今日は、南北朝時代の1359年(正平14/延文4)に、筑後川の戦いで、南朝方の懐良親王らと北朝方の少弍頼尚が戦い、夜襲で北朝方が勝利した日ですが、新暦では8月29日となります。
筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝の戦いの一つで、筑後国大保原(現在の福岡県小郡市)で、征西将軍懐良親王を擁する菊池武光らの南朝方と少弐頼尚 (しようによりひさ) ・阿蘇大宮司らの北朝方による、筑後川をはさんでの戦いで、大保原の戦い、大原合戦とも呼ばれてきました。北朝方6万余騎、南朝方4万余騎が戦ったとされ、両軍あわせて2万5千の死傷者が出たと伝わる九州史上最大の合戦で、関ケ原の戦い(1600年)、川中島の戦いと並んで、日本三大合戦の一つともされています。
1359年(正平14/延文4年)になって、九州の大宰府を本拠とする北朝方の少弐頼尚、少弐直資の父子は、大友氏時(うじとき)と呼応して、南朝方を挟撃しようとしたのに対し、菊池武光(たけみつ)は征西将軍懐良(かねよし)親王を奉じて、7月には菊池(現在の熊本県菊池郡)をたち筑後川南方に布陣しました。同月19日には筑後川を渡って、北方鰺坂荘(現在の福岡県小郡市)に陣した北朝方の少弐頼尚を攻めましたが、頼尚は退いて大保原の沼地に陣します。
それに対し、8月6日夜半に菊池武政(たけまさ)らは先制攻撃をかけ、まもなく本隊相互の計約10万による激戦となり、一日中戦闘が続きました。この結果、北朝方の少弐直資は戦死、南朝方の懐良親王や菊池武光も負傷するなど、双方とも甚大な損害を受け、頼尚は宝満山(現在の福岡県太宰府市内山)に退却、南朝方も追撃の力なくいったん肥後に引き揚げます。その後、北朝方の少弐家は求心力を失い、2年後には南朝方の菊池武光に大宰府を奪われることとなり、九州は一時南朝方が優勢となりました。
尚、戦い後、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(現在の福岡県三井郡大刀洗町)であるという伝承が残されています。
以下に、『太平記』巻第三十三の筑後川の戦いの部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。
〇『太平記』巻第三十三より筑後川の戦いの部分を抜粋
八月十六日の夜半許に、菊池先夜討に馴たる兵を三百人勝て、山を越水を渡て搦手へ廻す。宗との兵七千余騎をば三手に分て、筑後河の端に副て、河音に紛れて嶮岨へ廻りて押寄す。大手の寄手今は近付んと覚ける程に、搦手の兵三百人敵の陣へ入て、三処に時の声を揚げ十方に走散て、敵の陣々へ矢を射懸て、後へ廻てぞ控たる。分内狭き所に六万余騎の兵、沓の子を打たる様に役所を作り双たれば、時の声に驚き、何を敵と見分たる事もなく此に寄合彼に懸合て、呼叫追つ返つ同士打をする事数剋也しかば、小弐憑切たる兵三百余人、同士打にこそ討れけれ。敵陣騒乱て、夜已に明ければ、一番に菊池二郎、件の起請の旗を進めて、千余騎にてかけ入。小弐が嫡子太宰新小弐忠資、五十余騎にて戦けるが、父が起請や子に負けん。忠資忽に打負て、引返々々戦けるが、敵に組れて討れにけり。是を見て朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔、百余騎にて取て返し、近付く敵に引組々々差違て死ければ、菊池孫次郎武明・同越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三川守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下宗との兵八十三人、一所にて皆討れにけり。小弐が一陣の勢は、大将の新小弐討れて引退ければ、菊池が前陣の兵、汗馬を伏て引へたり。二番に菊池が甥肥前二郎武信・赤星掃部助武貫、千余騎にて進めば、小弐が次男太宰越後守頼泰、並太宰出雲守、二万余騎にて相向ふ。初は百騎宛出合て戦けるが、後には敵御方二万二千余騎、颯と入乱、此に分れ彼に合、半時許戦けるが、組で落れば下重り、切て落せば頚をとる。戦未決前に、小弐方には赤星掃部助武貫を討て悦び、寄手は引返す。菊池が方には太宰越後守を虜て、勝時を上てぞ悦ける。此時宮方に、結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同出雲守・熊谷民部大輔以下、宗との兵三百余人討死しければ、将軍方には、饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下、憑切たる兵共七百余人討れにけり。