ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年09月

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 今日は、昭和時代中期の1964年(昭和39)に、秋田県の八郎潟干拓の干拓式が行われた日です。
 この日、中央干拓地が初めて一般に公開され、赤城宗徳農林大臣、オランダからヤンセン教授、小畑勇二郎秋田県知事をはじめ、約1,300人もの関係者が出席し、盛大に挙行されました。式典会場周辺では、中央干拓地の堤防を一周する駅伝競走大会、承水路でのボート競技、高校選抜相撲選手権大会などの協賛行事が行われています。

〇八郎潟干拓(はちろうがたかんたく)とは?

 当時、日本第2位の面積の湖だった秋田県の八郎潟を干拓して農地とした事業です。江戸時代や明治時代にも計画が立てられましたが、実現されずにいました。
 太平洋戦争後、食糧増産の急務から、国の直轄事業として「国営八郎潟干拓事業」が立案され、1957年(昭和32)に着工されます。1963年(昭和38)に中央干拓堤防が完成して排水が終了し、翌年には、「大潟村」が誕生しました。
 1968年(昭和43)には道路、用水路、排水路がつくられ、全体の事業は1977年(昭和52)に竣工しました。20年におよぶ歳月と総事業費約852億円の巨費をかけて、総延長52kmの堤防の中に、170.05平方kmの広大な干拓地が出現します。
 当初は、米の増産を目指していましたが、その後の減反政策の下で、苦渋の道を歩むことになりました。この干拓地の一角に、2000年(平成12)にオープンした「大潟村干拓博物館」があり、干拓当時の記録を展示するとともに、大潟村の発展のようす、今日の農業のすがたなどを学ぶことができます。

☆八郎潟干拓関係略年表

・1952年(昭和27) 農林省は食糧の自給率を上げるため、食糧増産5カ年計画を策定、八郎潟干拓計画が検討される
・1953年(昭和28)8月 政府は農林省の担当者をオランダに派遣する
・1953年(昭和28) 八郎潟周辺の漁民たちは、八郎潟干拓反対同盟会を結成する
・1954年(昭和29)4月 オランダよりヤンセン教授とフォルカー技師が来日し、秋田を訪れ、八郎潟を視察する
・1954年(昭和29)7月 「日本の干拓に関する所見」(通称:ヤンセンレポート)を日本政府に提出する
・1957年(昭和32)5月1日 八郎潟干拓事業所が秋田市に設置され、八郎潟干拓工事が着工となる
・1957年(昭和32)12月 「八郎潟干拓事業に伴う漁業補償問題の実施に関する覚書」が結ばれる
・1958年(昭和33) 干拓事業の企画立案や工事の設計・完成検査、予算編成・執行・決算等を行う組織として八郎潟干拓事務所が設けられる
・1958年(昭和33)4月 男鹿市の払戸と船越間の西部地先干拓地堤防工事が始まる
・1958年(昭和33)8月 八郎潟町一日市の沖合で試験堤防工事が着工する
・1958年(昭和33)8月20日 秋田市山王体育館で起工式が挙行される
・1958年(昭和33)9月 日本初のサクション式浚渫船「双竜」が落成する
・1963年(昭和38)11月12日 正面堤防の締め切りが完了する
・1964年(昭和39)9月 比較的水深が浅い八郎潟の西部を中心に、約6,000haの湖底が姿を現す
・1964年(昭和39)9月15日 「干拓式」と題する式典を開催する
・1964年(昭和39)10月1日 秋田県で73番目(当時)の自治体として大潟村が発足する
・1965年(昭和40)5月27日 国営八郎潟干拓地に新農村を建設する「八郎潟新農村建設事業団法」が公布される
・1967年(昭和42) 干拓地に入植が開始される
・1968年(昭和43) 道路、用水路、排水路がつくられる
・1968年(昭和43)4月9日 農場で農場開きの式典が挙行される
・1969年(昭和44) 八郎潟干拓記念秋田農業大博覧会が開催される
・1970年(昭和45) 米の生産調整(減反政策)が開始され、大潟村への入植者公募が中止される
・1973年(昭和48) 入植者公募が再開されたものの、これを最後に打ち切られる
・1977年(昭和52) 全体の事業が竣工する
・1978年(昭和53) 玉川ダム建設保障で例外的に9戸が新規入植する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1305年(嘉元3)第90代の天皇とされる亀山天皇の命日(新暦では10月4日)詳細
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いが起き、東軍が勝利する(新暦10月21日)詳細
1932年(昭和7)日満議定書」が調印される詳細
1945年(昭和20)文部省が「新日本建設ノ教育方針」を公表する詳細


