ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年08月

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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、日本画家・南画家小室翠雲の生まれた日です。
 小室翠雲(こむろ すいうん)は、栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)で、呉服商を営む小室牧三郎の長男として生まれましたが、本名は貞次郎(ていじろう)と言いました。父は風流を好み、文人墨客との交友が多く、渓村と号して画を描いていて、幼い頃から画技の初歩や書法、詩文、俳句などを学ばされます。
 1887年(明治20)に小学校中等科を中退して上京、印刷見習工として働きましたが、1年余りで帰郷しました。1889年(明治22)に田崎草雲に師事し、南画を学んだものの、1898年(明治31)に草雲が没すると、翌年には上京して南画会に加わり、貧苦の中でも独学で中国画を学びます。
 1907年(明治40)の文展開設に際し、高島北海、荒木十畝らと正派同志会を結成し文展新派に対抗しました。翌年の第2回文展で「青山白雲」が3等賞となり、以来毎年入賞、1914年(大正3)には、文展審査員となります。
 1919年(大正8)に帝展審査員となり、1921年(大正10)に田近竹邨、矢野橋林らと日本南画院を創立、翌年(大正11)には、中国に渡航しました。1923年(大正12)に京橋の自宅で関東大震災にあいましたが、南画壇の発展のために活動し、1924年(大正13)には帝国美術院会員ともなります。
 1931年(昭和6)にドイツのベルリン日本画展に代表として渡欧、1934年(昭和9)に高島屋で、翌年には三越で個展を開きました。1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1941年(昭和16)には、大東南宗院を設立します。1944年(昭和19)には帝室技芸員となったものの、翌年3月30日に数え年72歳で亡くなりました。

〇小室翠雲の主要な著作

<絵画>

・『山海の図』(1908年)第4回文展2等賞
・『寒林幽居』(1913年)第7回文展2等賞
・『逍遥』(1914年)第8回文展出品
・『南航北馬』(1921年)第3回帝展出品
・『海寧観潮』(1922年)第4回帝展出品
・『広寒宮』(1925年)第6回帝展出品
・『周濂渓』(1927年)第8回帝展出品
・『田家新味』(1930年)第11回帝展出品
・『承徳佳望』(1934年)第15回帝展出品

<著書>

・『南画新論』
・『翠雲随筆』

☆小室翠雲関係略年表

・1874年(明治7)8月31日 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)で、呉服商を営む小室牧三郎の長男として生まれる
・1887年(明治20) 小学校中等科を中退して上京、印刷見習工として働く
・1888年(明治20) 1年余りで帰郷する
・1889年(明治22) 田崎草雲に師事する
・1898年(明治31) 師の田崎草雲が没する
・1899年(明治32) 上京して南画会に加わる
・1907年(明治40) 文展開設に際し、正派同志会を結成し文展新派に対抗する
・1908年(明治41) 第2回文展で「青山白雲」が3等賞となる
・1908年(明治42) 第3回文展で「雪中山水」が3等賞となる
・1908年(明治43) 第4回文展で「山海の図」が2等賞となる
・1908年(明治44) 第5回文展で「春景山水」「秋景山水」が3等賞となる
・1908年(大正元) 第6回文展で「四時佳興」が3等賞となる
・1913年(大正2) 第7回文展で「寒林幽居」が2等賞となる
・1914年(大正3) 文展審査員となる
・1919年(大正8) 帝展審査員となる
・1921年(大正10) 田近竹邨、山田介堂、池田桂仙、山田竹圃、矢野橋村等と日本南画院を創立する
・1922年(大正11) 中国に渡航する
・1923年(大正12) 京橋の自宅で関東大震災にあう、粉杢切を焼く、後焼け残つた蔵幅を売り立てて崇文院叢書刊行会をかく
・1924年(大正13) 帝国美術院会員
・1926年(大正15) 正5位に叙せられる
・1928年(昭和3) 大礼記念章が授与される
・1931年(昭和6) ドイツ日本画展に代表として渡欧する
・1934年(昭和9) 高島屋で個展を開く
・1935年(昭和10) 三越で個展を開く、日本南画院が解散する
・1936年(昭和11)11月 南画連盟が結成される 
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となる
・1940年(昭和15)5月 小室翠雲心印画塾を創立する
・1941年(昭和16)8月 翠雲が代表となり大東南宗院を創設する
・1942年(昭和17) 三越で個展を開く
・1944年(昭和19)7月1日 帝室技芸員となる
・1945年(昭和20)3月30日 数え年72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1896年(明治29)陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細


