ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年06月

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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、 第33回大本営政府連絡会議において、「南方施策促進に関する件」が決定され、同日上奏裁可された日です。
 「南方施策促進に関する件(なんぽうしさくそくしんにかんするけん)」は、第33回大本営政府連絡会議において、南部仏領インドシナへ(南部仏印)への進駐を決定したもので、同日に昭和天皇に上奏し裁可されました。しかし、松岡外相は、3日前の6月22日に勃発した独ソ戦の緒戦の状況が伝えられるに及び、ソビエト連邦への攻撃を主張、南部仏印進駐の延期を求めて陸海軍首脳と対立するようになります。
 松岡外相は、「節操ナキ発言言語道断ナリ」、「国策ノ決定実行ニ大ナル支障ヲ与フルコト少カラズ」(『機密戦争日誌』)というように軍部首脳から激しく批判され、結局、6月30日に原案通り南部仏印進駐を行うことが決定されました。そして、7月2日の昭和天皇臨席の第5回御前会議において、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定され、海軍が主張する南方進出と、陸軍が主張する対ソ戦の準備という二正面での作戦展開を目指すものとなります。
 この決定を受け、対ソ戦の準備としては、7月7日に「関東軍特種演習」を発動して演習名目で兵力を動員し、また、南方進出では、7月28日の南部仏印進駐が実行されました。ところが、これによりアメリカの経済制裁を受け、石油の対日輸出が全面禁止されるなど困難な状況に追い込まれ、12月8日の太平洋戦争開戦へと至ることとなります。
 以下に、第33回大本営政府連絡会議の「南方施策促進に関する件」と第5回御前会議の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「南方施策促進に関する件」1941年(昭和16)6月25日

南方施策促進ニ關スル件

昭和十六年六月二十五日

大本營政府連絡會議決定

一、帝國ハ現下諸般ノ情勢ニ鑑ミ旣定方針ニ準據シテ對佛印泰施策ヲ促進ス特ニ蘭印派遣代表ノ歸朝ニ關聯シ速ニ佛印ニ對シ東亞安定防衛ヲ目的トスル日佛印軍事的結合關係ヲ設定ス

佛印トノ軍事的結合關係設定ニ依リ帝國ノ把握スヘキ要件左ノ如シ

(イ) 佛印特定地域ニ於ケル航空基地及港灣施設ノ設定又ハ使用竝ニ南部佛印ニ於ケル所要軍隊ノ駐屯

(ロ) 帝國軍隊ノ駐屯ニ關スル便宜供與

二、前號ノ爲外交交涉ヲ開始ス

三、佛國政府又ハ佛印當局者ニシテ我カ要求ニ應セサル場合ニハ武力ヲ以テ我カ目的ヲ貫徹ス

四、前號ノ場合ニ處スル爲豫メ軍隊派遣準備ニ着手ス

  「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

〇「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」 1941年(昭和16)7月2日御前会議決定

  第一 方針

一、帝國ハ世界情勢變轉ノ如何ニ拘ラス大東亞共榮圏ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與セントスル方針ヲ堅持ス

二、帝國ハ依然支那事變處理ニ邁進シ且自存自衛ノ基礎ヲ確立スル爲南方進出ノ步ヲ進メ又情勢ノ推移ニ應シ北方問題ヲ解決ス

三、帝國ハ右目的達成ノ爲如何ナル障害ヲモ之ヲ排除ス

  第二 要領

一、蔣政權屈服促進ノ爲更ニ南方諸域ヨリ壓力ヲ强化ス情勢ノ推移ニ應シ適時重慶政權ニ對スル交戰權ヲ行使シ且支那ニ於ケル敵性租界ヲ接收ス

二、帝國ハ其ノ自存自衛上南方要域ニ對スル必要ナル外交交涉ヲ續行シ其ノ他各般ノ施策ヲ促進ス

 之カ爲メ對英米戰準備ヲ整へ先ツ「對佛印泰施策要綱」及「南方施策促進ニ關スル件」ニ據リ佛印及泰ニ對スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ强化ス

 帝國ハ本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス

三、獨「ソ」戰ニ對シテハ三國樞軸ノ精神ヲ基調トスルモ暫ク之ニ介入スルコトナク密カニ對「ソ」武力的準備ヲ整ヘ自主的ニ對處ス此ノ間固ヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交涉ヲ行フ