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 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、奥羽線の湯沢駅~横手駅間が開業し、福島駅~青森駅間が全通した日です。
 奥羽本線(おううほんせん)は、東北地方の福島、山形、秋田。青森の各県を縦貫する幹線で、国鉄の分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)が管理してきました。当初から国鉄線として福島側(奥羽南線)および青森側(奥羽北線)からそれぞれ建設を開始し、まず青森側(奥羽北線)は、1894年(明治27)12月1日に青森駅~弘前駅間が開通、福島側(奥羽南線)は、1899年(明治32)5月15日に福島駅~米沢駅間が開通します。
 その後順次延伸開業していき、1905年(明治38)9月14日湯沢駅~横手駅間の開通により、福島駅~青森駅間が全通、1909年(明治42)10月12日には、国有鉄道線路名称制定により、福島駅~青森駅間が奥羽本線と改称されました。全線の営業キロは484.5kmに及び、豪雪地帯を通っているため、沿線には防雪施設が多く、奥羽山脈を横断していて、福島駅~米沢駅間は最急38‰の急勾配区間があります。
 そのため、1949年(昭和24)に福島駅~米沢駅区間の輸送力強化のため直流電化が行われ、東北地方における最初の幹線電化となりました。また、1968年(昭和43)から進められた交流電化により、この区間を含め同年交流に切り替えられ、1975年(昭和50)までに全線の交流電化が完成しています。
 1987年(昭和62)4月1日の国鉄の分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)に所属するようになりました。1992年(平成4)7月1日に山形新幹線が開業したのに伴い、福島駅~山形駅間の軌道幅は新幹線と同じ標準軌となり、1997年(平成9)3月22日に秋田新幹線が開業した大曲駅~秋田駅間は、標準軌と狭軌の3線軌道方式となります。