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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、明治新政府から「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出され、下人(下男)の取り扱いの是正、商業兼業の許可、田畑勝手作の推進などを通達した日ですが、新暦では10月2日となります。
 「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」は、明治維新の改革を進める明治新政府によって出された、各地の土地の因習旧慣を是正するための大蔵省達(第118号)でした。計画されていた地租改正にともなう租税の金納化に備えた措置としての田畑勝手作の推進、土地所有者の特定、商業兼業の許可などであり、下人(下男)の取り扱いの是正も達せられます。
 その後、地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「上諭」と「太政官布告第272号」、「地租改正条例」を発し、①課税標準を従来の収穫量から地価に改める、②税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、③物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものとなりました。
 以下に、「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)を現代語訳・注釈付で、全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)明治5年8月30日

「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)

從前土地ノ風俗[1]ニ因リ舊慣[2]ヲ私法[3]トナシ候類間々有之祖先ノ代々召仕候者ヘ地所ヲ付與致シ候分其子孫ニ至ル迄家抱[4]杯ト唱ヘ家來[5]同樣ノ扱ヒニ致シ一村ノ者同輩[6]ニ見倣サス或ハ他ヨリ人材スル者ハ水吞[7]ト唱ヘ是亦同輩[6]ノ交リ不致等ノ類間々有之人民協和交際ノ道ニ相背キ候間右等舊習[8]ヲ以家格[9]相立候儀堅ク可令禁止事
古來荒蕪[10]ノ地ヲ拓キ一村ヲ取立[11]候モノ之ヲ草分ケ[12]ト號ケ[13]舊家タルノ故ヲ以テ他人ヲ輕蔑致シ往々非義[14]ノ擧動[15]致シ候者有之趣最眼先ノ功績ニ誇今日ニ至リ他人ヲ凌クヘキノ理無之候間自今[16]右等ノ唱令禁止暴慢[17]ノ所業致スヘカラサル事
農業ノ傍商業ヲ相營ミ候儀禁止致シ候向モ有之候處自今勝手[18]タルヘキ事
人民所持地所ノ內自他[19]ノ都合ニ依リ池沼川溝等ヲ堀割或ハ道路ヲ附替イタシ候儀自今[16]都テ[20]出願ノ上指揮ヲ受ヘキ事
無願[21]ニシテ社寺(地藏堂稻荷ノ類)創立致シ候儀從前ノ通禁制タルヘキ事
入民所持ノ耕地畔際ヘ擅ニ[22]遺骸ヲ埋葬致シ候者有之趣以ノ外ノ事ニ候自今可爲嚴禁事
河岸場[23]ノ儀新規相成候儀差止候向モ有之候處自今[16]願次第吟味[24]ノ上可差許事
不定地年季[25]ヲ定メ割替[26]致シ來候向ハ向後持主相定可申立事
田畑勝手作[27]ノ儀既ニ去辛未[28]八月御差許シ有之儀[29]ニテ漸々米作ヲ減シ桑茶漆楮土地ニ相應スル物品或ハ牛馬羊豕ノ牧畜等常々心掛充分物產繁殖[30]ノ方法可相立事
但追々外國ヨリ草木禽獸類勸農寮[31]ヘ相集候上分配試驗可致筈ニ付有志ノ者ハ其筋ヘ可願出事