 獨「ソ」戰爭ノ推移帝國ノ爲メ有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北邊ノ安定ヲ確保ス

四、前號遂行ニ當リ各種ノ施策就中武力行使ノ決定ニ際シテハ對英米戰爭ノ基本態勢ノ保持ニ大ナル支障ナカラシム

五、米國ノ參戰ハ旣定方針ニ從ヒ外交手段其他有ユル方法ニ依リ極力之ヲ防止スヘキモ萬一米國カ參戰シタル場合ニハ帝國ハ三國條約ニ基キ行動ス但シ武力行使ノ時機及方法ハ自主的ニ之ヲ定ム

六、速カニ國內戰時體制ノ徹底的强化ニ移行ス特ニ國土防衛ノ强化ニ勉ム

七、具體的措置ニ關シテハ別ニ之ヲ定ム

  「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1734年(享保19)読本作者・歌人・国学者上田秋成の誕生日(新暦7月25日)詳細
1884年(明治17)岡倉天心とフェノロサが法隆寺夢殿の救世観音を調査詳細
1894年(明治27)「(第1次)高等学校令」が公布(施行は同年9月11日)される詳細
1943年(昭和18)学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定される詳細
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 今日は、南北朝時代の1361年(正平16/康安元)に、南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震(M8~8.5)が起きた日ですが、新暦では7月26日となります。
 正平地震(しょうへいじしん)は、この日の午前4時頃に、西日本太平洋沖で起きたと推定されていますが、諸史料によると、すでに6月21日から大規模な前震が始まっていたとされてきました。この前震でも奈良の法隆寺等の社寺の被害があったことなどが記録されています。
 さらに、本震では、四天王寺で金堂が倒壊し、5 人が圧死(後愚昧記)、「熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。」(斑鳩嘉元記)、また太平洋岸には津波が押し寄せ、「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈し」、「摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。」(太平記)、「安居殿御所西浦マテシオミチテ、其間ノ在家人民多以損失」(斑鳩嘉元記)など甚大な被害が出たと書かれました。引き続いて、余震も多く発生し、10月頃まで続いたとされます。
 このため、翌年の9月23日に兵革・疫病・天変地異終息を願って「貞治」に改元されました。尚、徳島県海部郡美波町東由岐に、この時の大地震津波の死者の供養碑と伝承されている「康暦の碑」(町指定文化財)が残され、日本最古の地震津波碑とされています。
 以下に、この地震のことを記した『愚管記』、『後愚昧記』、『斑鳩(いかるが)嘉元記』、『太平記』巻第三十六の大地震並夏雪事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『愚管記』(公卿・近衛道嗣の日記)

伝聞、去月廿二日同廿四日大地震之時、熊野社頭并假殿以下、三山岩屋以下秘所秘木秘石等、悉破滅(後略)

〇『後愚昧記』(公卿・三条公忠の日記)

今暁大地震。四天王寺金堂顚倒、成微塵了。又大塔空輪落塔傾(中略)、伶人一人、承人二人、在庁二人圧死。

〇『斑鳩嘉元記』(鎌倉時代後期~南北朝時代の法隆寺寺内と近辺の出来事の記録)

康安元年、六月廿二日卯時、大地震これ在り。当寺東院、南大門西脇築地半本、同院中ノ門北脇築地一本、西寺の南大門西脇築地半本倒る。同月廿四日卯時、大地震これ在り、当寺には御塔九輪の上火災、一折燃て下もヘはをちず、金堂東の間仏壇下燃ヘ崩れをつ。東大門北脇築地少しく破れ落ち、伝法堂辰巳角かへ南へ落ち破る。薬師寺金堂の二階かたぶき破れ、御塔、中門、廻廊悉く顛倒す。同西院顛倒し、此の外諸堂破損すと云々。招提寺塔九輪大破損、西廻廊皆顚倒し、渡廊悉く破れ畢んぬ。天王寺金堂破れ倒れぬ。又安居院御所西浦までしほみちて、其の間の在家人民多く以て損失すと云々。熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。