〇奥羽本線関係略年表

・1894年(明治27)12月1日 青森駅~弘前駅間が開業する
・1895年(明治28)10月21日 弘前駅~碇ケ関駅間が開業する
・1899年(明治32)5月15日 福島駅~米沢駅間が開業する
・1899年(明治32)6月21日 碇ケ関駅~白沢駅間が開業する
・1899年(明治32)11月15日 白沢駅~大館駅間が開業する
・1900年(明治33)4月21日 米沢駅~赤湯駅間が開業する
・1900年(明治33)10月7日 大館駅~鷹ノ巣駅間が開業する
・1901年(明治34)2月15日 赤湯駅~上ノ山駅(現在のかみのやま温泉駅)間が開業する
・1901年(明治34)4月11日 上ノ山駅~山形駅間が開業する
・1901年(明治34)8月23日 山形駅~楯岡駅(現在の村山駅)間が開業する
・1901年(明治34)10月21日 楯岡駅~大石田駅間が開業する
・1901年(明治34)11月1日 鷹ノ巣駅~能代駅(現在の東能代駅)間が開業する
・1902年(明治35)7月21日 大石田駅~舟形駅間が開業する
・1902年(明治35)8月1日 能代駅(現在の東能代駅)~五城目駅(現在の八郎潟駅)間が開業する
・1902年(明治35)10月21日 五城目駅~秋田駅間が開業する
・1903年(明治36)6月11日 舟形駅~新庄駅間が開業する
・1903年(明治36)10月1日 秋田駅~和田駅間が開業する
・1904年(明治37)8月21日 和田駅~神宮寺駅間が開業する
・1904年(明治37)10月21日 新庄駅~院内駅間が開業する
・1904年(明治37)12月21日 神宮寺駅~大曲駅間が開業する
・1905年(明治38)6月15日 大曲駅~横手駅間が開業する
・1905年(明治38)7月5日 院内駅~湯沢駅間が開業する
・1905年(明治38)9月14日 湯沢駅~横手駅間が開業し、福島駅~青森駅間が全通する
・1909年(明治42)10月12日 国有鉄道線路名称制定により、福島駅~青森駅間を奥羽本線とする
・1949年(昭和24)4月29日 福島駅~米沢駅間が直流電化される
・1968年(昭和43)9月8日 山形駅~北山形駅間が複線化、山形駅~羽前千歳駅間が交流電化に変更される
・1968年(昭和43)9月22日 庭坂駅~赤岩駅間、大沢駅~関根駅間が複線化、福島駅~米沢駅間が交流電化に変更される
・1968年(昭和43)9月23日 上ノ山駅(現在のかみのやま温泉駅)~蔵王駅間が複線化、米沢駅~山形駅間が交流電化される
・1975年(昭和50)10月13日 羽前千歳駅~秋田駅間が交流電化、これにより全線電化が完成する
・1987年(昭和62)4月1日 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道に承継、同時に日本貨物鉄道が全線の第二種鉄道事業者となる
・1992年(平成4)7月1日 山形新幹線が開業、福島駅~山形駅間に「山形線」の愛称が名付けられる
・1997年(平成9)3月22日 秋田新幹線が開業(大曲駅~秋田駅間上り線が改軌、神宮寺駅~峰吉川駅間下り線が三線軌化)する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1590年(天正18)日本画家狩野永徳の命日(新暦10月12日)詳細
1643年(寛永20)江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母春日局の命日(新暦10月26日)詳細
1947年(昭和22)カスリーン台風が来襲し甚大な被害をもたらし始める詳細
2007年(平成19)日本画家高山辰雄の命日詳細


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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄(昭和電工事件)で、福田赳夫大蔵省主計局長が10万円の収賄容疑で逮捕された日です。
 昭和電工事件(しょうわでんこうじけん)は、復興金融金庫から昭和電工株式会社への融資にからむ政官界への贈収賄事件で、昭電疑獄とも呼ばれてきました。昭和電工は森コンツェルンの重要な総合的化学工業会社でしたが、戦災のため中心の川崎工場が壊滅的な打撃を受け、その設備拡充のため、1948年(昭和23)までに復興金融金庫から約26億4千万円の融資を受けています。
 この利権を手にするため日野原らは約1億円に上る金品を政府高官・復金幹部らに贈りました。同年4月27日に、野党の民主自由党は衆議院不当財産取引委員会で倒閣をねらってその不正を暴露したため政治問題化します。
 5月に警視庁捜査二課が昭電本社を捜索した証拠書類を押収、1948年(昭和23)6月23日に、当時の昭和電工社長日野原節三と興業銀行副総裁二宮善基が検挙されました。9月13日には福田赳夫大蔵省主計局長を10万円の収賄容疑で逮捕、9月18日には大野伴睦民自党顧問が20万円の収賄容疑で逮捕、9月30日には栗栖赳夫経済安定本部総務長官が30万円と他の収賄容疑で逮捕、10月6日には西尾末広前副総理(社会党書記長)が100万円の収賄容疑で逮捕と政治家の逮捕が続きます。
 このため、10月7日に芦田内閣は総辞職に追い込まれまれ、民主自由党の吉田茂内閣の成立をもたらしました。12月6日には、衆議院本会議で芦田、北浦圭太郎、川橋豊治郎の3氏に対する逮捕請求が20票の差で許諾され、翌日に芦田均前首相らの逮捕となります。
 総逮捕者数は64名に及び、内37名が起訴されましたが、他は不起訴処分となりました。1952年(昭和27)に一審判決が出され、1958~59年(昭和33~34)に控訴審判決が出、1962年(昭和37)4月13日に最高裁で日野原元社長に懲役1年(執行猶予5年)の確定判決、同年11月に栗栖の懲役8ヶ月(執行猶予1年)追徴金150万円が確定します。
 事件発生以来14年半の時日を要しましたが、日野原、栗栖らが有罪(執行猶予)となったのみで、収賄側の他の政治家は政治資金と考え、賄賂と認識しなかったとしていずれも無罪となり、結局実刑を受けた者は1人も出ないことになりました。尚、事件の背景には連合国最高司令部(GHQ)内のGS(民政局)とG2(幕僚情報局)との対立もあり、検察内の対立もからんだ事件とされています。

