を文官高等分限委員会に具申、河合は休職処分となり(平賀粛学)、学内外の大問題となります。
 同年2月には、著書出版社社長と共に、「出版法」(第17条)「安寧秩序を紊るもの」に当たるとして起訴され、1940年(昭和15)10月に第一審で無罪となったものの、1941年(昭和16)の控訴院(第二審)で300円の罰金刑を受け、1943年(昭和18)6月の大審院で控訴棄却となり、有罪が確定しました。この事件は、自由主義者を弾圧した、1937年(昭和12)の矢内原事件に次ぐものであり、続いて1940年(昭和15)の津田左右吉事件へと至ります。

〇河合栄治郎とは?

 河合栄治郎(かわい えいじろう)は、大正から昭和時代前期に活躍した社会思想家・経済学者です。1891年(明治24)2月13日に、東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれました。
 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に学びます。1915年(大正4)に卒業後、農商務省に入省、1918年(大正7)には、「工場法」の研究のためアメリカに出張、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、労働運動の指導者と会見しました。
 1920年(大正9)に東京帝国大学助教授となり、経済学史を担当、1922年(大正11)にイギリスへ留学し、イギリス理想主義、とりわけトーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受け、1925年(大正14)に帰国します。1926年(大正15)に東京帝国大学教授となり、社会政策講座を受け持ち、1932年(昭和7)にドイツに留学してナチスの台頭を目のあたりにして、1933年(昭和8)に帰国しました。
 政治的には自由主義、経済的には社会主義を主張、天皇機関説事件を批評、1934年(昭和9)に『ファシズム批判』、翌年に『改訂社会政策原理』を刊行、1936年(昭和11)には、2.26事件で軍部を批判します。1936年(昭和11)に経済学部長となり、翌年には、『時局と自由主義』、『第二学生生活』を刊行したものの、経済学部長を辞めました。
 1938年(昭和13)には、軍部・右翼団体の攻撃で、『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分となります。また、翌年1月に東大経済学部の内紛がらみのいわゆる“平賀粛学”で休職処分となり、2月には著書出版社社長と共に、「出版法」(第17条)「安寧秩序を紊るもの」に当たるとして起訴されました。
 その後、1940年(昭和15)の第一審で無罪となったものの、翌年の控訴院(第二審)で300円の罰金刑を受け、1943年(昭和18)の大審院で控訴棄却となり、有罪が確定します。人間の尊厳、人間自由の理想を死を賭して守りぬこうとしてきましたが、1944年(昭和19)2月15日に、東京において、54歳で亡くなりました。

〇河合栄治郎の主要な著作

・『労働問題研究』(1922年)
・『社会思想史研究』(1923年)
・『在欧通信』(1926年)
・『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』(1930年)
・『社会政策原理』(1931年)
・『ファシズム批判』(1934年)
・『改訂社会政策原理』(1935年)
・『社会思想家評伝』(1936年)
・『時局と自由主義』(1937年)
・『第二学生生活』(1937年)
・『学生に与ふ』(1940年)

☆河合栄治郎関係略年表

・1891年(明治24)2月13日 東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる
・1915年(大正4) 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、農商務省に入省する
・1918年(大正7) 「工場法」の研究のためアメリカに出張、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、労働運動の指導者と会見する
・1920年(大正9) 東京帝国大学助教授となり、経済学史を担当する
・1922年(大正11) イギリスへ留学し、イギリス理想主義、とりわけトーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受ける
・1925年(大正14) イギリス留学から帰国する
・1926年(大正15) 東京帝国大学教授となり、社会政策講座を受け持つ
・1932年(昭和7) ドイツに留学してナチスの台頭を目のあたりにする
・1933年(昭和8) ドイツ留学から帰国する
・1934年(昭和9) 『ファシズム批判』を刊行する
・1935年(昭和10) 『改訂社会政策原理』を刊行する
・1936年(昭和11) 2.26事件で軍部を批判する
・1936年(昭和11)3月31日 経済学部長となる
・1937年(昭和12) 『時局と自由主義』、『第二学生生活』を刊行、経済学部長を辞める
・1938年(昭和13)10月5日 軍部・右翼団体の攻撃で、『ファッシズム批判』、『時局と自由主義』、『改訂社会政策原理』、『第二学生生活』の四著が発禁処分となる
・1939年(昭和14)1月 東大経済学部の内紛がらみのいわゆる“平賀粛学”で休職処分を受ける
・1939年(昭和14)2月 著書出版社社長と共に、「出版法」(第17条)「安寧秩序を紊るもの」に当たるとして起訴される
・1940年(昭和15)10月 第一審で無罪となる
・1941年(昭和16) 控訴院(第二審)で300円の罰金刑を受ける
・1943年(昭和18)6月 大審院で控訴棄却となり、有罪が確定する
・1944年(昭和19)2月15日 東京において、54歳で亡くなる

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