ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年07月

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、「日本労働総同盟」が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めた日です。
 「全日本労働総同盟」(全総)は、1937年(昭和12)に日中戦争が勃発すると、「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示しましたが、時の政府は産業報国運動を推進ました。そこで、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)7月に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取ります。
 しかし、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)7月21日には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めました。その後、同年11月23日に、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織「大日本産業報国会」が結成されています。

〇大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)11月23日に、戦時下において、労働者を戦争協力に動員することを目的として設立された官民共同の勤労者統制組織です。
 日中戦争が全面化する中で、1938年(昭和13)7月30日に、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づいて産業報国連盟が発足、自主的運動をたてまえに産業報国運動が全国的に始まりました。連盟は「労資一体」、「産業報国」の理念を普及しますが、実際の指導は官憲が担うことになり、1939年(昭和14)4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示、警察の指導下で事業所単位に単位産業報国会(会長は社長、各役員はおおむね職制が任命される)が続々と結成され、その各府県連合会の会長に道府県知事、支部長には各管区の警察署長が就きます。
 その結果会員数は、同年中に299万人、翌年には、482万人(推定組織率66%)に達しました。1940年(昭和15)11月4日に第二次近衛文麿内閣は、「勤労新体制確立要綱」を閣議決定し、これに基づいて産業報国連盟は解散、同年11月23日の大日本産業報国会設立へと至ります。同会の会長には平尾釟三郎、理事長には湯沢三千男が就き、産業報国精神の高揚、職場規律の確立、生産力増強達成などを目指しました。
 また、労務管理、特配物資配給機関としても機能し、機関紙誌として「産業報国新聞」、「産報」、「職場の光」、「ちから」を発行します。1942年(昭和17)6月23日には、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会と共に大政翼賛会に加わり、以後労働強化・戦争協力を労働者に強制していきました。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解散しています。

〇大日本産業報国会創立宣言

 今や世界は未曽有の転換期に際会す。皇国亦東亜新秩序建設に任じ、世界新秩序完成に邁進せんとす。その使命洵に宏大なり。
 然れども高度国防国家体制とその根幹たる新産業労働体制を確立するに非ざれば、何んぞその使命を果し得べけん。
 凡そ皇国産業の真姿は、肇国の精神に基づき、全産業一体、事業一家、以て職分に奉公し皇運を扶翼し奉るにあり。全産業人は、資本経営労務の有機的一体を具現し、皇民勤労の真諦を発揮し、以て国力の増強に邁進せざるべからず。皇国躍進の基調竝に存す。我等皇国産業に与る者、夙に念ひをここに致し、洽く職場に産業報国会を組織し、産業報国精神の高揚実践に挺身し来れり。為に全産業人協心戮力の実漸く挙り、勤労の創意、能力亦大に伸暢し、産業労働界はその面目を一新せんとす。この成果と組織を総括して一大国民運動たらしむるの要今や極めて切なるものあり。
 皇紀二千六百年の秋、新嘗祭の佳き日をトし、我等ここに大日本産業報国会を結成し、光輝ある新任務に就かんとす。我等の使命は、実に愛国の至情を産業報国運動に結集して曠古の国難を克服し、以て永遠不動の皇国産業道を樹立せんとするにあり。責務の重きを念ひ、決意更に新たなり。勇躍、我等行かんとす!
 職場は我等にとって臣道実践の道場なり。勤労は我等にとって奉仕なり、歓喜なり、栄誉なり。手段に非ずして目的なり。艱苦欠乏何かあらん。剛健なる意志、不屈の気概、範を垂れ衆を化し、塵烟の下、響音の裡分を尽し職に生き、以て皇国の弥栄を効さむ。
 右宣言す。
 紀元二千六百年十一月二十三日

〇大日本産業報国会綱領

一、我等ハ国体ノ本義ニ徹シ全産業一体報告ノ実ヲアゲ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス
一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ徹シ以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス
一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ剛健明朗ナル生活ヲ建設シ以テ国力ノ根抵ニ培ハムコトヲ期ス

   国立国会図書館デジタルコレクション「大日本産業報国会要覧」より

〇「日本労働総同盟」とは? 