〇昭和電工事件の推移

<1948年(昭和23)>
・4月27日 野党の民主自由党は衆議院不当財産取引委員会で倒閣をねらってその不正を暴露し政治問題化する
・5月 警視庁捜査二課が昭電本社を捜索した証拠書類を押収する
・6月23日 当時の昭和電工社長日野原節三と興業銀行副総裁二宮善基が検挙される
・9月13日 福田赳夫大蔵省主計局長を10万円の収賄容疑で逮捕される
・9月18日 大野伴睦民自党顧問が20万円の収賄容疑で逮捕される
・9月30日 栗栖赳夫経済安定本部総務長官が30万円と他の収賄容疑で逮捕される
・10月6日 西尾末広前副総理(社会党書記長)が100万円の収賄容疑で逮捕される
・10月7日 芦田内閣は総辞職に追い込まれまれる
・10月15日 民主自由党の第2次吉田茂内閣の成立をもたらす
・12月6日 衆議院本会議で芦田、北浦圭太郎、川橋豊治郎の3氏に対する逮捕請求が20票の差で許諾される
・12月7日 芦田均前首相らの逮捕となる

<1952年(昭和27)>
・一審判決が出される

<1958~59年(昭和33~34)>
・控訴審判決が出される、

<1962年(昭和37)>
・4月13日 最高裁で日野原元社長に懲役1年(執行猶予5年)の確定判決が出される
・11月 栗栖の懲役8ヶ月(執行猶予1年)追徴金150万円が確定する

☆戦後の政治家がかかわった主要な汚職事件(贈収賄・利益供与など)

・1947年(昭和22) - 炭鉱国管疑獄
・1948年(昭和23) - 昭和電工事件
・1954年(昭和29) - 造船疑獄
・1954年(昭和29) - 日興連汚職事件
・1957年(昭和32) - 売春汚職事件
・1961年(昭和36) - 武州鉄道汚職事件
・1965年(昭和40) - 東京都議会黒い霧事件
・1965年(昭和40) - 九頭竜川ダム汚職事件
・1966年(昭和41) - 田中彰治事件
・1966年(昭和41) - 共和製糖事件
・1967年(昭和42) - 大阪タクシー汚職事件
・1968年(昭和43) - 日通事件
・1976年(昭和51) - ロッキード事件
・1979年(昭和54) - ダグラス・グラマン事件
・1980年(昭和55) - KDD事件
・1986年(昭和61) - 撚糸工連事件
・1988年(昭和63) - リクルート事件
・1991年(平成3) - 共和汚職事件
・1992年(平成4) - 東京佐川急便事件
・1993年(平成5) - ゼネコン汚職事件
・2000年(平成12) - KSD事件
・2000年(平成12) - 若築建設事件
・2001年(平成13) - 中洲カジノバー汚職事件
・2002年(平成14) - 鈴木宗男事件
・2004年(平成16) - 日歯連・中医協汚職事件

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1733年(享保18)蘭学医杉田玄白の誕生日(新暦10月20日)詳細
1955年(昭和30)東京・立川基地拡張の強制測量で反対地元同盟・支援労組・学生と警官隊が衝突する(砂川闘争詳細
1975年(昭和50)版画家棟方志功の命日詳細
2007年(平成19)国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択される詳細