三番には、宮の御勢・新田の一族・菊池肥後守一手に成て、三千余騎、敵の中を破て、蜘手十文字に懸散んと喚ひて蒐る。小弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷の兵二万余騎、左右へ颯と分れて散々に射る。宮方の勢射立られて引ける時、宮は三所まで深手を負せ給ければ日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督に至るまで、宮を落し進せんと蹈止て討れ給ふ。是を見て新田の一族三十三人、其勢千余騎横合に懸て、両方の手崎を追まくり、真中へ会尺もなく懸入て、引組で落、打違て死、命を限に戦けるに、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相摸守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守、敵に組れて討れにけり。菊池肥後守武光・子息肥後次郎は、宮の御手を負せ給のみならず、月卿雲客・新田一族達若干討るゝを見て、「何の為に可惜命ぞや。日来の契約不違、我に伴ふ兵共、不残討死せよ。」と励されて、真前に懸入る。敵此を見知たりければ、射て落さんと、鏃をそろへて如雨降射けれ共、菊池が著たる鎧は、此合戦の為に三人張の精兵に草摺を一枚宛射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵て威たれば、何なる強弓が射けれ共、裏かく矢一も無りけり。馬は射られて倒れ共乗手は疵を被らねば、乗替ては懸入々々、十七度迄懸けるに、菊池甲を落されて、小鬢を二太刀切れたり。すはや討れぬと見へけるが、小弐新左衛門武藤と押双て組で落、小弐が頚を取て鋒に貫き、甲を取て打著て、敵の馬に乗替、敵の中へ破て入、今日の卯剋より酉の下まで一息をも不継相戦けるに、新小弐を始として一族二十三人、憑切たる郎従四百余人、其外の軍勢三千二百二十六人まで討れにければ、小弐今は叶はじとや思けん、太宰府へ引退て、宝万が岳に引上る。菊池も勝軍はしたれども、討死したる人を数れば、千八百余人と注したりける。続て敵にも不懸、且く手負を助てこそ又合戦を致さめとて、肥後国へ引返す。其後は、敵も御方も皆己が領知の国に楯篭て、中々軍も無りけり。
<現代語訳>
八月十六日の夜半ほどに、菊池(武光)はまず夜討ちに馴れた兵を300人を選んで、山を越え渡河させて搦手に向かわせた。主力の兵7,000余騎を三手に分けると、筑後川の端に沿って、川音に紛れて険しい地形の方に回って押し寄せました。大軍の寄せ手がまさに近づこうとしている時に、搦め手の兵300人が敵の陣へ入って、三ヶ所で鬨の声を上げると、縦横無尽に走り回って、敵陣のいたるところに矢を射かけ、背後に回り込んで待機しました。所狭き場所に入り込んだ60,000余騎の兵らは、すきまなく立ち並ぶ陣所となっていたため、鬨の声を聞いて驚き、いずれが敵なのか見分けることもできなくて、こちらに押し寄せ、向こうに駆け込んだりして、呼き叫び追いつ返しつ、同士討ちをすること数時間に及んだので、少弐(頼尚)が頼りとしていた兵士ら300余人は、同士討ちにて討たれてしまった。敵陣が騒ぎ乱れている内に、夜がすでに明ければ、一番に菊池二郎(武重)は、例の起請の旗を進めて、1,000余騎で駆け入りました。少弐(頼尚)の嫡子、太宰新少弐忠資は50余騎で応戦しましたが、父の起請の報いが子に及んだのか、忠資は瞬く間に打ち負けて、引き返し引き返し戦ったものの、敵に組まれて討たれました。これを見て、朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔が、100余騎で引き返し、近付く敵に組み付き組み付いては刺し違えて死んだので、菊池孫次郎武明・同じく越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三河守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下の主な兵83人は、一ヶ所で全員討たれました。少弐軍の一陣(先鋒)は大将の新少弐が討たれて引き退いたので、菊池軍の前陣の兵は、疲労激しい馬を休めて待機しました。二陣の菊池(武光)の甥である肥前次郎武信・赤星掃部助武貫が、1,000余騎で進んでくれば、小弐(頼尚)の次男である太宰越後守頼泰、並びに太宰出雲守が、20,000余騎で対峙しました。初の内は、敵味方100騎を互いに出し合って戦いましたが、その後は敵味方22.000余騎がさっと入り乱れ、ここかしこに分かれて、半時(約一時間)ばかりを戦ったものの、組み打ちになると折り重なって落馬し、切って落として首を捕りました。