 大正時代の1912年(大正元)に鈴木文治等によって結成された労働者団体「友愛会」が前身となります。当初は労使協調主義の立場にたち、共済・修養を目的とした性格が強いものでした。
 その後、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義が発展して労働者が増加する中で、組織は拡大し、1918年(大正7)には120支部、会員約3万人に発展することになります。また、1917年(大正6)のロシア革命、1918年(大正7)の米騒動などの民衆蜂起の高揚、1919年(大正8)のILO(国際労働機関)の創設と労働憲章の発表などに影響されて、労働者の階級的自覚も高まって、1919年(大正8)には、「大日本労働総同盟友愛会」と改称するに至りました。そして、労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導し、1921年(大正10)には、日本労働総同盟と再度改称します。
 1923年(大正12)の共産党弾圧事件の後、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まり、1925年(大正14)5月には、左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減(総同盟の第1次分裂)します。その後、1926年(大正15)に中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成され(総同盟の第2次分裂)、1929年(昭和4)には、脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成(総同盟の第3次分裂)しました。
 1931年(昭和6)の満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げるようになり、1932年(昭和7)には、改良主義組合を糾合して、「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となります。さらに、1936年(昭和11)に中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成しました。
 1937年(昭和12)から始まる日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示します。しかし、旧全労系は組合の産業報国会への解消を主張して、1939年(昭和14)に脱退、残留派は「日本労働総同盟」の名称に戻した組合を残しつつ、産業報国会への協力の方針を取りました。ところが、政府の労働組合否認や軍部の圧力に抗しきれず、1940年(昭和15)には、ついに自主解散を決議し、産業報国会への合流を決めています。

☆「日本労働総同盟」関係略年表(友愛会結成~日本労働総同盟解散まで)

・1912年(大正元)8月1日、東京帝国大学卒業の法学士鈴木文治(ぶんじ)を会長に15人の労働者によって「友愛会」が結成される
・1912年(大正元)11月 機関紙『友愛新報』を創刊する
・1914年(大正3)11月 月刊誌『労働及産業』と改題する
・1916年(大正5)6月 日本の労働組合で初めて婦人部を設け、機関誌『友愛婦人』を発刊する
・1917年(大正6) 労働争議を直接組織したり指導するようになる
・1918年(大正7)4月 120支部、会員約3万人に発展する
・1918年(大正7) 米騒動が起きる
・1919年(大正8) 国際労働機関(ILO)が創設され労働憲章が発表される
・1919年(大正8)9月 大日本労働総同盟友愛会と改称し、会長独裁制を理事合議制に改め、主張として労働者の要求20項目(労働組合の自由など)を掲げる
・1920年(大正9)1月 月刊誌『労働及産業』を『労働』と改題する
・1920年(大正9)10月 「大」の字を去って、「日本労働総同盟友愛会」と改称する
・1921年(大正10)10月 「友愛会」の文字も捨て、名実ともに労働組合としての「日本労働総同盟」となる
・1923年(大正12) 共産党弾圧事件ののち、松岡駒吉・西尾末広らの右派が勢力を得て、改良主義的・議会主義的傾向が強まる
・1925年(大正14)5月 左派系組合を除名し、総同盟は二つに分裂、左派系は「日本労働組合評議会」を結成し、総同盟の勢力は半減する(総同盟の第1次分裂)
・1926年(大正15)12月 中間派により「日本労働組合同盟」が分離結成される(総同盟の第2次分裂)
・1929年(昭和4)9月 脱退派が「労働組合全国同盟」(全国同盟)を結成する(総同盟の第3次分裂)
・1931年(昭和6) 満州事変後、反無政府主義、反共産主義、反ファシズムの三反主義を掲げる
・1932年(昭和7) 「全国労働組合会議」・「日本海員組合」など11団体28万人からなる「日本労働組合会議」(日労会議)の結成により、当時の労働運動の最大勢力となる
・1936年(昭和11)1月 中間派の統一した「全国労働組合同盟」(全労)と合同して「全日本労働総同盟」(全総)を結成する
・1937年(昭和12) 日中戦争では「聖戦に協力するためにストライキを絶滅させる」と宣言を発して、戦争協力の態度を示す
・1939年(昭和14)7月 産業報国会との統合に積極的だった中間派の全国労働組合同盟(全労)系が分裂し、「日本労働総同盟」に改称する
・1940年(昭和15)7月21日 自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16年)に、公卿・政治家岩倉具視が亡くなった日です。
 岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代後期の1825年(文政8年9月15日)に、京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれましたが、幼名は周丸(かねまる)と言いました。1837年(天保8)に岩倉具慶の養子となり、岩倉具視を名乗るようになります。
 1838年(天保9)に従五位下に叙位され、同年に元服し、昇殿を許されました。1853年(嘉永6)に、歌道を通じて関白鷹司政通に接するわうになり、1854年(安政元)には、孝明天皇の侍従となります。
 1858年(安政5)に、幕府の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、88人の公家の列参(集団行動)で反対して、勅許を失敗させました。1860年(万延元)に、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、公武合体をとなえて、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現します。
 1862年(文久2)に和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任して、洛北の岩倉村に蟄居し、落髪して法名を友山としました。1867年(慶応3)には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下すことに成功し、処分を解除され、尊王討幕派と結び、王政復古のクーデタを成功させます。
 それによって、明治新政府の中枢にすわり、議定、副総裁、大納言を経て、1871年(明治4)には、右大臣となりました。また、同年特命全権大使となって、政府首脳を率い渡欧(岩倉使節団)、欧米の文化・制度を視察します。
 1873年(明治6)帰国後は、征韓論に反対し、同年10月には太政大臣代理となり、征韓中止の勅裁を得ました。自由民権運動を弾圧し、天皇制による立憲制確立のために、井上毅に欽定憲法の原則「大綱領」を起草させます。
 また、宮廷改革にも意を配り、皇室財産確立を意図し、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど華族の地位を擁護し、近代天皇制の確立に努めました。しかし、1883年(明治16)7月20日に、東京において、数え年59歳で亡くなり、太政大臣を追贈されると共に、国葬が執り行われています。