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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、日本画家堅山南風の生まれた日です。
 堅山南風(かたやま なんぷう)は、熊本県熊本市で、父・武次郎、母・シゲの三男として生まれましたが、本名は熊次(くまじ)と言いました。1888年(明治21)に母、1893年(明治26)に父を亡くし、以後祖父によって養育されます。
 1904年(明治37)に破産により代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓、9月に祖父武八が亡くなりました。1906年(明治39)頃に地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事、1909年(明治42)に上京し「南風」の号を自ら選び、歴史画家高橋広湖の門に入ります。
 翌年に巽画会に絵巻物「風の往来」を出品して三等褒賞を受けましたが、文展には4年連続して落選しました。1913年(大正2)に巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞、「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受けます。
 翌年に横山大観に師事、「日和つづき」を第1回院展に出品し入選しました。1916年(大正5)から荒井寛方のインド旅行にでかけ、翌年に帰国、1921年(大正10)に織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成、1924年(大正13)には、日本美術院同人に推挙されます。
 1926年(大正15)に東京府美術院評議員に任命され、「魚楽図連作」(1926年)、「夏題十趣」(1927年)、「銷夏帖連作」(1929年)、「射翠帖連作」(1934年)などを発表しました。1940年(昭和15)に前年度院展出品作「千里壮心」が第1回西日本文化賞に選ばれましたが、太平洋戦争末期に空襲が激しくなると、1945年(昭和20)6月には、横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開します。
 太平洋戦争後は、日展にも出品するようになり、1946年(昭和21)に日展審査員、1955年(昭和30)には日展運営会参事ともなりました。1958年(昭和33)に芸術院会員、1963年(昭和38)に文化功労者、1964年(昭和39)に勲三等旭日中綬章、1968年(昭和43)には文化勲章と数々の栄誉にも輝きます。
 鯉をはじめとする花鳥画などにすぐれ、晩年になっても、日光山輪王寺薬師堂の鳴竜の天井画を復原したり、1975年(昭和50)にタヒチへ写生旅行に行ったりしていたものの、1980年(昭和55)12月30日に静岡県田方郡の別荘において、93歳で亡くなりました。

〇堅山南風の主要な作品

・『霜月頃』(1913年)第7回文展二等賞
・『魚楽図連作』(1926年)
・『夏題十趣』(1927年)
・『銷夏帖連作』(1929年)
・『O氏像(奥村土牛)』(1929年)
・『M先生(武者小路実篤)』(1932年)
・『大観先生』(1932年)
・『射翠帖連作』(1934年)
・『白雨』(1951年)東京国立近代美術館蔵
・『応接間の人』(1958年)東京国立近代美術館蔵
・『静子夫人』(1960年)
・『K先生』(1964年)
・日光山輪王寺薬師堂天井画『鳴竜』(1968年)
・『新涼の客(汀女(ていじょ)さん)』(1969年)

☆堅山南風関係略年表

・1887年(明治20)9月12日 熊本県熊本市で、父・武次郎、母・シゲの三男として生まれる
・1888年(明治21)8月1日 母・シゲが落雷のため不慮の死をとげる
・1893年(明治26)5月21日 父・武次郎が病没、以後祖父に養育される
・1894年(明治27)4月 熊本市立壷川小学校に入学する
・1898年(明治31)3月 壷川小学校を卒業、4月に高木高等小学校に入学する
・1903年(明治36) 熊本市物産館で開催された橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら20数人出品の日本美術院巡回展を見、朦朧派の新しい画風に心酔する
・1904年(明治37) 破産し、代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓する、9月に祖父武八が亡くなる
・1906年(明治39)頃 地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事する
・1909年(明治42)5月3日 上京し「南風」の号を自ら選び、神風の紹介で、熊本山鹿出身の歴史画家高橋広湖の門に入る
・1910年(明治43)3月 第11回巽画会に「往来」を出品し三等褒賞を受ける
・1911年(明治44) 生活の窮状を見かねた師広湖が、『報知新聞』連載小説「徳川栄華物語」の挿絵を代筆させ、月30円の手当てを与える
・1912年(明治45) 巽画会出品の「路辺」が一等褒状を受賞する
・1913年(大正2) 巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞、「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受ける
・1914年(大正3) 横山大観に師事、「日和つづき」を第1回院展に出品し入選する
・1915年(大正4)3月 佐藤光(のち、三栄と改名)と結婚、第2回院展に労働者の群像を描いた「作業」を出品し、入選する
・1916年(大正5)11月25日 荒井寛方のインド旅行に便乗して海路カルカッタに向かう
・1917年(大正6)4月 帰国する
・1920年(大正9) 健康恢復と気分転換を図るため、弓道を始める
・1921年(大正10)10月 織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成する
・1924年(大正13)3月 日本美術院同人に推挙される
・1926年(大正15) 東京府美術院評議員に任命される
・1936年(昭和11)頃 俳句を作り始め、武蔵野吟社に入社する
・1940年(昭和15)4月 前年度院展出品作「千里壮心」が第1回西日本文化賞に選ばれる
・1945年(昭和20)6月 横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開する
・1946年(昭和21) 日展審査員となる
・1955年(昭和30) 日展運営会参事となる
・1956年(昭和31) 熊本県文化功労者に推挙される
・1958年(昭和33) 芸術院会員となる
・1963年(昭和38) 文化功労者となる
・1964年(昭和39) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1968年(昭和43) 文化勲章を受章、日光山輪王寺薬師堂の鳴竜の天井画を復原する
・1969年(昭和44) 熊本市名誉市民となる
・1975年(昭和50) タヒチへ写生旅行する
・1980年(昭和55)12月30日 静岡県田方郡の別荘において、93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細