右條件管轄內無遺漏[32]可相觸事

   「ウィキソース」より

【注釈】

[1]風俗:ふうぞく=生活上のならわし。しきたり。風習。
[2]舊慣:きゅうかん=古くからのならわし。
[3]私法:しほう=為政者の手によらず、民衆が私的につくった法。
[4]家抱:けほう=農村における譜代の下人(下男)。
[5]家來:けらい=主君や主家に仕える者。家臣。従者。
[6]同輩:どうはい=同じ身分のもの。同じ位のもの。仲間。等輩。
[7]水吞:みずのみ=農村に居住し,田畑を所持せず,小作地を耕作して独立の生計を立てていた農民。
[8]舊習:きゅうしゅう=昔からの習慣。古いならわし。旧慣。
[9]家格:かかく=家の格式。家柄。
[10]荒蕪:こうぶ=土地が荒れて雑草などのおい茂ること。また、その土地。未開墾地。
[11]取立:とりたて=仕立て上げる。
[12]草分ケ:くさわけ=土地を切り開いて、そこに村や町を興すこと。また、その人。
[13]號ケ:さけ=叫ぶ。号する。
[14]非義:ひぎ=義理にそむくこと。道理にはずれること。非理。
[15]擧動:きょどう=立ち居振る舞い。動作。
[16]自今:じこん=今から。以後。今後。
[17]暴慢:ぼうまん=乱暴で、人をはばからぬこと。荒々しく自分勝手なこと。
[18]勝手:かって=他人のことはかまわないで、自分だけに都合がよいように振る舞うこと。また、そのさま。
[19]自他:じた=自分と他人。我と人。
[20]都テ:すべて=皆。全部。
[21]無願:むがん=望むことがない。願いなく。
[22]擅ニ:ほしいままに=》思いのままに。自分のしたいように。
[23]河岸場:かしば=船から荷を上げ下ろしする所。
[24]吟味:ぎんみ=物事を念入りに調べること。また、念入りに調べて選ぶこと。
[25]年季:ねんき=物事の期限。契約の期限。
[26]割替:わりかえ=割りなおすこと。分割しなおすこと。
[27]田畑勝手作:たはたかってづくり=田畑に主穀以外の農作物を任意に作ること。
[28]辛未:しんび=十干(じっかん)と十二支とを組み合わせたものの第八番目。
[29]御差許シ有之儀:おんさしゆるしありのぎ=1871年(明治4年9月7日)に出された大蔵省「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」のこと。
[30]繁殖:はんしょく=動物や植物が生まれて増えること。生殖により個体数がふえて再生産が行われること。
[31]勸農寮:かんのうりょう=農業振興を掌る大蔵省の内局。
[32]遺漏:いろう=行為や仕事に、もれや落ちがあること。また、そのもの。

<現代語訳>

「各地の因習旧慣を私法とするなどの禁止の件」(大蔵省118号)

一今まで土地の因習により旧慣を私法とするなどの類が時々有り、あるいは祖先の代に召し仕えた者へ地所を付与したことにより、その子孫に至るまで譜代の下人(下男)だとして、家来同様の扱いにして、一村の者、同輩に見傚させ、あるいは他より入村する者は水呑と呼んで、これまた同輩の交リができない等の類が時々有り、人民の恊和交際の道に相反することなので、右等旧習をもって家格を違えることは堅く禁止すべきこと。

一古来より未開墾地を開拓して一村を形成した者を草分けと称して、旧家であるとの理由をもって、他人を軽蔑し、往々にして道理に外れた挙動をしてきた者などが有り、もっとも祖先の功績を誇リ、今日に至っても他人を凌ぐべき理由が無い場合は、今後は右等のことを禁止し、暴慢の所業をしてはならないこと。

