今日は、平安時代中期の952年(天暦6)に、第61代の天皇とされる朱雀天皇が亡くなった日ですが、新暦では9月6日となります。
朱雀天皇(すざくてんのう)は、923年(延長元年7月24日)に、京都において、醍醐天皇の第11皇子(母は藤原基経の女)として生まれましたが、名は寛明(ゆたあきら)と言いました。兄保明親王とその子慶頼王の二代にわたる東宮の夭折があり、母后穏子は怨霊を恐れて、寛明親王を3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたといわれています。
925年(延長3)に、3歳で皇太子となり、930年(延長8)には、8歳で父・醍醐天皇より譲位を受け、第61代とされる天皇として即位したものの、母の兄藤原忠平が摂政、のち関白として政治の実権を握りました。935年(承平5)に平将門が関東で、翌年には藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こし(承平・天慶の乱)、朝廷は懐柔策を試みましたが失敗します。
そこで、940年(天慶3年)に藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、将門を討ち、翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、ようやく承平・天慶の乱が鎮定されました。それ以外にも、富士山の噴火や地震・洪水や疫疾がしばしば起こり、世の中が乱れます。男子を儲けることなく、948年(天慶9)には、24歳で弟の成明親王(村上天皇)に譲位し、退位後はしばしば嵯峨、醍醐、大堰川などへ行幸し、また芥川野、栗隈野などへ遊猟しています。
952年(天暦6)に病のために 出家し法名を仏陀寿としましたが、同年8月15日に、京都において、数え年30歳で亡くなり、醍醐陵(現在の京都市伏見区)に葬られました。尚、和歌を良くし、『朱雀天皇御集』を残し、勅撰集には『後撰和歌集』初出後、9首入集しています。
<朱雀天皇の代表的な歌>
・「梅の花 咲けるあたりを ゆき過ぎて 昔の人の 香をばたづねむ」(続後拾遺和歌集)
・「ひとりねに ありし昔の おもほえて 猶なき床を もとめつるかな」(玉葉和歌集)
・「時すぎて 霜に消えにし 花なれど けふは昔の ここちこそすれ」(新古今和歌集)
・「遠近の 風とぞ今は なりなまし かひなき物は 我が身なりけり」(新続古今和歌集)
〇朱雀天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・923年(延長元年7月24日) 京都において、醍醐天皇の第11皇子(母は藤原基経の女)として生まれる
・925年(延長3年10月) 皇太子となる
・930年(延長8年9月22日) 八歳で践祚する
・930年(延長8年11月) 八歳で醍醐天皇より譲位を受け、第61代とされる天皇として即位する
・935年(承平5年2月) 平将門が関東で反乱を起こす(承平・天慶の乱)
・936年(承平6年) 藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こす(承平・天慶の乱)
・937年(承平7年1月4日) 元服する
・940年(天慶3年) 藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、将門を討つ
・941年(天慶4年) 橘遠保により藤原純友が討たれ、承平・天慶の乱が鎮定される
・944年(天慶7年4月) 同母弟成明親王(後の村上天皇)を東宮(皇太弟)とする
・948年(天慶9年4月) 弟の成明親王(村上天皇)に譲位する
・950年(天暦4年) 熙子(ひろこ/きし)女王との間に昌子内親王をもうける
・952年(天暦6年3月14日) 出家し法名を仏陀寿とする
・952年(天暦6年8月15日) 京都において、数え年30歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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