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 今日は、奈良時代の764年(天平宝字8)に、孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚した日ですが、新暦では10月10日となります。
 藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代に藤原仲麻呂(恵美押勝)が、道鏡を除こうとしておこした反乱で、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)とも呼ばれてきました。760年(天平宝字4)に藤原仲麻呂を庇護してきた光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が亡くなると、道鏡を寵愛する孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)と、藤原仲麻呂が擁立した淳仁天皇(じゅんにんてんのう)との関係が険悪化します。
 762年(天平宝字6)には、太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至りました。764年(天平宝字8)に、太上天皇と天皇の間にもすきが生まれたのを契機として、仲麻呂は太上天皇側に対して反乱を企てようと考え、9月に都督使に任じられた機に、正規の30倍もの兵士を動員しようとします。
 これを高丘比良麻呂 (たかおかのひらまろ) に密告され、同月11日に天皇の居所にあった天皇権力の象徴である鈴印を太上天皇側に奪われ、仲麻呂は近江へ逃走しました。しかし、太上天皇側の派遣した討伐軍に近江高島郡に追いつめられて敗れ、同月18日に斬殺されて乱は鎮圧されます。
 乱後は、道鏡が大臣禅師に任じられて政権を掌握し、淳仁天皇は廃位ののち淡路に配流され、孝謙太上天皇が称徳天皇(しょうとくてんのう)として重祚します。
 以下に、このことを記した『続日本紀』巻第二十五の天平宝字8年9月の条を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第二十五の天平宝字八年九月の条

乙巳。太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄。高野天皇遣少納言山村王。收中宮院鈴印。押勝聞之。令其男訓儒麻呂等邀而奪之。天皇遣授刀少尉坂上苅田麻呂。將曹牡鹿嶋足等。射而殺之。押勝又遣中衛將監矢田部老。被甲騎馬。且刧詔使。授刀紀船守亦射殺之。勅曰。太師正一位藤原惠美朝臣押勝并子孫。起兵作逆。仍解免官位。并除藤原姓字已畢。其職分功封等雜物。宜悉收之。即遣使固守三關。」授從三位藤原朝臣永手正三位。正四位下吉備朝臣眞備從三位。正五位下藤原朝臣繩麻呂從四位下。正七位上大津連大浦從四位上。從七位上牡鹿連嶋足。正六位上坂上忌寸苅田麻呂。外從五位下粟田朝臣道麻呂。從六位下中臣伊勢連老人。從八位上弓削宿祢淨人。外從五位下高丘連比良麻呂。正五位上日下部宿祢子麻呂並從四位下。從七位下紀朝臣船守從五位下。正七位上民忌寸総麻呂外從五位下。」弓削宿祢淨人賜姓弓削御淨朝臣。中臣伊勢連老人中臣伊勢朝臣。大津連大浦大津宿祢。牡鹿連嶋足牡鹿宿祢。坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸。是夜。押勝走近江。官軍追討。

