
今日は、大正時代の1918年(大正7)に、寺内正毅内閣によって、日本軍が英・米・仏軍と共に、シベリアへ出兵することが閣議決定された日です。
シベリア出兵(しべりあしゅっぺい)は、ロシア革命の干渉を目的として、日本・イギリス・アメリカ・フランスがチェコ軍救出の名目でシベリアに出兵した事件でした。大正時代の1917年(大正6)に、ロシア十月革命が起こると連合国最高軍事会議に革命政権への干渉計画が出され、翌年1月には、イギリス・フランスは日米両国にシベリア出兵を要請してきます。日本は、居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦2隻を派遣、また、居留民殺傷事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の革命勢力に軍事的圧力をかけました。その後、シベリア鉄道経由で本国へ送還中のチェコスロバキア軍捕虜の反乱事件が起こるとアメリカもチェコ軍救出を名目に日本に共同出兵を提案し、8月2日には、日本も「シベリア出兵宣言」を発し、翌日にはアメリカも続きます。そして、日本軍はウラジオストク上陸を開始し、9月上旬にハバロフスク、10月に東シベリア一帯を占領、11月には協定兵力1万2,000をはるかにしのぐ、7万3,000の大軍を送り込みました。しかし、1919年(大正8)1月頃からシベリア各地のパルチザン活動が活発になり、10月に日本は約1万4,000の派遣軍削減を内容とする第一次減兵案を決めます。そして、秋にはコルチャーク将軍のオムスク政権は崩壊し、干渉軍の戦意も低下し、12月には日本は派遣軍総数を約2万6,000とする第二次減兵案を決定しました。1920年(大正9)になると1月9日にアメリカが撤兵を声明、2月~5月に尼港(にこう)事件で日本軍は手痛い打撃を受け、6月には、イギリス・フランス軍は完全に退去しています。翌年になると第44帝国議会で憲政会の加藤高明総裁は、尼港事件に対する政府の責任を追及するとともに、理由のない駐兵はやめてシベリアから撤退すべきであると主張、8月から極東共和国との間で、シベリア撤兵問題を取り上げた大連会議(~翌年4月)が始まり、11月には、開催中のワシントン会議でも列国のシベリア撤兵圧力がかかりました。その中で、1922年(大正11)6月に、日本はようやくシベリア撤兵の意志を表明し、9月に北樺太撤兵問題を中心議題とする長春会議が開催されるも決裂する中で、10月には、シベリア本土からの撤兵を完了します。それまでの足掛け8年の出兵で、日本は戦費約10億円を費やし、死者は3,000人を超えるという犠牲を払いながら、なんら得るところがなかったばかりか、対外関係の悪化を招きました。以下に、寺内正毅内閣による「シベリア出兵宣言」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「シベリア出兵宣言」 1918年(大正7)8月2日閣議決定
大正七年八月二日附國務大臣連署
帝國政府ハ露國竝露國人民ニ對スル舊來ノ隣誼ヲ重ンシ、露國ノ速ニ秩序ヲ恢復シテ健全ナル發逹ヲ遂ケムコトヲ衷心切望シテ止マサル所ナリ。然ルニ近時露國ノ政情著シク混亂ニ陷リ、復タ外迫ヲ捍禦スルノ力ナキニ乘シ、中歐諸國ハ之ニ壓迫ヲ加フルコト愈々甚シク、其ノ威壓遠ク極東露領ニ浸漸シテ現ニ「チエツク、スローヴアツク」軍ノ東進ヲ阻碍シ、其ノ軍隊中ニハ多數ノ獨墺俘虜混入シ、實際ニ於テ其ノ指揮權ヲ掌握スルノ事跡顯然タルモノアリ。
