今日は、奈良時代の785年(延暦4)に、長岡京造営中に藤原種継暗殺事件が起きた日ですが、新暦では10月30日となります。
藤原種継(ふじわら の たねつぐ)は、奈良時代の737年(天平9)に、奈良平城京で、式家藤原清成の長男(母は秦朝元の娘)として生まれたとされてきました。称徳天皇の時代の766年(天平神護2)に、従六位上から五階特進して従五位下へ叙爵し、768年(神護景雲2)には、美作守となります。
叔父百川らの尽力によって光仁天皇が即位すると、774年(宝亀5)に従五位上、翌年に近衛少将となり、777年(宝亀8)には、正五位下に昇叙しました。その後も順調に昇進し、780年(宝亀11)に正五位上、781年(天応元)に従四位下、781年(天応元年)には従四位上となります。
782年(延暦元年)に桓武天皇が即位すると、氷上川継の乱や三方王による天皇呪詛事件が起きましたが、その解決の功により、桓武天皇の信任を得て、参議に昇進しました。782年(延暦元)に正四位下となり、翌年には、右大臣・藤原田麻呂が没して種継が式家の代表になります。
それからも、783年(延暦2)に従三位、式部卿兼近江按察使となり、翌年には中納言にまで昇りました。784年(延暦3)に種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議、桓武天皇の勅命で長岡の地を視察後、造長岡宮使となります。
造営工事を進捗させ、11月には桓武天皇が平城宮から長岡宮へ移り、その功で正三位にまでなりました。しかし、皇太子早良親王と不和になり、遷都反対派の大伴継人(つぐひと)らに妬まれるようになります。
そして、785年(延暦4)の天皇の奈良行幸の留守、9月23日に造営工事監督中に、春宮坊の役人や大伴氏の陰謀により、矢を射かけられ(藤原種継暗殺事件)、翌日数え年49歳で亡くなりました。その結果、大伴・佐伯氏ら数十人が処罰され、早良親王が皇太子を廃され、平安京への再遷都の一因になったとされています。
尚、没後正一位・左大臣が追贈され、809年(大同4)には、太政大臣も追贈されました。
以下に、藤原種継暗殺事件のことを記した『続日本紀』巻第三十八(桓武紀三)延暦4年の条の該当部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『続日本紀』巻第三十八(桓武紀三)延暦4年(785年)の条
<原文>
乙夘。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種繼被賊射薨。
丙辰。車駕至自平城。捕獲大伴繼人。同竹良并黨与數十人。推鞫之。並皆承伏。依法推斷。或斬或流。其種繼參議式部卿兼大宰帥正三位宇合之孫也。神護二年。授從五位下。除美作守。稍迁。寳龜末。補左京大夫兼下総守。俄加從四位下。遷佐衛士督兼近江按察使。延暦初。授從三位。拜中納言。兼式部卿。三年授正三位。天皇甚委任之。中外之事皆取决焉。初首建議。遷都長岡。宮室草創。百官未就。匠手役夫。日夜兼作。至於行幸平城。太子及右大臣藤原朝臣是公。中納言種繼等。並爲留守。照炬催検。燭下被傷。明日薨於第。時年卌九。天皇甚悼惜之。詔贈正一位左大臣。
<読み下し文>
乙夘[1]。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継[2]、賊に射られて薨しぬ[3]。
丙辰[4]。車駕[5]、平城[6]より至りたまふ。大伴継人[7]、同じく竹良[8]并せて党与数十人を捕獲して推鞫[9]するに、並に皆承伏[10]す。法に依りて推断[11]して、或いは斬し或いは流す[12]。その種継は参議式部卿兼大宰帥正三位宇合の孫なり。神護二年、従五位下を授けられ、美作守に除せらる。稍遷りて[13]、宝亀の末[14]に左京大夫兼下総守に補せられ、俄に[15]従四位下を加えられ、佐衛士督兼近江按察使に遷さる。延暦の初[16]、従三位を授けられ、中納言を拝し、式部卿を兼ぬ。三年、正三位を授けらる。天皇、甚だこれを委任して[17]、中外[18]の事皆決を取る。初め、首として議を建てて都を長岡に遷さむ[19]とす。宮室[20]草創[21]して、百官[22]未だ就らず、匠手[23]・役夫[24]、日夜に兼作す[25]。平城[6]に行幸[26]したまふに至りて、太子[27]と右大臣藤原朝臣是公[28]、中納言種継らと並に留守と為り。灯りを照らして催し検るに、燭下[29]に傷を被ひて、明日第[30]に薨しぬ[3]。時に年四十九。天皇、甚だ悼み[31]惜しみたまひて、詔して[32]正一位左大臣を贈りたまふ。
【注釈】
[1]乙夘:きのとう=干支の組み合わせの52番目で、この場合は9月23日のこと。
[2]藤原朝臣種繼:ふじわらのあそんたねつぐ=中納言正三位造長岡宮使の藤原種継のこと。
[3]薨しぬ:こうしぬ=死んでしまった。亡くなってしまった。
[4]丙辰:ひのえたつ=干支の組み合わせの53番目で、この場合は9月24日のこと。
[5]車駕:しゃが=天皇が行幸するときに乗る車。また、その行幸。
[6]平城:へいじょう=奈良の平城京のこと、この時桓武天皇が行幸していた。
[7]大伴継人:おおとものつぐひと=奈良時代の官人。左大弁古麻呂の子。
[8]竹良:たけら=大伴竹良のこと、大伴継人の兄弟。
[9]推鞫:すいきく=罪人などを取り調べること。吟味。推問。訊問。
[10]承伏:しょうふく=承知して従うこと。納得して従うこと。また、犯した罪を認め判決に従うこと。
[11]推断:すいだん=推定。
[12]流す:ながす=流罪に処する。