〇『太平記』巻第三十六 

大地震並夏雪事

同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月(注:六月の誤り)二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月(注:六月の誤り)二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1839年(天保10)蛮社の獄渡辺崋山高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争中の1944年(昭和19)に、北海道有珠郡の東九万坪台地より、昭和新山の第1次大噴火が起き、第1火口を形成した日です。
 昭和新山(しょうわしんざん)は、北海道南部,洞爺湖の南岸(有珠郡壮瞥町)に位置し、有珠山の東麓にある側火山で、1943年(昭和18)~1945(昭和20)の活動で生成されました。現在の標高は398mで、畑地が隆起した屋根山と石英安山岩の溶岩円頂丘(ベロニーテ)からなっています。
 1943年(昭和18)12月28日から付近で有感地震が続発し、翌年1月から人家に近い平らな麦畑が隆起し始め、「屋根山」と名づけられた丘を生じました。その中で、6月23日8時15分には、東九万坪台地より第1次大噴火が起き、第1火口を形成、その後10月30日までに第17次にわたる大噴火が起き、それで噴火は終息します。そして、12月から溶岩ドームの推上が始まり、1945年(昭和20)9月20日には、全活動が停止され、溶岩ドーム主塔の高さは175mとなりますが、現在まで赤褐色の岩肌からガスを噴出してきました。
 その生成過程については、当時壮瞥郵便局長でのちにこの山の所有者となった三松正夫氏によって克明に記録(三松ダイヤグラム)され、貴重な学問的資料となって、世界的に知られることとなります。1988年(昭和63)には、山麓に「三松正夫記念館」が開館し、三松氏による観測記録「三松ダイヤグラム」を含む資料類が展示されるようになりました。
 この山は、1949年(昭和24)に支笏洞爺国立公園の一部として指定され、1951年(昭和26)に国の天然記念物となり、さらに、1957年(昭和32)には、特別天然記念物に昇格しています。また、2007年(平成19)に「日本の地質百選」(第1期)に「有珠山・昭和新山」として選定され、2008年(平成20)に「洞爺湖有珠山ジオパーク」として、日本ジオパークネットワークに、2009年(平成21)には、世界ジオパークネットワークに加盟認定されました。

〇昭和新山関係略年表

<1943年(昭和18)>
・12月28日 この日以降有珠山一帯を襲った連続的地震が火山活動の先駆となる

<1944年(昭和19)>
・1月4日 フカバ集落の湧水の温度が上昇し、20℃だったものが43℃に達する
・1月5日 洞爺湖に巨大な渦巻きが発生、同日レールの隆起により胆振線が不通となる
・2月~5月 フカバ集落・柳原集落・東九万坪・西九万坪一帯で隆起活動が続く
・6月21日 壮瞥川が川底の隆起によって氾濫する
・6月23日 8時15分、東九万坪台地より第1次大噴火が起き、第1火口を形成する
・6月27日 6時、第2次大噴火が起き、第2火口を形成する   
・7月2日 0時頃に第3次大噴火が起き、第3火口を形成、苫小牧、千歳方面に降灰がある
・7月3日 8時30分に第4次大噴火が起き、室蘭、登別方面に降灰がある
・7月11日 10時40分に第5次大噴火が起き、噴煙が強風に倒され、洞爺湖畔を襲う
・7月13日 18時10分に第6次大噴火が起き、第4火口を形成する
・7月15日 21時に第7次大噴火が起きる
・7月24日 5時に第8次大噴火が起きる
・7月25日 5時10分に第9次大噴火が起きる
・7月29日 14時20分に第10次大噴火が起き、登別、白老方面に降灰、亜硫酸ガス噴出で山林が荒廃する
・8月1日 23時55分に第11次大噴火が起き、室蘭方面に降灰する
・8月4日、22時に第12次大噴火が起きる    
・8月20日 6時に中噴火が起き、第5火口を形成する
・8月26日 14時20分に第13次大噴火が起き、壮瞥町滝之上地区で、睡眠中の幼児1名が火山灰により窒息死する
・9月8日 16時15分に第14次大噴火が起き、フカバ集落で火山弾による火災で5戸が全半焼する
・9月16日 中爆発が起き、第6火口を形成する
・10月1日 0時30分に第15次大噴火が起き、第7火口を形成する
・10月16日 19時50分に第16次大噴火が起きる
・10月30日 21時30分に第17次大噴火が起き、これを最後に降灰を伴う噴火は収束する
・12月 溶岩ドームの推上が始まる