一農業の傍らで商業を兼営することを禁止してきたことがあったところではあるが、今後は勝手にするべきこと。

一人民が所持する地所の内、自分や他人の都合により池・沼・川溝等を掘削あるいは道路を付け替えすることは、今後すべて出願の上で指揮を受けるべきこと。

一無届で社寺[地蔵堂や稲荷の類]を創立することは以前の通り禁止するべきこと。

一人民が所持する耕地や畔際へ死体を埋葬する者がいるが、それはもっての外のことであるので以後はこれを厳禁すること。

一河岸場のことは、新規創設することは差し止めてきたところではあるが、今後は願い次第で検討の上、許可するべきこと。

一土地を定めず期間を定めて割替をしてきたところは、これからは持主を特定して申し立てること。

一田畑に作物を勝手に作ってよいことは、すでに去年8月に許可があったことであり、徐々に米作を減じ桑・茶・漆・楮など相当する物品、あるいは牛・馬・羊・豚の牧蓄等、常々心がけ充分に物産が繁殖できる方法を立てていくこと。
 ただし、追々外国より草木・禽獣の類を大蔵省勧農寮へ集めた上で、分配して試験するので、有志の者はその筋へ願い出るべきこと。

 右条件は管轄內に漏れなく伝えるべきこと。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1900年(明治33)幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載される詳細
1941年(昭和16)金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1863年(文久3)に、江戸幕府が「洋書調所」を「開成所」と改称した日ですが、新暦では10月11日となります。
 開成所(かいせいしょ)は、江戸幕府が設けた洋学研究機関で、「洋書調所」から発展し、東京大学の前身の一つとなりました。1744年(延享元)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が外神田に天文台を建て、1811年(文化8)に天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられて、蘭学等の研究が行われていました。しかし、1853年(嘉永6)に黒船(ペリー艦隊)が来航して開国を要求、翌年に「日米和親条約」が締結される中で、専任の外交担当官と翻訳官が必要となり、蕃書和解御用方が多忙となります。
 蘭学にとどまらない洋学研究の必要が痛感され、1855年(安政2)に御用方は「洋学所」と改めて独立したものの、同年10月2日の安政江戸地震で建物が全壊焼失してしまいました。そこで、1856年(安政3年2月11日)に幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称し、江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に建物を建てることとし、翌年1月18日に開場、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになります。
 同所の役割は、洋書洋文の翻訳・研究、洋学教育、洋書・翻訳書などの検閲、印刷・出版、一部の技術伝習とされ、これを担当する教授方には、箕作阮甫、杉田成卿、松木弘安(のちの寺島宗則)、村田蔵六(のちの大村益次郎)ら著名な洋学者が任ぜられ、生徒数は100人ほどでした。1858年(安政5)からは、藩士の入学も認められるようになり、1860年(万延元)に小川町に移転、英・仏・独の外国語、および精煉・器械・物産・数学などの科学技術部門諸科が次々に開設されていきます。
 1862年(文久2)に一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)の広大な建物に移転し、「洋書調所」と改称してに開校、翌年8月29日には、「開成所」となりました。1864年(元治元)に「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められましたが、1868年(明治元)に幕府が倒れると、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称されます。
 翌年には、大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となり、1877年(明治10)には、東京医学校と統合されて、東京大学が設立されました。

〇開成所関係略年表(日付は旧暦です)

・1744年(延享元年) 徳川吉宗が外神田に天文台を建てる
・1811年(文化8年) 天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられる
・1853年(嘉永6年6月) 黒船(ペリー艦隊)が来航する
・1854年(安政元年3月) 「日米和親条約」締結の中で、蕃書和解御用方が多忙となる
・1855年(安政2年8月30日) 御用方は「洋学所」と改めて独立する
・1855年(安政2年10月2日) 安政江戸地震で全壊焼失する
・1856年(安政3年2月11日) 幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称する
・1856年(安政3年2月13日) 江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立する
・1857年(安政4年1月18日) 開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになる
・1858年(安政5年) 藩士の入学も認められるようになる
・1860年(万延元年) 小川町に移転する
・1860年(万延元年7月) プロシア東洋遠征艦隊来航の際、蕃書調所の市川斎宮が「独逸学」を学ぶ公命を受ける
・1862年(文久2年) 学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り、幕府官立学校となる
・1862年(文久2年) 洋書調所に独逸学科が開設される
・1862年(文久2年5月18日) 一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移転する
・1862年(文久2年5月23日) 「洋書調所」と改称してに開校する
・1863年(文久3年8月29日) 洋書調所を「開成所」に改称する
・1864年(元治元年) 「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められる
・1868年(明治元年) 幕府が倒れ、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称される
・1869年(明治2年12月17日) 大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となる(医学校が大学東校)
・1877年(明治10年) 東京医学校と統合されて、東京大学が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1900年(明治33)洋画家牛島憲之の誕生日詳細
1910年(明治43)韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細