抑々「チエツク、スローヴアツク」軍ハ夙ニ建國ノ宿志ヲ抱キ、終始聯合列强ト共同敵對スルモノナルガ故ニ、其ノ安危ノ繋ル所延イテ與國ニ影響スルコト尠シトセス。是レ聯合列强及ヒ合衆國政府カ同軍ニ對シ多大ノ同情ヲ寄與スル所以ナリ。今ヤ聯合列强ハ同軍カ西比利亞方面ニ於テ獨墺俘虜ノ爲メ著シク迫害ヲ被ムルノ報ニ接シ、空シク拱手傍觀スルコト能ハス、業ニ已ニ其ノ兵員ヲ浦盬ニ派遣シタリ。合衆國政府モ亦同ク其ノ危急ヲ認メ、帝國政府ニ提議シテ先ツ速ニ救援ノ軍隊ヲ派遣セムコトヲ以テセリ。是ニ於テカ帝國政府ハ合衆國政府ノ提議ニ應シテ其ノ友好ニ酬ヒ、且今次ノ派兵ニ於テ聯合列强ニ對シ步武ヲ齊フシテ履信ノ實ヲ擧クル爲速ニ軍旅ヲ整備シ、先ツ之ヲ浦盬ニ發遣セムトス。
叙上ノ措置ヲ取ルニ方リ、帝國政府ハ一意露國及露國人民ト恒久ノ友好關係ヲ更新セムコトヲ希圖スルヲ以テ、常ニ同國ノ領土保全ヲ尊重シ、併セテ其ノ國內政策ニ干涉セサルノ旣定主義ヲ聲明スルト共ニ、所期ノ目的ヲ逹成スルニ於テハ政治的又ハ軍事的ニ其ノ主權ヲ侵害スルコトナク速ニ撤兵スヘキコトヲ茲ニ宣言ス。
「日本外交年表竝主要文書 上巻」外務省編より
☆シベリア出兵関係略年表
<1917年(大正6)>
・11月 ロシア十月革命が起こる
・12月 連合国最高軍事会議に革命政権への干渉計画が出される
<1918年(大正7)>
・1月 イギリス・フランスは日米両国にシベリア出兵を要請してくる
・1月 居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦2隻を派遣する
・3月 アメリカがシベリア干渉に疑義を明らかにしたことで、対米協調を優先する立場から、日本政府は本野らの自主的出兵論をいったん退ける
・4月 居留民殺傷事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の革命勢力に軍事的圧力をかける
・5月 シベリア鉄道経由で本国へ送還中のチェコスロバキア軍捕虜の反乱事件が起こる
・7月 アメリカもチェコ軍救出を名目に日本に共同出兵を提案してくる
・8月2日 日本は「シベリア出兵宣言」を発する
・8月3日 アメリカも出兵宣言を行なう
・8月12日 日本軍はウラジオストク上陸を開始する
・9月上旬 ハバロフスクを占領
・10月 東シベリア一帯を占領する
・11月 協定兵力1万2,000をはるかにしのぐ、7万3,000の大軍にふくれ上がる
<1919年(大正8)>
・1月頃 シベリア各地のパルチザン活動は活発になる
・10月 日本は約1万4,000の派遣軍削減を内容とする第一次減兵案を決める
・秋 コルチャーク将軍のオムスク政権は崩壊し、干渉軍の戦意も低下する
・12月 日本は派遣軍総数を約2万6,000とする第二次減兵案を決定する
<1920年(大正9)>
・1月9日 アメリカが撤兵を声明する
・2月~5月 尼港(にこう)事件で日本軍は手痛い打撃を受ける
・6月 イギリス・フランス軍は完全に退去する
<1921年(大正10)>
・冬 第44帝国議会で憲政会の加藤高明総裁は、尼港事件に対する政府の責任を追及するとともに、理由のない駐兵はやめてシベリアから撤退すべきであると主張する
・8月 極東共和国との間で、シベリア撤兵問題を取り上げた大連会議が始まる(~翌年4月)
・11月 開催中のワシントン会議でも列国のシベリア撤兵圧力がかかる
<1922年(大正11)>
・6月 日本はようやくシベリア撤兵の意志を表明する
・9月 北樺太撤兵問題を中心議題とする長春会議が開催されるも決裂する
・10月 シベリア本土からの撤兵を完了する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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