<1945年(昭和20)>
・1月10日 溶岩ドームの高さ、地表より10~20mとなる
・2月11日 溶岩ドームは高さ40~50mに成長する
・2月26日 溶岩ドーム主塔の脇に副塔が確認される
・5月 主塔の高さ85mに達する
・9月20日 全活動停止、溶岩ドーム主塔の高さ175mとなる

<1949年(昭和24)>
・5月16日 支笏洞爺国立公園の一部として指定される

<1951年(昭和26)>
・6月9日 国の「天然記念物」に指定される

<1957年(昭和32)>
・6月19日 国の「特別天然記念物」に指定される

<1988年(昭和63)>
・4月 山麓に「三松正夫記念館」が開館する

<2007年(平成19)>
・5月10日 「日本の地質百選」(第1期)に「有珠山・昭和新山」として選定される

<2008年(平成20)>
・12月8日 「洞爺湖有珠山ジオパーク」として、日本ジオパークネットワークに加盟認定される

<2009年(平成21)>
・8月22日 「洞爺湖有珠山ジオパーク」として、世界ジオパークネットワークに加盟認定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1794年(寛政6)大名・老中で天保の改革の主導者水野忠邦の誕生日(新暦7月19日)詳細
1908年(明治41)詩人・小説家国木田独歩の命日(独歩忌)詳細
1945年(昭和20)義勇兵役法」が公布・施行される詳細
1967年(昭和42)小説家壺井栄の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、薩摩藩と土佐藩の間で、「薩土盟約」が結ばれた日ですが、新暦では7月23日となります。
 薩土盟約(さつどめいやく/さっとめいやく)は、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた、幕藩制に代わる国家を構想しようとしたもので、大政奉還による列侯公議政体を目ざした盟約書でした。1867年(慶応3)5月の四侯会議解体後の政局の中で、武力討幕を企てる薩摩藩と大政奉還・公議政体が藩論の土佐藩とが、同年6月22日に京都三本木料亭「吉田屋」において会合を持ちます。
 土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟・坂本龍馬と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らが集まって議論の上、倒幕挙兵に替わり、大政奉還を骨子とする政治同盟を結んだものでした。しかし、同年10月13日に岩倉具視が大久保利通に薩摩藩主島津忠義父子に宛てた倒幕の密勅を渡し、薩摩藩が倒幕運動の名分を得たことで破棄されています。
 以下に、「薩土盟約」の原文と現代語訳を載せておきますので、ご参照下さい。

〇「薩土盟約」慶応三年六月付

約定の大綱

一国体を協正し万世万国に亘て不耻是第一義
一王政復古は論なし宜しく宇内の形勢を察し参酌協正すべし
一国に二王なし家に二主なし政刑唯一君に帰すべし
一将軍職に居て政柄を執る是天地間あるべからざるの理なり宜しく侯列に帰し翼戴を主とすべし
右方今の急務にして天地間常に有之大條理なり心力を協一にして斃て後已ん何ぞ成敗利鈍を顧るに暇あらむや
  皇慶応丁卯六月

約定書

一方今皇國の務國體制度を糺正し万國に臨て不耻是第一義とす其要王制復古宇内之形勢を參酌して下後世に至て猶其遺憾なきの大條理を以て處せむ國に二王なし家に二主なし政刑一君に歸す是れ大條理なり我皇家綿々一系万古不易然るに古郡縣の政變して今封建の體と成り大政遂に幕府に歸す上皇帝在を知らず是を地球上に考るに其國體制度如茲者あらんや然則制度一新政權朝に歸し諸侯會議人民共和然後庶幾ハ以て万國に臨て不耻是以初て我皇國の國體特立する者と云ふべし若二三の事件を執り喋々曲直を抗論し朝幕諸侯倶に相辯難し枝葉に馳せ小條理に止り却て皇國の大基本を失す豈に本志ならむや爾後執心公平所見万國に存すべし此大條理を以て此大基本を立つ今日堂々諸侯の責而已成否顧る所にあらず斃而後已ん今般更始一新皇國の興復を謀り奸邪を除き明良を擧げ治平を求天下萬民の爲に寬仁明恕の政を爲んと欲し其法則を定る事左の如し