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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、新潟県、山形県を襲った羽越豪雨において大きな被害が出た日です。
 羽越豪雨(うえつごうう)は、1967年(昭和42年)8月26日から8月29日にかけて、新潟県、山形県中心に発生した集中豪雨で、羽越水害とも呼ばれ、被災地域では8・28水害などその大きな被害の出た日付を冠して呼ばれました。
 当時、日本付近に前線があり、この前線上を進む低気圧が8月27日と29日に東北地方を通過、この地方の日本海側や新潟県の北部で強い雨が断続的に降ります。これにより、26日から29日にかけての期間降水量は、新潟県の下越地方や山形県の南西部では200mmを越え、新潟県黒川村の胎内川第一ダムでは、748mmを観測しました。
 この地域を水源とする最上川、三面川(みおもてがわ)、荒川、胎内川、加治川に過去最悪の水害をもたらし、各地で河川の氾濫、土砂災害が発生します。この結果、「消防白書」発表では、死者83名、行方不明者55名、住宅全壊449棟、住宅半壊408棟が出たとしていますが、NHK資料では、死者146名、全半壊2,594戸、床上・床下浸水69,424戸の被害が出たとバラツキがあるものの、未曾有の災害となり、被害総額は現在の貨幣価値で約4,000億円となりました。
 この後、治水対策の根本が見直され、荒川が一級河川に指定された他、多くの河川で多目的ダム、治水ダムが建設されています。

〇日本の昭和時代以降の顕著な集中豪雨被害(死者・行方不明者100名以上)

・1938年(昭和13)7月3日~5日 阪神大水害(兵庫県)死者715名
・1953年(昭和28)6月25日~29日 昭和28年西日本水害(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)死者759名、行方不明者242名、浸水家屋45万棟以上
・1953年(昭和28)7月17日・18日 紀州大水害(和歌山県)死者・行方不明者1,046名
・1957年(昭和32)7月25日~28日 諫早豪雨(長崎県)死者856名、不明136名、負傷3,860名、浸水72,565m。
・1962年(昭和37)7月1日~8日 昭和37年・梅雨前線による大雨(佐賀県)死者110名、行方不明者17名
・1964年(昭和39)7月17日~20日 昭和39年7月山陰北陸豪雨(島根県)死者114名、行方不明者18名
・1967年(昭和42)8月26日~29日 羽越豪雨(新潟県・山形県)死者83名、行方不明者55名、被害総額は現在の貨幣価値で約4,000億円
・1968年(昭和43)8月17日 飛騨川豪雨(岐阜県)土砂崩れにより飛騨川に観光バス2台が転落し、死者104名
・1972年(昭和47)7月3日~15日 昭和47年7月豪雨(高知県・熊本県・愛知県・岐阜県・神奈川県)死者421名、行方不明者26名、負傷者1,056名
・1982年(昭和57)7月23日 昭和57年7月豪雨(長崎県)死者300名以上
・1983年(昭和58)7月23日 昭和58年7月豪雨(山口県・島根県)死者100名以上
・2018年(平成30)6月28日~7月8日 平成30年7月豪雨(中国地方・四国地方・九州地方北部・近畿地方・東海地方)死者200名以上(平成時代以降最悪)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細
1923年(大正12)盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
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 今日は、飛鳥時代の663年(天智天皇2年)に、朝鮮半島において、白村江の戦いが始まった日ですが、新暦では10月4日となります。
 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)は、朝鮮南西部の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済再興をめざす日本軍と唐・新羅 (しらぎ) 連合軍との海戦でした。660年(斉明天皇6年)に、唐・新羅連合軍が百済を滅ぼすと王族の鬼室福信が日本に援助を要請、救援に向かった日本軍は百済王子豊璋を擁して、白村江で戦います。
 8月27日に、日本の水軍(廬原君臣)の先陣と大唐の水軍が白村江で会戦しましたが、日本は不利になり退きます。翌日、大唐軍は左右から船を挟み取り囲んで戦い、ほんわずかの間に、日本軍は次々と敗れ、溺死者が多く出て、朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り数十人を殺し戦死し、百済王豊璋は数人と船に乗り高麗に逃げ去り、唐将劉仁願 (りゆうじんがん) に大敗しました。
 その結果、王族、貴族の大部分は日本に亡命し、百済は完全に滅亡し、日本も長年の朝鮮半島進出を断念し、内治に専念するようになります。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻二十七の天智天皇二年の条と『旧唐書』劉仁軌伝(列伝巻84)の該当部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻二十七 天智天皇二年の条