〇岩倉具視関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1825年(文政8年9月15日) 京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれる
・1837年 (天保8年8月8日)  岩倉具慶の養子となる
・1838年(天保9年10月28日) 従五位下に叙位される
・1838年(天保9年12月11日) 元服し、昇殿を許される
・1841年(天保12年6月4日) 従五位上に昇叙される
・1845年(弘化2年2月18日) 正五位下に昇叙される
・1853年(嘉永6年) 歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接する
・1854年(安政元年3月20日) 孝明天皇の侍従となる
・1854年(安政元年6月10日) 従四位下に昇叙する
・1858年(安政5年2月) 幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏する
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現する
・1860年(万延元年12月29日) 右近衛権少将に転任する
・1861年(万延2年1月5日) 正四位下に昇叙する
・1861年(文久元年) 和宮に随従し江戸に赴き帰京する
・1862年(文久2年4月) 島津久光に面会、「三事策」を提示して公武合体運動を支持する
・1862年(文久2年5月15日) 左近衛権中将に転任する
・1862年(文久2年8月20日) 和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任し、蟄居する
・1862年(文久2年8月22日) 落髪し、法名を友山とする
・1865年(慶応元年)春頃 非蔵人松尾相永の訪問を受けてより、同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し、政界復帰への意欲を深める
・1866年(慶応2年8月) 親幕派の関白二条斉敬、朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗する
・1867年(慶応3年6月) 坂本竜馬、中岡慎太郎、次いで大久保利通との交流が始まる
・1867年(慶応3年10月) 中山忠能、正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す
・1867年(慶応3年12月8日) 処分を解除される
・1867年(慶応3年12月9日) 政変を断行し、明治政府参与を兼務する
・1867年(慶応3年12月27日) 明治新政府参与から議定に異動兼務する
・1868年(慶応4年1月9日) 明治新政府の副総裁を兼任する
・1868年(慶応4年1月27日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務する
・1868年(慶応4年2月2日) 従三位昇叙し、右兵衛督に任官する(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)
・1868年(慶応4年2月20日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職する
・1868年(慶応4年閏4月20日) 政府副総裁を辞職する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相を兼務する
・1868年(明治2年1月7日) 輔相を辞任する
・1868年(明治2年1月25日) 正二位に昇叙し、権大納言に転任する
・1868年(明治2年7月8日) 制度改正により、上局議定より大納言に異動する
・1868年(明治2年8月) 王政復古の功により永世禄として5,000石を授けられる
・1868年(明治2年11月23日) 兵部省御用掛兼務となる
・1869年(明治3年) 勅使として鹿児島,山口へ赴き、島津久光、毛利敬親に面会、新政府強化のため両藩の協力を要請する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県に伴う官制改革で外務卿となる
・1871年(明治4年10月8日) 右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動する
・1871年(明治4年11月12日) 条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国の巡回へ向かう
・1873年(明治6年)9月13日 米欧視察から帰国する
・1873年(明治6年)10月20日 太政大臣代理を兼任するが、同日のみとなる
・1873年(明治6年)10月24日 征韓中止の勅裁を得る
・1874年(明治7年)1月 赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる
・1876年(明治9年)4月9日 華族会館長に就任する
・1876年(明治9年)5月18日 従一位昇叙する
・1876年(明治9年)5月26日 華族督部長兼務する
・1876年(明治9年)12月29日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させる
・1882年(明治15年)11月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1882年(明治15年)11月15日 華族督部長職廃止に伴い止む
・1882年(明治15年)12月4日 華族会館長を辞職する
・1883年(明治16年)4月7日 宮内省編纂局総裁心得を兼務する
・1883年(明治16年)7月20日 東京において、数え年59歳で亡くなる
・1883年(明治16年)7月23日 太政大臣が追贈される
・1883年(明治16年)7月25日 国葬が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)江戸幕府第14代将軍徳川家茂の命日(新暦8月29日)詳細
1907年(明治40)豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す詳細
1948年(昭和23年)国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する詳細
1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕詳細