一天下の大政を議定する全權は朝廷にあり我皇國の制度法則一切の万機議事室より出を要す
一議事院を建立するは宜しく諸侯より其の入費を貢獻すべし
一議事院上下を分ち議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粹の者を撰擧し尚且諸侯も自分其職掌に因て上院の任に充つ
一將軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし自今宜しく其職を辭して諸侯の列に歸順し政權を朝廷へ歸すべきハ勿論なり
一各港外國の條約、兵庫港に於て新に朝廷之大臣諸大夫と衆合し道理明白に新約定を立て誠實の商法を行ふべし
一朝廷の制度法則は往昔より律例ありといへども當今の時勢に參し或は當らざる者あり宜しく弊風を一新改革して地球上に愧ざるの國本を建てむ
一此皇國興復の議事に關係する士大夫は私意を去り公平に基き術策を設けず正實を貴び既往の是非曲直を不問人心一和を主として此議論を定むべし
右約定せる盟約ハ方今の急務天下之大事之に如く者なし故に一旦盟約決議之上は何ぞ其事の成敗利鈍を顧んや唯一心協力永く貫徹せむ事を要す

 六月                  (慶明雜録)

   勝田孫彌著『西鄕隆盛傳』より

<現代語訳>

約定の大綱

一、国体を協力して正し、あらゆる世の中、あらゆる国に臨んで恥じないことを第一義とする。
一、王制復古については当然の事であり、天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、協力して正すべきこと。
一、一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着すること。
一、将軍職において政務を執行すること、これは万物にあるべきではない道理であり、当然に諸侯(大名)の列に戻り、天皇を補佐することを主とすべきである。
右は以後の急務であり、万物に常にある大きな物事の道理である。精神力を協一にして倒れるまで努力を続けるべきで、どうして成否について振り返ってみる暇があるだろうか、いやない。
  皇慶応3年(1867年)6月22日

約定書

一、以後天皇の国の務として国体制度の正・不正をただし、あらゆる国に臨んで恥じないこと、これを第一義とする。その要は、王制復古について天下の形勢をあれこれ照らし合わせて取捨し、下に向かって世に至てなおその心残りがなきの大きな物事の道理をもって処置する。一つの国に二人の王はなく、一つの家に二人の主人はいない。政治と刑罰を行うのは、一人の君主に帰着する。これは、大きな物事の道理である。私たちの天皇家は絶えることなく綿々と続いていつまでもかわっていない、それにもかかわらず古に郡県の政変によって、今の封建制度と成り、天下の政治はついに幕府に帰着してしまった。上に天皇があるのを知らず、これを地球上で考えるにその国体制度にとってどのようなものであろう、このようなものであってはならないはずだ。そうだとすれば、制度を一新し、政権を朝廷に帰着させ、諸侯(大名)会議と人民が和合して事に当たり、その後はあらゆる国に臨んで恥じないことを切望する。これをもってはじめて、私たち天皇の国の国体を自立することが出来る。もし、二三の事件を取り上げ、しきりにしゃべって正邪を抗論し、朝廷、幕府、諸侯(大名)ともに相手の不正や誤りを論じ立てて非難し、主要でない部分に走って、小さな物事の道理にとどまっては、かえって天皇の国の大きな基本を失ってしまう。これでどうして本当の志となろうか、いやなりはしない。この後は、こだわって公平な見方ですべて国のこととすべきである。この大きな物事の道理に従って、この大基本を立てる。今日厳然と諸侯(大名)の責任があるばかりだ、成否について振り返ってみるものではなく、倒れるまで努力を続けるべきである。今度さらに、一新をはじめて天皇の国の再興をはかり、よこしまな人を除き、賢明な君主と忠良な臣下が事を起こし、泰平を求めて国中のすべての人民のために心が広くて情け深く、明るく思いやりのある政治をしようと考え、その約定を定める事、左のようである。