<原文>

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。
戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。
己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。

<読み下し文>

戊戌[1]、賊將[2]州柔[3]に至りて、其の王城[4]を繞む。大唐[5]の軍將戰船[6]一百七十艘を率ゐて、白村江[7]に陣烈れり。
戊申[8]、日本の船師[9]初至る者、大唐[5]の船師[9]と合ひ戰ふ。日本不利退きぬ、大唐[5]陣を堅くして守る。
己酉[10]、日本の諸將、百濟王[11]と與に氣象[12]を觀ずして、相謂りて曰く、我等先を爭はゞ、彼れ應に自に退くべし。更に日本の伍[13]を亂る。中軍[14]の卒を率ゐて、進みて大唐[5]の堅陣[15]の軍を打つ。大唐[5]、便ち左右より船を夾みて繞み戰ふ。須臾[16]の際に官軍敗績れぬ。水に赴きて溺れ死ぬる者衆し、艫舳[17]、𢌞旋[18]すことを得ず。朴市田來津[19]、天を仰ぎて誓ひ、齒を切りて嗔りて、數十人を殺し、焉に戰死す。是の時に、百濟王豐璋[20]、數人と與に船に乘りて高麗[21]に逃げ去る。

【注釈】

[1]戊戌:ぼじゅつ=十干と十二支とを組み合わせたものの第三五番目。ここでは8月17日。
[2]賊將:ぞくしょう=賊軍の大将。ここでは新羅の将軍
[3]州柔:つぬ=周留。錦江下流域の地名。白村江の戦いでの陸戦の主戦場となった。
[4]王城:おうじょう=帝王の居住する城。王宮。また、その所在地。ここでは、周留城のこと。
[5]大唐:だいとう=中国の唐朝。
[6]戰船:いくさふね=水軍における軍船の総称。特定の船型をさすものではなく、兵員・物資などを輸送する荷船に対する呼称。
[7]白村江:はくすきのえ=韓国南西部、全羅北道の川の古名。群山市付近の錦江河口に、あるいは東津江河口にあたると考えられる。
[8]戊申:ぼしん=十干と十二支とを組み合わせたものの第四五番目。ここでは8月27日。
[9]船師:ふなし=水軍。
[10]己酉:きゆう=十干と十二支とを組み合わせたものの第四六番目。ここでは8月28日。
[11]百濟王:くだらおう=百済の王。ここでは、百済の義慈王の王子の豊璋のこと。
[12]氣象:きしょう=宇宙の根元的なものと、その作用によって生じる形象。きざしとかたち。状況。戦況。
[13]伍:ご=仲間。隊列。
[14]中軍:ちゅうぐん=左右または前後の部隊の中央に位置する部隊。多くは大将の率いる部隊。
[15]堅陣:けんじん=守りがかたくて、破ることがむずかしい陣営。
[16]須臾:しゅゆ=短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。
[17]艫舳:ともへ=船のともと、へさき。船尾と船首。
[18]𢌞旋:かいせん=ぐるぐる回すこと。くるくる回ること。巡らすこと。旋回。
[19]朴市田來津:えちのたくつ=豊章と行動を共にしていた百済守護、近江国愛智郡の秦一族。
[20]豐璋:ほうしょう=朝鮮の百済義慈王の子。
[21]高麗:こま=朝鮮半島古代の国名である高句麗(こうくり)。または、高麗(こうらい)。