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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、近衛文麿の東京の私邸(荻外荘)に於いて、荻窪会談が開催された日です。
 荻窪会談(おぎくぼかいだん)は、第二次近衛内閣の組閣を任された近衛文麿が、東京府東京市杉並区の私邸(荻外荘)で、大臣就任予定者を招いて開いた会談で、松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)の計4名が参加しました。ここにおいて、ドイツ・イタリアとの提携強化を含む第二次近衞内閣(7月22日発足)の基本方針が話し合われます。
 当時は、日中戦争が長期化・大規模化する中、ドイツ軍の電撃戦の成功によって、ドイツはベルギー、フランスを席巻し、さらにフランスを降伏させたことで日本の支配層の南進の野望が大きくなった時代背景の下にありました。その内容は、戦争路線の方針決定、日独伊枢軸の強化、日ソ不可侵協定の締結、英・仏・蘭・葡の植民地を東亜新秩序に包含せしめるための積極的処理の実施などとなります。
 この会談後、7月22日に第二次近衛内閣が発足し、その政策として、日独伊三国同盟の締結・全政党解散・大政翼賛会の発会などが行われ、日本型ファシズムの道へと邁進しました。しかし、日米開戦の回避を巡る政府部内で意見が対立し、近衛首相は東條陸相と何度も話し合いをしたものの、妥協点が見つからず、なお戦争回避を模索しつつ、1941年(昭和16)10月16日に総辞職します。
 その後、東條英機内閣が成立しましたが、同年12月8日に「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(宣戦詔勅)」が出され、米英両国に宣戦布告、太平洋戦争に突入することとなりました。
 以下に、「荻窪会談覚書」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「荻窪会談覚書」 1940年(昭和15)7月19日

一九四〇年七月十九日

一、 支那事變ノ處理及世界新情勢ニ對應スヘキ我方施策ヲ展開スルタメ我戰時經濟政策ノ强化確立ヲ以テ內外政策ノ根基トス之カタメ我經濟活動ハ作戰軍カ軍ノ生存上自ラ處理指導スルコトヲ絕對必要トスルモノヲ除キ一切政府ニ於テ一元的ニ指導シ極力之ヲ振作ス