一、「天下の大政」を評議決定する全権は朝廷にあり、私たち天皇の国の制度や法令の一切は京都の議事堂から発令されるべきである。
一、議事院設置にかかる経費は諸藩の費用負担で行うこと。
一、議事院は上院と下院の二院制とし、議事官(議員)は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで、「正義純粋」の者を選挙し、なおかつ諸侯(大名)も職掌によって上院議員に充てる。
一、将軍職は国のすべてを掌握する道理はない。以後は当然にその職を辞して諸侯(大名)の列に戻り、政権を朝廷へ返すのはもちろんのことである。
一、各港の外国との条約については、兵庫港(神戸港)において新に朝廷の大臣が諸侯(大名)と寄り集まり、道理がはっきりとした新条約を結び、誠実な商いを行うこと。
一、朝廷の制度法則は昔からの律令があるといっても、この頃の時勢に際してあるいは妥当ではないものもあり、当然に弊害のあるものを一新改革して、地球上に恥じない国の基礎を建てる。
一、この天皇の国の復興の議事に当たる者は、私意を捨て公平に基づいてはかりごとをせず、誠実であることを貴んで、今までの物事のよしあしや正邪を問わず、人間としての心を一つにすることを主としてこの議論を行うべきである。
右のとおり約定した盟約は、以後の急務であり、国家の大事はこれに及ぶものはない。従っていったん盟約決議した上は、どうしてその事の成功を顧わずにいられようか、ただ一心に協力して久しく貫徹する事が必要である。

 6月                (慶明雜録)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1853年(嘉永6)江戸幕府第12代将軍徳川家慶の命日(新暦7月27日)詳細
1945年(昭和20)戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、川崎汽船の旅客船「青葉丸」がデラ台風(昭和24年台風第2号)により大分県沖で転覆し、死者・行方不明者141人を出した日です。
 青葉丸転覆事故(あおばまるてんぷくじこ)は、瀬戸内海の門司(福岡県)~高浜(松山市)航路の定期旅客船であった川崎汽船の「青葉丸」(599総トン、昭和22年12月に進水した鋼船)が、デラ台風(昭和24年台風第2号)によって、転覆沈没して引き起こされました。「青葉丸」は、デラ台風(昭和24年台風第2号)が奄美大島付近にあって接近中であることを知りつつも、進路が逸れ、航行に支障はないと判断し、1949年(昭和24)6月20日21時に高浜港(愛媛県)を出港、門司港(福岡県)に向かって、乗客99人と乗組員47人の計146人を乗せて航行中、翌日午前2時半頃、大分県姫島東方18.5kmの洋上で、東南東の激風と高浪を受けて、転覆沈没したものです。
 この事故によって、5人は救助されましたが、乗客69人と乗組員47人が死亡、乗客28人と乗組員25人が行方不明となる、大惨事となりました。出航直前の気象予報では、デラ台風(昭和24年台風第2号)は、奄美大島付近にあり、太平洋上の土佐沖を経て、伊豆半島方面に向け進行するので、航行進路に大きな影響はないと判断されたものの、その後、台風の進路が急に変じ、九州を縦断北上したため、暴風雨に巻き込まれることとなります。
 船長は、伊予灘掃海水路に入ると、いよいよ台風の接近せることを感じ、総員を配置につかせ、万一を憂慮して、旅客に救命胴衣を配布しましたが、大分県姫島東方18.5kmkで、激風とこれに伴う高浪のため、船体が大傾斜して安定を失い横転するに至ったものでした。この事故については、1960年(昭和29)9月7日に、神戸地方海難審判庁の裁決があり、「船長が高浜を発してから汽船青葉丸が沈没するにいたるまで採った措置については、同人及びその他の運航責任者の全部が死亡又は行方不明となっているので、詳かにすることができず、従って、その可否についても断定することはできない。」としています。
 以下に、「汽船青葉丸遭難事故に関する神戸地方海難審判庁の裁決」1960年(昭和29)9月7日言渡を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

「汽船青葉丸遭難事故に関する神戸地方海難審判庁の裁決」1960年(昭和29)9月7日言渡

昭和24年第134号
汽船青葉丸遭難事件

言渡年月日 昭和26年9月7日
審判庁 神戸地方海難審判庁(増田、木村、椎原、参審員徳永、松平)
理事官 中沢佐久三

損害
船体沈没、旅客69名乗組員19名死亡、旅客28名乗組員25名行方不明

原因
不可抗力(デラ台風)