戦いがいまだ決着しない前に、少弐方では赤星掃部助武貫を討ち取ったと喜べば、寄せ手は引き返しました。また、菊池方では太宰越後守を生け捕って、勝鬨を上げて喜びました。この戦いで宮(懐良親王)方では結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同じく出雲守・熊谷民部大輔以下、主だった兵士ら300余人が討ち死にし、将軍(第二代将軍足利義詮)方では、饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下、頼りにしていた兵士ら700余人が討たれました。三陣として、宮(懐良親王)の軍勢・新田一族・菊池肥後守(武光)が一つにまとまった3,000余騎が、敵の中央を突破して蜘手十文字に駆け散らそうと喚いて切りかかりました。小弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷の兵士ら20,000余騎は、左右にさっと分かれると、散々に矢を射込みました。宮(懐良親王)方の軍勢は射立てられて引き退こうとした時に、宮(懐良親王)が三ヶ所に重傷を負われたので、日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督に至るまで、宮(懐良親王)を逃がそうと踏み止まったため、討たれたのでした。これを見て新田の一族33人が、軍勢1,000余騎で、敵の側面から攻撃を仕掛け、両側の先頭兵を追いまくりながら、敵の真ん中に容赦なく駈け入り、取っ組んでは落ち、互いに戦って討たれたりして、命を限りに戦ったので、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相摸守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守は、敵に組み付かれて討たれました。菊池肥後守武光・子息肥後次郎(武重)の二人は、宮(懐良親王)が重傷を負われただけでなく、公卿や殿上人・新田一族らが多数討たれるのを見て、「このような事態の時になぜ命など惜しむのか。日頃の約束を違えることなく、私に従ってきた兵士達よ、残らず討ち死にを覚悟せよ」と大声を上げて、真っ先に駈け入りました。敵は彼を見知っていたので、射落とそうと鏃をそろえて、雨の降るかのように射込んできましたが、菊池(武光)が着てきた鎧は、この合戦に備えて、三人張りの強弓を扱う精兵に、草摺りを一枚づつ射させて、矢を通さなかった札(さね:鎧を構成する鉄や革製の細長い小板)を一枚づつそろえて威していたものなので、いかなる強弓で射た矢でも、裏まで貫通する矢は一本もありませんでした。馬は射られたとして倒れても乗り手は傷を負わないので、乗り換えては、駆け入り、駆け入ること17回に及ぶと、菊池(武光)は兜を落とされて、頭の側面を二太刀切られました。あわや討たれるのではと見えた時、少弐新左衛門武藤と馬を並べ組み合って落ちると、少弐の首を取って切っ先に貫き、兜も取り上げて自分が着け、その上敵の馬に乗り換えると敵中に割って入り、今日の卯の刻(午前六時頃)から酉の下(午後七時過ぎ頃)まで、一息をも継がずに戦って、新少弐をはじめとして、一族23人、頼みとしていた家来ら400余人、その他の軍勢、3,226人も討たれてしまったので、少弐(頼尚)は、これではもう戦いを続けることは不可能と考え、大宰府に退却し、宝万が岳(宝満城)に上りました。菊池(武光)も合戦には勝利を収めたものの、討ち死にした人数を数えると1,800余人だと記されました。続けて敵にいどみかかることなく、しばらくは味方の負傷者の治療に励み、その後再び合戦をするべしと、肥後国に引き返しました。その後は、敵も味方も皆、自分の領国に立て篭もり、予想外にも合戦は起こりませんでした。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1926年(大正15) | 東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局を統合し社団法人日本放送協会を設立する | 詳細 |
1949年(昭和24) | 「広島平和記念都市建設法」が公布・施行される | |
1955年(昭和30) | 広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催される | 詳細 |
1981年(昭和56) | 電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電に成功する(太陽熱発電の日) | 詳細 |