二、 對世界政策
(一) 世界情勢ノ急變ニ對應シ且速ニ東亞新秩序ヲ建設スルタメ日獨伊樞軸ノ强化ヲ圖リ東亞諸國ハ互ニ策應シテ諸般ノ重要政策ヲ遂行ス但シ右樞軸强化ノ方法及ヒ之カ實現ノ時機等ニ就テハ世界情勢ニ卽應シテ機宜ヲ失ハサルコトヲ期ス
(二) 對ソ關係ハ之ト日滿蒙間國境不可侵協定(有効期間五年乃至十年)ヲ締結シ且懸案ノ急速解決ヲ圖ルト共ニ右不可侵協定有効期間內ニ對ソ不敗ノ軍備ヲ充實ス。
(三) 東亞及隣接島嶼ニ於ケル英佛蘭葡殖民地ヲ東亞新秩序ノ內容ニ包含セシムルタメ積極的ノ處理ヲ行フ但右ニ關シ列國會議ヲ排除スルニ努ム
(四) 米國ニ對シテハ無用ノ衝突ヲ避クルモ東亞新秩序ノ建設ニ關スル限リ彼ノ實力干涉ヲモ排除スルノ固キ決意ヲ以テ我方針ノ實現ヲ期ス

  「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

☆荻窪会談から太平洋戦争開戦に至る略年表

<1940年(昭和15)>

・7月19日 荻窪会議が開催される
・7月21日 第二次近衛内閣が発足、日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会に合流する
・7月26日 第二次近衛内閣によって国家の政策の基本方針である「基本国策要綱」が閣議決定される
・7月27日 大本營政府連絡会議において「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される
・8月1日 東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止し、販売時間制を実施、東京に「ぜいたくは敵だ!」の立看板1,500本が立てられる
・8月15日 立憲民政党が解党され、日本の全政党が解散、大日本農民組合も解散される
・8月19日 新協・新築地両劇団員100余人が検挙される
・8月30日 文部省が学生生徒の映画・演劇鑑賞を土曜・休日に限ると通達する
・9月 鉄道省によって駅構内の英語表記撤廃検討される
・9月11日 内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達、隣組(隣保班)が制度化される
・9月27日 日独伊三国同盟が締結される
・10月6日 大阪で、女子モンペ部隊が、贅沢全廃強調大行進を行う
・10月10日 「牛乳および乳製品配給統制規則」が交布される
・10月12日 大政翼賛会が発足する
・10月24日 農林省令「米穀管理規則」が交布される
・10月31日 東京でダンスホールが完全閉鎖され、タバコの改名が発表される(ゴールデンバット→金鵄、チェリー→桜、カメリア→椿など)
・11月1日 砂糖・マッチ切符制の全国実施がされる
・11月2日 「国民服令」が公布・施行、男子の服装として国民服が定められる
・11月10日 紀元2600年祝賀行事が行われる(昼酒が許可されもち米が特配される)
・11月23日 大日本産業報国会が結成される