主文
本件遭難は、汽船青葉丸が予報と著しく相違した進路をとったデラ台風に遭遇したことに基因して発生したものである。

理由
(事実)
船種船名 汽船青葉丸
総トン数 599トン
船質 鋼
機関の種類・数 往復動3聯成汽機2個
推進器の種類・数 螺旋推進器2個
船級及び航行区域 第3級軽構船、沿海区域
船舶の用途 貨客船
造船者 A株式会社泉州工場
進水年月 昭和22年12月
完成引渡年月 昭和23年3月

完成傾斜試験成績
項 目                軽荷状態       満載状態
排水量(瓩)            510.54     682.41
前部喫水(メートル)        1.603      2.491
後部喫水(メートル)        2.654      2.863
平均喫水(メートル)        2.129      2.677
トリム(メートル)         1.051(船尾)  0.372(船尾)
KM(メートル)          4.180      3.765
KG(メートル)          3.431      3.183
GM(メートル)          0.749      0.582
乾舷の高さ(メートル)       1.621      1.073
最大GZ(メートル)        0.310      0.210
最大GZを与える角度        29度        25度
GZ消滅角度            45度        43度
同上角度迄の動的復原挺(メートル) 0.149      0.096

風圧面積及び水中側面積
項 目      軽荷状態    満載状態
風圧側面積㎡  301.0   275.0
水中側面積㎡  102.5   128.5
同 比      2.93    2.14