<現代語訳>

(天智天皇2年)8月17日、敵将(新羅の将軍)が州柔(周留)に至って、その王城(周留城)を囲んだ。大唐の将軍は軍船170艘を率いて、白村江に陣を敷いた。
8月27日、日本の水軍の先陣と大唐の水軍と合戦をした。日本は不利となって退却した。大唐は陣を堅くして守った。
8月28日、日本の諸将は、百済王(豊璋)と共に戦況を見極めもせずに、語り合って言った、「我等が先を争って攻撃すれば、彼らは自ずと退くであろう。」さらに日本の隊列の乱れた、中軍の兵を率いて、進んで大唐の守りが堅い陣の軍を攻撃した。大唐は、すると左右から船を挟んで攻撃した。短時間の間に日本軍は次々と敗れた。水に落ちて溺死する者が多く、船の舳先と船尾を旋回させることさえできなかった。朴市田來津(豊章と行動を共にしていた百済守護)は、天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺し、ついに戦死した。この時に、百濟王豐璋は、数人と共に船に乘って高麗に逃げ去った。

〇『旧唐書』劉仁軌伝(列伝巻84)

於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船、自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊眾大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠誌等、率士女及倭眾並耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。

<読み下し文>

是に於いて仁師[22]、仁願[23]及ひ新羅王金法敏帥[24]は陸軍を以て進む。仁軌[25]乃ち別率の杜爽、扶餘隆[26]は水軍及び糧船[27]を率ゐて、熊津江[28]自り白江[29]へ往きて陸軍に會し同に周留城[30]へ趣く。仁軌[25]は倭兵[31]と白江[29]之口で遇ひ、四戰して捷つ、其の舟四百艘を焚く、煙と焰は天に漲り、海水は皆赤く、賊眾[32]は大いに潰れる。餘豐[33]は身を脫して走り、其の寶劍を獲る。偽王子[34]扶餘忠勝、忠誌等、士女及ひ倭眾[35]並ひ耽羅國使[36]を率い、一時に並ひて降りる。百濟[37]諸城は、皆復た歸順[38]す。賊帥[39]の遲受信は任存城[40]に據り降りず。

【注釈】

[22]仁師:じんし=中国唐代の武将。
[23]仁願:じんがん=劉仁願、中国唐代の武将。
[24]金法敏帥:きむぼむみんし=新羅の第30代文武王のこと。
[25]仁軌:じんき=劉仁軌、中国唐代の武将。
[26]扶余隆:ふよりゅう=扶余豐璋のことで、百済最後の王である義慈王の太子。
[27]糧船:りょうせん=運送船。兵糧船。
[28]熊津江:ゆうしんこう=錦江の別名で、百済の古都である忠清南道公州からの呼び名。
[29]白江:はくこう=錦江の別名。
[30]周留城:するじょう=朝鮮半島の錦江河口付近(現在の忠清南道)にあった百済の城。
[31]倭兵:わへい=倭国(日本)の兵。
[32]賊眾:ぞくしゅう=悪者・反逆者の仲間。賊徒。賊党。ここでは、倭軍(日本軍)のこと。
[33]餘豐:よほう=扶余豐璋のことで、百済最後の王である義慈王の太子。
[34]偽王子:ぎおうじ=偽の王子。
[35]倭眾:わしゅう=倭国(日本)の人々。
[36]耽羅國使:ちんらこくし=耽羅国(朝鮮半島沖の済州島に存在した王国で百済に内属)の使い。
[37]百濟:くだら=朝鮮の三国時代、西南部にあった国。
[38]歸順:きじゅん=反逆の心をあらためて服従すること。帰服。
[39]賊帥:ぞくすい=敵の将軍。賊将。
[40]任存城:にんぞんじょう=朝鮮半島の忠清南道の北東付近(現在の忠南礼山郡大興面)にあった百済の城。