<1941年(昭和16)>

・1月1日 全国の映画館で、ニュース映画の強制上映が実施される
・1月11日 「新聞紙等掲載制限令」が公布される
・1月16日 大日本青少年団が結成される
・1月22日 「人口政策確立要綱」が閣議決定される(生めよ殖やせよ)
・1月25日 東京などの商店で午後9時閉店を実施する
・3月1日 「国民学校令」が交布され、尋常小学校(6年)・高等小学校(2年)が、国民学校(初等科6年・高等科2年)に変更される
・3月7日 「国防保安法」が交布される
・3月10日 「治安維持法」改正(予防拘禁制を追加)が交布される
・3月19日 時間外電報が廃止され、慶弔電報の取扱いが中止され、厚生省が婦人標準服研究会を組織する
・3月31日 朝鮮総督府、朝鮮語を学習科目から外す
・4月1日 「生活必需物資統制令」が交布され、六大都市で米穀配給通帳制(1日1人2合3勺=約330g)が実施、米の配給受け取りに必要となる
・4月上旬 中学校新入生の制服が男子は国民服に戦闘帽、女子は襟を右前にしたへちま型となる
・5月8日 初の「肉なしデー」実施、以後月2回とされる(肉屋・食堂で肉の不売実施)
・5月19日 東京市が夏季ビールの配給は1世帯8本と決定する
・6月7日 家庭用食用油の切符制が実施される
・6月10日 「新婦人団体結成要綱」が閣議決定される
・7月1日 全国の隣組、いっせいに常会を開く(以後毎月1日実施)
・7月2日 第5回御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定される
・7月18日 第三次近衛内閣が発足する
・7月21日 文部省教学局から『臣民の道』が刊行される
・7月28日 日本軍が南部仏印進駐を開始する
・8月10日 鉄道省がガソリン節約のためガソリンカーの運転を削減する
・8月30日 「金属類回収令」が交布され、大学に教練担当現役将校が配属される
・9月1日 東京市で砂糖・マッチ・小麦粉・食用油の集成配給切符制が実施され、ガソリンを使用するタクシーが禁止される
・9月6日 第6回御前会議において「帝国国策遂行要綱」が決定される
・9月19日 内閣情報局の指示で、映画制作会社10社が松竹・東宝・大映の三社に統合される
・10月1日 一般家庭用ガスの使用制限が実施される
・10月4日 「臨時郵便取締令」が公布され、外国郵便を開封検閲するようになる
・10月10日 農林省が芋類の増産と桑園の整理を通牒する
・10月16日 第三次近衛内閣が総辞職し、東条英機内閣が誕生する
・10月19日 婦人国民服が公募され、入選発表される
・11月 たばこが値上げされる(敷島35銭、朝日25銭、光18銭)
・11月5日 第7回御前会議において「帝国国策遂行要綱」が決定される
・11月22日 「国民勤労報国協力令」が交布され、14~40歳の男子と14~25歳の未婚女子の年30日以内の勤労奉仕が義務化される
・12月8日 「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(宣戦詔勅)」が出され、米英両国に宣戦布告、太平洋戦争が始まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

931年(承平元)第59代の天皇とされる宇多天皇の命日(新暦9月3日)詳細
1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細


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 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、東洋史学者・評論家内藤湖南の生まれた日ですが、新暦では8月27日となります。
 内藤湖南(ないとう こなん)は、秋田県鹿角郡毛馬内町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれましたが、名は虎次郎と言いました。7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳の時に『日本外史』を通読、さらに詩作を始めたとされます。
 1885年(明治18)に秋田師範高等科を卒業後、綴子(つづれこ)小学校の主席訓導となりましたが、約1年で辞めて、1887年(明治20)には上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事しました。その後、「大同新報」の記者、機関紙「日本人」の編集、「三河新聞」の編集と渡り歩き、1894年(明治27)には、大阪朝日新聞に入ります。
 さらに、「台湾日報」主筆や「万朝報」などの編集で名を馳せ、中国問題の論壇第一人者となりました。1907年(明治40)に狩野亨吉によって京都帝国大学に招かれ、文科大学史学科東洋史学講座講師となります。
 2年後の1909年(明治42)に教授に昇任し、翌年には、狩野亨吉総長の推薦により文学博士となりました。1926年(大正15)に京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となり、翌年には、京都帝国大学名誉教授となります。
 この間、数次にわたり、中国、朝鮮、満州、欧州を訪問、敦煌文書などを調査し、狩野直喜と共に、東洋史・支那学における京都学派を育てました。また、邪馬台国の所在地をめぐる論争では、畿内説を主張し、九州説を唱えた東京帝国大学の白鳥庫吉と激しい論争が展開されます。
 定年退官後は、京都府瓶原村(現在の木津川市)の恭仁(くに)山荘に隠棲し、読書著述の日々を過ごしました。その中で、1929年(昭和4)に東方文化学院京都研究所(現在の京大人文科学研究所)評議員となったり、国宝保存会委員などの要職を続けたものの、1934年(昭和9)6月26日に、数え年69歳で亡くなっています。