事件発生の年月日時刻及び場所
昭和24年6月21日午前3時30分ころ
内海周防灘

 青葉丸は、A株式会社が戦事中、自家用引船として計画建造に着手し、船体工事の約60パーセント外殻板張り方終り進捗にして終戦をむかえ工事中止となっていたものを昭和21年末B株式会社の注文により、これを小型貨客船に製作替し、船台にあった船体をその中央にて切断して、之を約20メートル引延し、船首楼甲板、遊歩甲板、短艇甲板、船室を新設し、前後に倉口を設け、上甲板下を貨物倉となし、揚貨装置を、併置したものであって、固定バラストとして、フェロメント合計25キロトンを助骨番号54乃至70及び12より26間の船底助骨間に、各その半量を配置し、昭和23年2月18日、近畿海運局の第1回定期検査を、又、同年8月16日、日本海事協会の入級検査を受けたものである。本船は、今治、高浜と、関門港間の貨客輸送に就航していたが、昭和24年6月20日午後7時30分ころ今治から高浜に入港した。当時天候は、弱雨で風なく、海上は平穏であったがデラ台風が内地に接近しつつある警報を受けていたので、船長Cは続航するや否やを決するにあたって、その進路状況を確める必要を感じたので、直ちに、松山測候所に照会したところ、台風は奄美大島付近にあり、土佐沖を経て、伊豆半島方面に向け進行する中心付近では風速40メートル同日午後12時ころ、姫島付近においては、風速10乃至15メートルの北西風が吹くであろうとの報告を得たので、船内幹部及び代理店員と協議検討した上、出港することに決し、旅客合計99人(内身許不明6人)貨物8トンを載せたまま、船首2.30メートル船尾2.90メートルの喫水で同9時、関門港に向け、高浜を発した。その後の状況について、船長以下当時の運航責任者が全部死亡、又は、行方不明となっているため、確認することが出来ないが、後述する諸証拠により推定するに、高浜を発航するや、機関を1時間10海里ばかりの全速力にかけ、やがて、伊予灘掃海水路に入り、折柄吹きはじめた東北東の軟風を船尾に受けて進航し、同12時ころ屋島灯台を通過したが、そのころから風力は急に増勢して強風となり波浪これに伴って高まり、之に加うるに豪雨となって展望不良となった。その後風浪は次第に増大するとともに風向は右方に回り、翌21日午前2時ころには、東に転じた。姫島灯台通過は同時30分ころと推定されるが、このころ船長は、いよいよ台風の接近せることを感じ、総員を配置につかせ、万一を憂慮して、旅客に救命胴衣を配布した。姫島通過後の針路については、船体の沈没位置が掃海水路から約4海里も南方に偏在している点から、
1、風浪の関係上、周防灘掃海水路に沿う針路を保持することが出来ず西(磁針方位)に向けスカッデングしたものか、
2、針路はそのままであったが、風圧と台風による異常の潮流のため、船位がかくも偏寄されたもの
3、D及びEの両証人が午前3時ころ、急に船体の横動が大きくなったと供述している点から同時ころ船長は風向が次第に南方に変るので国東半島のかげに避泊する目的で、かなり、大角度に船首を左転して進航したものか
の三様に考えられる。
 沈没時刻は同時30分ころで折柄の東南東の激風と高浪を左舷正横に受け、瞬時にして横転沈没したものであって、何が故に風浪を左舷正横に受けるようになったかについては、確証はないが潜水夫の報告により舵のクオード・ランドが左舷に約15度偏したまま船首が東方に向き沈没している点から船長は風浪を船尾に受けることが危険となったので、船首を風浪にたてるため左舵を命じ左回頭中であったのではないかと推察される。
 当時天候は曇天にして東南東の激風吹き風速30メートル以上に達し、波浪高く潮候は、張潮の末期であった。
 船体はその後捜索の結果、同年11月6日、姫島西端三ツ石鼻から略真方位280度11海里半の地点に船首を東方に向け、右舷に約45度傾斜したまま沈没しあるを発見したが、本件遭難により、旅客69人、乗組員19人は死亡し旅客28人乗組員25名は行方不明となった。
 デラ台風の経路については、同月11日、西カロリンに発生した熱帯性低気圧は、13日には、ゆっくり、北西に動き始め、18日ころから、急に中心示度を深め、フィリッピン北東海上でデラ台風と名付られた。19日午前3時ころには中心示度は980ミリバール以下となり、北に進路を変じ、その後、次第に中心示度を深めつつ、進路を右方に転ずるとともに速度を加え、琉球列島に沿って北東方に進み、20日午後9時ころには屋久島に達した。同島を過ぎてから、突然、進路を真北に転じ毎時60キロの速さで佐田岬に達し、揖宿をかすめ、20日午後11時過ぎには鹿児島の最低気圧は、970.2ミリバール最大風速は、北東24.4メートル瞬間風速は31.3メ-トルに達し、非常な暴風雨であった。21日午前0時には人吉の西方を通り、九洲背梁山脈に沿って毎時50キロの速さで北上し、同1時ころ熊本に達した。その後次第に、中心示度を弱めるとともに、速力を減じつつ毎時35キロ位で北に進み、同2時ころ阿蘇山を通過してから進路を北北西に転じ同3時ころ英彦山の南西方に達した。このころから台風は衰弱の度を強め、同4時には飯塚市西方を通り、福岡市をかすめて、同5時、海上に出たものである。而して、前示屋久島通過の20日午後9時ころまでは、一般気圧状況から台風は、そのまま、北東方に進行し、四国、本州、南方洋上を東進するものと観測され警報の放送もまた、そのように発せられていたもので、屋久島から突如進路を北に転じ九州南部に上陸した警報が初めて発せられたのは、21日午前2時乃至2時30分であった。

(原因判断)
 本件遭難は、海難審判法第2条第1号及び第2号に該当し、汽船青葉丸が愛媛県高浜を発し、関門港に向う航行中、発航当時、九州南方に在り北東方に進行して、四国及び本州南方海上を通過する旨の予報を受けていたデラ台風が、その後、急に進行方向を変じ、九州を縦断北上したため、同船は、その暴風圏内に入り、激風とこれに伴う高浪のため、船体大傾斜して安定を失ひ横転するにいたったことに基因して発生したものである。船長Cが高浜を発してから汽船青葉丸が沈没するにいたるまで採った措置については、同人及びその他の運航責任者の全部が死亡又は行方不明となっているので、詳かにすることができず、従って、その可否についても断定することはできない。

 よって主文のとおり裁決する。

☆太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1949年(昭和24)6月21日 - 川崎汽船「青葉丸」がデラ台風(昭和24年台風第2号)により大分県沖で転覆し、死者・行方不明者141名を出す(青葉丸転覆事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者・行方不明167名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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