今日は、奈良時代の770年(宝亀元)に、皇太子の白壁王によって、道鏡が造下野国薬師寺別当に左遷された日ですが、新暦では9月14日となります。
道鏡(どうきょう)は、 奈良時代の法相宗の僧です。700年(文武天皇4年)?に、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で、弓削櫛麻呂の息子として生まれたとされますが、はっきりしません。若い頃に、法相宗の高僧・義淵の弟子となったとされ、また東大寺の僧として華厳宗の名僧良弁に仕え、葛城山中で如意輪法を修し、梵文(サンスクリット)に通じたと言われます。
その後、禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となり、761年(天平宝字5年)に行幸中の近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病し、信任を得ました。763年(天平宝字7年)に慈訓に代わって少僧都に任じられ、764年(天平宝字8年9月)に藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されると、大臣禅師に任ぜられて政権を握ります。
同年10月に、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚すると、翌年の称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられました。765年(天平宝字9年)に貴族の墾田をいっさい禁じたものの、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、翌年に法王に任じられ、767年(神護景雲元年)には阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど権力をふるって貴族を抑圧します。
769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する「宇佐八幡宮神託事件」が起こり、和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したことにより、「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑とされました。しかし、天皇に就くことはできず、称徳天皇が道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸していた時に発病し、770年(神護景雲4年8月4日)平城宮において亡くなると状況が一変します。
同年には、皇太子の白壁王によって、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られました。以下に、造下野薬師寺別当への左遷の事を記した『続日本紀』巻三十の宝亀元年8月21日の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇宇佐八幡宮神託事件とは?
奈良時代の769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上した事件です。天皇は夢で八幡神から宇佐に尼法均(和気広虫)を派遣せよと求められ、代わりにその弟の和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申しました。このことにより、清麻呂は「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて、大隅に流刑とされます。しかし、天皇も道鏡を皇位につけるのを断念し、770年(神護景雲4年8月4日)に天皇が亡くなると状況が一変しました。同年に道鏡は、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られることになります。
〇『続日本紀』巻第三十の宝亀元年八月の条
<原文>
庚戌。皇太子令旨。如聞。道鏡法師。竊挾舐粳之心。爲日久矣。陵土未乾。姦謀發覺。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野國藥師寺別當發遣。宜知之。即日。遣左大弁正四位下佐伯宿祢今毛人。彈正尹從四位下藤原朝臣楓麻呂。役令上道。以從五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂爲多褹嶋守。
<読み下し文>
庚戌[1]。皇太子[2]令旨[3]すらく。聞く如く。道鏡[4]法師、竊に舐粳の心[5]を挾んで、日爲たること久し。陵土[6]未だ乾かず、謀發覺しぬ。是れ則神祇[7]の護る所、社稷[8]の祐くる攸なり。今先聖厚[9]恩を顧みて、法に依り刑に入ることを得ず。故に造下野の國藥師寺の別當[10]に任じて發遣[11]す。之を知る宜く。即日、左大弁正四位下佐伯の宿祢今毛、彈正尹從四位下藤原臣楓呂人を遣して役して上道[12]せ令む。從五位下中臣の習宜の朝臣阿曾麻呂[13]を以て、多褹嶋[14]の守と爲す。
【注釈】
[1]庚戌:こうじゅつ=十干と十二支とを組み合わせたものの第四七番目。かのえいぬ。ここでは、8月21日のこと。
[2]皇太子:こうたいし=称徳天皇の皇太子(白壁王・光仁天皇)のこと。
[3]令旨:りょうじ=皇太子、皇后、皇太后、太皇太后の命令を伝えるため発行された文書。
[4]道鏡:どうきょう=法相宗の僧で称徳天皇の寵愛を受け、法王となって権勢をふるった。
[5]舐粳の心:しこうのこころ=ここでは皇位を得ようという心。
[6]陵土:りょうど=陵墓の土。称徳天皇の陵墓を指す。
[7]神祇:じんぎ=天神と地祇。天つ神と国つ神。天地の神々。
[8]社稷:しゃしょく=国家の守り神とした土地の神と五穀の神。
[9]先聖:せんせい=先代の聖人。ここでは称徳天皇のこと。
[10]別當:べっとう=本務のある者が別の職務を担当すること。転じて,専任の長官。
[11]發遣:はっけん=送りつかわすこと。さしむけること。派遣。差遣。
[12]上道:じょうどう=旅行に出発すること。旅すること。
[13]阿曾麻呂:あそまろ=大宰主神のとき「道鏡が皇位につけば天下太平となる」との神託をのべ、後に多褹嶋守に左遷された。
[14]多褹嶋:たねがしま=現在の鹿児島県にある種子島のこと。
<現代語訳>
21日。皇太子(白壁王)は令旨を下した。聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を得ようという心を抱いて、永く日を経てきたという。山陵の土がまだ乾かない内に、はかりごとは発覚した。これはすなわち天の神と地の神の護るところで、 国家の守り神とした土地の神と五穀の神のご加護があったためである。今、先聖(称徳天皇)の厚い恩を顧みるならば、法に従って刑を与えるのは忍びない。よって、造下野の国藥師寺の別当に任じて、派遣することとする。この処置を了解せよ。即日に、左大弁正四位下佐伯の宿祢今毛と彈正尹從四位下藤原臣楓呂人を遣して、同道させることとする。從五位下中臣の習宜の朝臣阿曾麻呂は、種子島の守とする。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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