今日は、平成時代の2006年(平成18)に、小説家吉村昭の亡くなった日です。
吉村昭(よしむら あきら)は、1927年(昭和2)5月1日 東京・日暮里で、ふとん綿を製造する工場と綿糸紡績の工場を経営する父・吉村隆策、母・きよじの八男として生まれました。1940年(昭和15)に、私立東京開成中学校に入学し、小説に興味をいだくようになり、校内雑誌に作文も掲載されています。
1944年(昭和19)に母を、翌年に父を次々と亡くしましたが、1946年(昭和21)には、旧制学習院高等科に入学しました。しかし、1948年(昭和23)に喀血し、旧制学習院高等科を中途退学し、1950年(昭和25)には、療養生活を経て、新制学習院大学文政学部文学科に入学します。
1952年(昭和27)に文芸部委員長になり、短篇を「赤繪」(「學習院文藝」改称)に発表したものの、1953年(昭和28)には、体力不足になり、さらに学費を長期滞納したことで、大学を除籍となり、三兄の経営する紡績会社に入社し、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚しました。1955年(昭和30)に、丹羽文雄主宰の『文学者』に参加、1958年(昭和33)には、短篇集『青い骨』を自費出版、『週刊新潮』に短篇「密会」を発表して商業誌にデビューします。
1959年(昭和34)に『鉄橋』、『貝殻』、1962年(昭和37)に『透明標本』、『石の微笑』が芥川賞候補となりましたが、いずれも受賞には至りませんでした。1966年(昭和41)に、『星への旅』で第2回太宰治賞を受賞、同年の『戦艦武蔵』で一転して戦史小説にチャレンジし、『海の史劇』、『関東大震災』(ともに1972年)などを発表しています。
その後も、1972年(昭和47)の『深海の使者』で第34回文藝春秋読者賞、1973年(昭和48)に一連のドキュメント作品で第21回菊池寛賞、1979年(昭和54)に『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞、1985年(昭和60)に『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞、『破獄』で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。さらに、1987年(昭和62)に日本芸術院賞、1994年(平成6)に『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞し、1997年(平成9)には、日本芸術院会員となります。
2004年(平成16)から2006年(平成18)まで、日本芸術院第二部長も務めましたが、2005年(平成17)に癌を宣告され、2006年(平成18)7月31日に、東京都三鷹市の自宅において、79歳で亡くなりました。尚、2017年(平成29)には、東京都荒川区の複合施設「ゆいの森あらかわ」内に「吉村昭記念文学館」が開設されています。
〇吉村昭の主要な著作
・『鉄橋』(1958年)第40回芥川賞候補
・『貝殻』(1959年)第41回芥川賞候補
・『透明標本』(1961年)第46回芥川賞候補
・『石の微笑』(1962年)第47回芥川賞候補
・『少女架刑』(1963年)
・『星への旅』(1966年)第2回太宰治賞受賞
・『戦艦武蔵』(1966年)
・『高熱隧道』(1966年)
・『水の葬列』(1967年)
・『零式戦闘機』(1967年)
・『神々の沈黙』(1969年)
・『陸奥爆沈』(1970年)
・『深海の使者』(1972年)第34回文藝春秋読者賞受賞
・『海の史劇』(1972年)
・『関東大震災』(1972年)
・『北天の星』(1975年)
・『ふぉん・しいほるとの娘』(1979年)吉川英治文学賞受賞
・『海も暮れる』(1980年)
・『虹の翼』(1980年)
・『破獄』(1984年)読売文学賞・芸術選奨文部大臣賞受賞
・『冷い夏,熱い夏』(1985年)毎日芸術賞受賞
・風物誌『東京の下町』(1985年)
・『桜田門外の変』(1990年)
・短編集『法師蝉(ほうしぜみ)』(1993年)
・『天狗争乱』(1994年)大佛次郎賞受賞
・『再婚』(1995年)
・『彦九郎山河』(1995年)
・『生麦(なまむぎ)事件』(1998年)
・『夜明けの雷鳴』(2000年)
・回想記『東京の戦争』(2001年)
☆吉村昭関係略年表
・1927年(昭和2)5月1日 東京・日暮里で、ふとん綿を製造する工場と綿糸紡績の工場を経営する父・吉村隆策、母・きよじの八男として生まれる
・1934年(昭和9)4月 東京市立第四日暮里尋常小学校へ入学する
・1940年(昭和15)4月 私立東京開成中学校に入学する
・1944年(昭和19) 母が子宮癌で死去する
・1945年(昭和20)12月 父が癌で死去する
・1946年(昭和21) 旧制学習院高等科に入学する
・1948年(昭和23) 喀血し、旧制学習院高等科を中途退学する
・1950年(昭和25)4月 療養生活を経て、新制学習院大学文政学部文学科に入学する
・1952年(昭和27) 文芸部委員長になり、短篇を『學習院文藝』改称『赤繪』に発表する
・1953年(昭和28) 大学を除籍となり、三兄の経営する紡績会社に入社するも、10月末に退社、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚する
・1955年(昭和30) 丹羽文雄主宰の『文学者』に参加する
・1958年(昭和33) 短篇集『青い骨』を自費出版、『週刊新潮』に短篇「密会」を発表して商業誌にデビューする
・1959年(昭和34) 『鉄橋』が第40回芥川賞候補、『貝殻』が第41回芥川賞候補となる
・1962年(昭和37) 『透明標本』が第46回芥川賞候補、『石の微笑』が第47回芥川賞候補となる
・1965年(昭和40) 妻の津村節子が芥川賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『星への旅』で第2回太宰治賞を受賞する
・1972年(昭和47) 『深海の使者』が第34回文藝春秋読者賞を受賞する
・1973年(昭和48) 『戦艦武蔵』、『関東大震災』など一連のドキュメント作品で第21回菊池寛賞を受賞する
・1979年(昭和54) 『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞を受賞する
・1985年(昭和60) 『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞、『破獄』で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1987年(昭和62) 日本芸術院賞を受賞する
・1994年(平成6) 『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞する
・1997年(平成9) 日本芸術院会員となる
・2004年(平成16) 日本芸術院第二部長となる
・2006年(平成18)7月31日 東京都三鷹市の自宅において、79歳で亡くなる
・2017年(平成29) 東京都荒川区の複合施設「ゆいの森あらかわ」内に「吉村昭記念文学館」が開設される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1875年(明治8) | 民俗学者柳田國男の誕生日 | 詳細 |
1948年(昭和23) | 「政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される | 詳細 |
1952年(昭和27) | 警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される | 詳細 |
1986年(昭和61) | 外交官・在リトアニア日本領事代理杉原千畝の命日 | 詳細 |