<現代語訳>

こうして仁師、仁願および新羅王の金法敏帥は陸軍を率いて進軍。仁軌すなわち別率の杜爽、扶余隆は水軍および兵糧船を率いて、熊津江より白江に入り、陸軍と会合し同じく周留城に向かった。劉仁軌軍は白江口で倭兵と遭遇し、四戦して勝利し、その四百艘の舟を焼き、煙と炎は天にみなぎり、海水は真っ赤に染まり、賊衆は大敗した。扶餘豊(百済王子)は逃げ去り、その宝剣を得た。偽王子の扶餘忠勝や忠志らは、士女および倭衆ならび耽羅國使を率い、一時に並んで降伏した。百濟の諸城は、みな再び歸順した。ただ賊将の一人、遅受信のみは任存城にあって降伏しなかった。

☆白村江の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<660年(斉明天皇6年)>
・7月18日 唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
・8月3日 百済残党が小規模の反撃を開始する
・8月26日 新羅郡から任存(にんぞん)を防衛する
・9月3日 劉仁願将軍が泗沘城に駐屯し、侵入を繰り返す
・10月9日 州柔(周留)城が攻撃される
・10月18日 州柔(周留)が攻略され、20余城が降伏する
・10月20日 泗沘の南の山に駐屯していた百済軍を攻撃して、1,500人を斬首する
・10月 鬼室福信は百済王朝を再建させるために倭国に要請をする
・12月 斉明天皇は福信の乞うところの意に随い、筑紫に行き救軍を送ろうと、まず難波に行き、諸兵器の準備をする

<661年(斉明天皇7年)>
・1月6日 天皇と皇太子(後の天智天皇)は難波を出発する
・3月25日 天皇と皇太子(後の天智天皇)は九州娜大津(長津)に着く
・4月 百済の福信が遣使上表し、王子糺解を迎えることを乞う
・7月24日 朝倉宮で斉明天皇が68歳で急死、中大兄皇子は皇太子として喪に服したまま長津宮で戦いの指揮をする
・8月 百済への救援軍を送る
・9月 皇太子(後の天智天皇)は長津宮で、織冠を百済王子豊璋に授け、多臣蔣敷の妹を妻とし、大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津に軍五千余を与え、護衛させ本郷に送る

<662年(天智天皇元年)> 
・1月 百済の鬼室福信に武器や物資を送る
・5月 大将軍大錦中阿曇連比羅夫は、天智天皇の命により、軍船170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送し、王位につける

<663年(天智天皇2年)>
・2月 新羅人が百済の南辺の四州を焼き払い、安徳などの要地を取る
・3月 中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を3軍編成で送る
・5月1日 犬上君が馳け、高麗に兵事を告げ還り、糺解と石城で会って、糺解は福信の罪を語る
・6月 豊璋は、鬼室福信が謀反を起こしたとして部下に命じて殺害する
・8月13日 豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待っていたが、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流する
・8月17日 唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留城を包囲し、唐軍は軍船170艘を白村江に配備する
・8月27日 倭国軍が朝鮮半島西岸に到着、突撃作戦に出る
・8月28日 白村江で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突し、倭国軍は大敗し、百済王(豊璋)は逃亡する
・9月7日 百済が陥落し永遠に滅亡する

<668年(天智天皇7年)>
・唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼしたが、唐と新羅が対立する

<676年(天武天皇5年)>
・新羅によって朝鮮半島が統一される

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