[13]稍遷りて:ややうつりて=少しの間移り変わって。しばらく変遷して。しばらくたって。
[14]宝亀の末:ほうきのすえ=宝亀年間(770~782年)の終わり頃。
[15]俄に:にわかに=突然に。急に。すぐに。
[16]延暦の初:えにりゃくのはじめ=延暦年間(782~806年)の初め頃。
[17]委任して:いにんして=仕事などを、他人にまかせて。委託して。
[18]中外:ちゅうがい=国内と国外。内政と外交。
[19]都を長岡に遷さむ:みやこをながおかにうつさむ=平城京から長岡京へ遷都すること。
[20]宮室:きゅうしつ=天皇の住む宮殿。
[21]草創:そうそう=創始。創業。
[22]百官:ひゃっかん=数多くの官。もろもろの役人。中央、地方の多くの役人。またぱ役所。
[23]匠手:しょうしゅ=中務省の内匠寮に属し、殿舎の修繕・調度の製作などにたずさわった下級の技術官人。
[24]役夫:えきふ=古代、徭役 (ようえき) に従事した人。
[25]日夜に兼作す:にちやにけんさくす=昼夜を問わず工事する。日夜ぶっ通しで工事する。
[26]行幸:ぎょうこう=天皇が皇居を出て、よそへ行くこと。
[27]太子:たいし=皇太子の早良親王のこと。
[28]藤原朝臣是公:ふじわらのあそんこれきみ=奈良時代の貴族。藤原武智麻呂の第4子乙麻呂の長男。
[29]燭下:しょくか=灯火の下。
[30]第:だい=りっぱな家。やしき。邸宅。
[31]悼み:いたみ=人の死を悲しみ嘆くこと。
[32]詔して:しょうして=天皇の命令を直接伝える文書によって。
<現代語訳>
(延暦4年)9月23日。中納言・正三位で式部卿を兼ねる藤原朝臣種継は、賊に射られて亡くなった。
9月24日。天皇が行幸するときに乗る車は、平城京より到着した。大伴継人、大伴竹良ならびに徒党数10人を捕獲して取り調べたところ、そろって皆が犯した罪を認め判決に従った。法によって裁定して、あるいは斬首刑あるいは流刑とした。その種継は参議・式部卿で大宰帥を兼ねた正三位の藤原朝臣宇合の孫である。天平神護2年(766年)に従五位下を授けられ、美作守に除せられた。しばらくたって、宝亀年間(770~782年)の終わり頃に左京大夫兼下総守に任じられ、すぐに従四位下を加えられ、佐衛士督兼近江按察使に転任した。延暦年間(782~806年)の初め頃、従三位を授けられ、中納言を拝命し、式部卿を兼ねた。延暦3年(784年)に、正三位を授けられた。天皇は、とてもこれを信頼して任せ、内政と外交の事をみな決定した。初め、種継がリーダーとして建議をし、平城京から長岡京へ遷都しようとした。天皇の住む宮殿を創建したものの、諸々の役所はまだ出来上がらず、技術官人・徭役従事者は、昼夜を問わず工事をした。天皇が平城京に行幸することになり、皇太子の早良親王と右大臣藤原朝臣是公、中納言種継らがともに留守官となった。夜も灯りを照らして造営工事を検分していたところ、灯火の下で傷を負い、翌日邸宅において亡くなった。その時49歳で、天皇は、とても死を悲しみ嘆き惜しんで、勅命によって正一位・左大臣を追贈した。
☆藤原種継関係略年表(日付は旧暦です)
・737年(天平9) 奈良平城京で、式家藤原清成の子(母は秦朝元の娘)として生まれる
・766年(天平神護2年11月5日) 従五位下となる
・768年(神護景雲2年2月18日) 美作守となる
・771年(宝亀2年閏3月1日) 兼紀伊守となる
・771年(宝亀2年9月16日) 兼山背守となる
・774年(宝亀5年1月7日) 従五位上となる
・775年(宝亀6年9月27日) 近衛少将となる
・777年(宝亀8年1月10日) 正五位下となる
・778年(宝亀9年2月23日) 左京大夫となる
・780年(宝亀11年3月17日) 兼下総守となる
・780年(宝亀11年12月11日) 正五位上となる
・781年(天応元年1月16日) 従四位下となる
・781年(天応元年4月15日) 従四位上となる
・781年(天応元年5月25日) 兼近江守となる
・781年(天応元年7月10日) 左衛士督となる
・782年(延暦元年閏1月) 氷上川継の乱が起きる
・782年(延暦元年3月) 三方王による天皇呪詛事件が起きる
・782年(延暦元年3月26日) 参議となる
・782年(延暦元年4月) 桓武天皇の詔により造宮省が廃止される
・782年(延暦元年6月21日) 正四位下となる
・783年(延暦2年3月) 右大臣・藤原田麻呂が没して種継が式家の代表になる
・783年(延暦2年4月18日) 従三位となる
・783年(延暦2年7月25日) 式部卿兼近江按察使となる
・784年(延暦3年1月16日) 中納言となる
・784年(延暦3年) 種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議する
・784年(延暦3年5月16日) 桓武天皇の勅命で長岡の地を視察する
・784年(延暦3年6月10日) 造長岡宮使となる
・784年(延暦3年11月11日) 桓武天皇が平城宮から長岡宮へ移る
・784年(延暦3年12月2日) 正三位となる
・785年(延暦4年9月23日) 長岡京造宮現場で矢を射かけられる(藤原種継暗殺事件)
・785年(延暦4年9月24日) 矢傷がもとで数え年49歳で亡くなり、正一位・左大臣が追贈される
・809年(大同4年4月12日) 太政大臣が追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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