〇内藤湖南の主要な著作

・『支那史学史』
・『日本文化史研究』
・『中国近世史』
・『清朝史通論』
・『支那論』
・『中国絵画史』
・『燕山楚水(えんざんそすい)』

☆内藤湖南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1866年(慶応2年7月18日) 秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれる
・1872年(明治5年) 7歳で『二十四孝』と四書を習得する
・1878年(明治11年) 13歳の時、『日本外史』を通読し、さらに詩作を始める
・1885年(明治18年) 秋田師範高等科を卒業後、小学校教育に従事する
・1887年(明治20年) 上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事する
・1894年(明治27年) 大阪朝日新聞に入る 
・1907年(明治40年) 京都帝国大学文科大学史学科東洋史学講座講師となる
・1909年(明治42年) 京都帝国大学教授に就任する
・1910年(明治43年) 狩野亨吉総長の推薦により文学博士となる
・1924年(大正13年)2月15日 従四位となる
・1924年(大正13年)2月23日  勲三等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となる
・1927年(昭和2年) 京都帝国大学名誉教授となる
・1929年(昭和4年) 東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)評議員となる
・1934年(昭和9年)6月26日 数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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 今日は、江戸時代前期の1661年(寛文元)に、蕉門十哲の一人である俳人、宝井其角が生まれた日ですが、新暦では8月11日となります。
 宝井其角(たからい きかく)は、江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれ、初め、母方の姓榎本を名乗りました。草刈三越に医、大顚和尚に禅・詩・易、服部寛斎に儒、佐々木玄竜に書、英一蝶に絵を学びます。
 早熟の才子で、15歳頃に松尾芭蕉の門に入り、1679年(延宝7)に刊行された『坂東太郎』に発句3句が載りました。20歳代の頃、天和調が盛んな中で、芭蕉の指導の下に、俳諧集『田舎之句合(いなかのくあわせ)』、『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などを編纂しています。
 1688年(貞享5)に上方へ旅立ち、膳所水楼に遊んだり、嵯峨を吟遊したりし、江戸に戻って宝井を名乗るようになりました。1690年(元禄3)に俳諧集『いつを昔』を刊行、翌年には、俳諧集『猿蓑』(去来・凡兆共編)に序文を寄せ、芭蕉と共に句会に連なるなど、蕉風の樹立、展開に寄与し、服部嵐雪とともに蕉門の桜桃と並称され、蕉門十哲の一人ともされています。
 1694年(元禄7)に上方へ旅立ち、偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じ、芭蕉没後に追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行しました。その後は、洒落ふうに傾き、江戸座を興し、豪放闊達な都会風な作風として知られています。
 晋永機、藤井晋流、稲津祇空、常盤潭北はじめ、門人も多く育てましたが、1707年(宝永4年2月30日)に、江戸において、数え年47歳で亡くなりました。尚、死後に遺稿集『類柑子』(1707年)や発句集『五元集』(1747年)が刊行されています。

<代表的な句>

・「草の戸に 我は蓼食ふ 蛍哉」(虚栗)
・「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな」(武蔵曲)
・「暁の 反吐は隣か 時鳥」(焦尾琴)
・「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)
・「なきがら を笠に隠すや 枯尾花」(枯尾花)
・「夢に来る 母をかへすか 時鳥」(続虚栗)
・「切られたる 夢は誠か 蚤の跡」(花摘)
・「雪の日や 船頭どのゝ 顔の色」(あら野)

〇宝井其角の主要な著作

・俳諧集『田舎句合(いなかのくあわせ)』 (1680年)
・俳諧集『虚栗 (みなしぐり)』(1683年)
・俳諧集『続虚栗』(1687年)
・俳諧集『いつを昔』(1690年)
・俳諧集『花摘』(1690年)
・『雑談集』(1692年)
・俳文集『枯尾花(かれおばな)』(1694年)
・『句兄弟』(1694年)
・『末若葉 (うらわかば)』(1697年)
・『焦尾琴 (しょうびきん)』(1701年)
・句文集『類柑子』(1707年)
・発句集『五元集』(1747年)