<読み下し文>

乙巳[1]。太師藤原の惠美の朝臣押勝[2]逆謀[3]頗る泄る。高野の天皇[4]少納言山村の王[5]を遣して、中宮院[6]の鈴印[7]を收めしむ。押勝之を聞て、其の男訓儒麻呂[8]等をして邀へて之を奪は令む。天皇授刀[9]の少尉坂上の苅田麻呂、將曹[10]の牡鹿の嶋足等を遣して、射て之を殺さしむ。押勝又中衛[11]の將監矢田部の老を遣して、甲を被馬に騎て、且ち詔使[12]を刧かす、授刀[9]紀の船守をして亦之を射殺さしむ。勅して曰く。「太師正一位藤原の惠美の朝臣押勝并に子孫、兵を起して逆を作す。仍て官位を解免[13]し、并に藤原姓の字を除くことを已に畢しぬ。其の職分[14]功封[15]等雜物[16]。宜く悉く之を收むべし。」即ち使を遣して固く三關[17]を守らしむ。從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授く。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣と賜ふ。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸。」是夜。押勝近江に走る。官軍追討[18]す。

【注釈】

[1]乙巳:おっし=十干と十二支とを組み合わせたものの第四二番目。ここでは、9月11日のこと。
[2]太師藤原の惠美の朝臣押勝:たいしふじわらのえみのあそんおしかつ=太政大臣藤原仲麻呂のこと。
[3]逆謀:ぎゃくぼう=謀反のはかりごと。反逆のたくらみ。謀逆。
[4]高野の天皇:たかぬのすめらみこと=孝謙天皇(称徳天皇)のこと。
[5]少納言山村の王:しょうなごんやまむらのおう=奈良時代の皇族で用明天皇の皇子であった山村王のこと。
[6]中宮院:ちゅうぐういん=禁中。内裏。御所。
[7]鈴印:れんいん=天皇権力の象徴である駅鈴と御璽。
[8]訓儒麻呂:くずまろ=藤原仲麻呂の息子、藤原久須麻呂のこと。
[9]授刀:たちはき=太刀を帯びること。また、その人。帯刀の舎人(とねり)の略。
[10]將曹:しょうそう=近衛府(このえふ)の主典(さかん)。正七位下相当。
[11]中衛:ちゅうえい=中衛府の兵士。〔
[12]詔使:しょうし=詔書を諸国、諸司に伝達するために派遣された使者。ここでは山村王のこと。
[13]解免:げめん=解官と免官の総称。
[14]職分:しきぶん=官職に対して給される田地、職分田のこと。
[15]功封:こうふ=親王の一品以下、臣下の五位以上の国家に功労のあった者に与えられた封戸。
[16]雜物:ぞうもつ=種々雑多なもの。また、いろいろな財物。雑具。
[17]三關:さんかん=古代の三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)。
[18]追討:ついとう=賊などを追いかけてうちとること。討手(うって)をさしむけて征伐すること。追伐。

<現代語訳>

 9月11日。太政大臣藤原仲麻呂の反逆のたくらみがたいそう漏洩した。孝謙上皇(称徳天皇)は少納言山村王を派遣して、淳仁天皇の御所の天皇権力の象徴である駅鈴と御璽を回収させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はこれを聞いて、その息子藤原久須麻呂等をして待ち伏せさせてこれを奪わせた。天皇は授刀の少尉坂上の苅田麻呂、將曹の牡鹿の嶋足等を派遣して、これを射殺させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はまた中衛の將監矢田部の老を派遣、甲冑を着け馬に乗って、すなわち派遣された使者(山村王)を脅かす。授刀紀の船守はまたこれを射殺した。
 勅して言うことには、「太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)ならびにその子や孫は、兵を起して反逆を成した。よって官位を剥奪し、ならびに藤原姓の字を除くことをすでに処置した。その職分田や封戸等からのいろいろな財物をことごとくこれを収公すること。」。
 ただちに使者を派遣して、固く三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)を守らせた。
 從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授けた。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣を賜った。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸を賜った。
 この夜、藤原仲麻呂(恵美押勝)は近江に逃走し、官軍が追討する。

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