☆宝井其角関係略年表(日付は旧暦です)

・1661年(寛文元年7月17日) 江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれる
・1675年(延宝3年)頃 15歳ごろ芭蕉門に入る
・1679年(延宝7年) 刊行された『坂東太郎』に発句3句が見える
・1680年(延宝8年) 俳諧集『田舎句合(いなかのくあわせ)』を刊行する
・1681年(延宝9年) 芭蕉の才丸・揚水らと四吟二百五十韻を『俳諧次韻江戸桃青』として板行される
・1683年(天和3年) 俳諧集『虚栗(みなしぐり)』を刊行する
・1684年(貞享元年2月15日) 江戸を立って上京する
・1684年(貞享元年6月5日) 大坂の住吉神社で伊原西鶴は大矢数俳諧を行い、その立会人となる
・1685年(貞享2年) 芭蕉が出羽の鈴木清風を迎えての小石川での百韻興行にコ斎・才丸・素堂・嵐雪と参加する
・1686年(貞享3年) 芭蕉庵にて月見の会あり、隅田川で舟遊びをする
・1687年(貞享4年4月8日) 母が亡くなる
・1687年(貞享4年10月25日) 江戸深川を出て帰郷する芭蕉を見送る
・1687年(貞享4年11月13日) 俳諧集『続虚栗』を刊行する
・1688年(貞享5年9月) 上方へ旅立つ
・1688年(元禄元年10月2日) 曲翠と共に膳所水楼に遊ぶ
・1688年(元禄元年10月20日) 加生と共に去来を訪ね、嵯峨を吟遊する 
・1688年(元禄元年11月27日) 加生と共に尚白亭を訪ねる 
・1690年(元禄3年4月) 俳諧集『いつを昔』を刊行する
・1691年(元禄4年7月3日) 俳諧集『猿蓑』(去来・凡兆共編)に序文を寄せる
・1692年(元禄5年2月) 『雑談集』を刊行する
・1692年(元禄5年12月20日) 松山藩主松平貞直の藩医青地彫棠は芭蕉・其角・桃隣・黄山・銀杏を迎えて連句の会を催す
・1693年(元禄6年5月) 許六が木曽路を経て帰郷するにあたり、餞別の句を贈る
・1693年(元禄6年8月29日) 父東順が72歳で亡くなる
・1694年(元禄7年8月5日) 『句兄弟』を刊行する
・1694年(元禄7年9月6日) 上方へ旅立つ
・1694年(元禄7年10月11日) 偶然にも芭蕉の他界の前日、大坂の病床に参じる
・1694年(元禄7年) 追悼俳諧・俳文集『枯尾華(かれおばな)』を刊行する
・1696年(元禄9年1月) 弟子素見・紫紅を連れて出山寺に遊ぶ
・1697年(元禄10年) 『末若葉 (うらわかば)』を刊行する
・1698年(元禄11年6月22日) 芝三田の新庵有竹居に移る
・1698年(元禄11年12月10日) 有竹居が火災に遭う
・1698年(元禄11年) 『皮籠摺』(涼莵編)の観光に際し、序文を寄せる
・1701年(元禄14年) 『焦尾琴 (しょうびきん)』を刊行する
・1705年(宝永2年) 園女が頼って江戸に出てきて、富岡八幡宮の門前に住む
・1706年(宝永3年11月22日) 娘「みわ」が10歳で亡くなる
・1707年(宝永4年2月23日) 祇空が訪れてきて両吟、これが其角の辞世の句となる
・1707年(宝永4年2月30日) 江戸において、数え年47歳で亡くなる 
・1707年(宝永4年) 遺稿集『類柑子』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(元和元)江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定する(新暦9月9日)詳細
1795年(寛政7)画家・円山派の祖円山応挙の命日(新暦8月31日)詳細
1945年(昭和20)ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)が始まる詳細
1981年(昭和56)俳人・医師水原秋桜子の命日詳細
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