ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2021年06月

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 今日は、昭和時代後期の1987年(昭和62)に、中曽根内閣の下で、多極分散をモットーとした第四次全国総合開発計画(四全総)が閣議決定された日です。
 第四次全国総合開発計画(だいよじぜんこくそうごうかいはつけいかく)は、1950年(昭和25)5月26日制定の「国土総合開発法」(2005年より「国土形成計画法」と改正・改称)に基づき国が作成した、4番目の全国総合開発計画(略称:四全総)でした。1986年度~2000年度までの15年間を対象期間とし、東京への一極集中といった現状を踏まえ、特定地域への商工業や政府機関の過度の集中を是正すると共に、多極分散型国土形成と地域間の交流ネットワークを目指すことを基本目標としています。
 その中では、全国一日交通網の構築、独自性のある地域開発整備、姉妹都市をはじめとする各地域間での交流促進などがうたわれていました。

〇全国総合開発計画とは?

 1950年(昭和25)5月26日制定の「国土総合開発法」(2005年より「国土形成計画法」と改正・改称)に基づき国が作成する、国土の有効利用、社会環境の整備等に関する長期計画です。
 1962年(昭和37)に閣議決定された全国総合開発計画 (一全総)、新幹線交通ネットワークや大規模産業開発プロジェクトで特色づけられる、1969年(昭和44)策定の新全国総合開発計画 (新全総)、生活環境整備に重点をおいた定住圏構想が目玉とした、1977年(昭和52)策定の第三次全国総合開発計画 (三全総)、多極分散型国土形成と地域間の交流ネットワークを目指した、1987年(昭和62)策定の第四次全国総合開発計画 (四全総)、6つの海峡横断道路事業とリニアモータカーの早期実現を盛込んだ、1998年(平成10)策定の21世紀の国土のグランドデザイン (五全総)と5次にわたり策定されてきました。これらの計画は、いずれも経済成長の結果生じる地域間格差、過疎問題と過密問題の深刻化への対応を考えたもので、東京への一極集中を是正して、相対的に不利な地方の地域が経済成長の果実を平等に恩恵や利益を受けること志向するものとされています。
 しかし、これまでの量的拡大を図る開発を基調とした国土計画から転換し、人口減少時代に対応していくために、2005年(平成17)に根拠法が「国土形成計画法」と改正・改称されました。それ以後は、2009年(平成21)策定の国土形成計画 (六全総)、2016年(平成28)策定の第二次国土形成計画と続いています。

☆全国総合開発計画一覧

・全国総合開発計画 (一全総)1962年策定
・新全国総合開発計画 (新全総)1969年策定
・第三次全国総合開発計画 (三全総)1977年策定
・第四次全国総合開発計画 (四全総)1987年策定
・21世紀の国土のグランドデザイン (五全総)1998年策定
・国土形成計画 (六全総)2009年策定
・第二次国土形成計画 2016年策定

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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、田中義一内閣が「治安維持法」を改正のため、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」を公布・施行し、反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加した日です。
 「治安維持法中改正ノ件(ちあんいじほうちゅうかいせいのけん)」は、「治安維持法」に反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加などをした緊急勅令(昭和3年勅令第129号)でした。
 1928年(昭和3)2月20日に初めての男子普通選挙による第16回衆議院選挙が実施され、立憲政友会が218議席、立憲民政党が216議席を得ましたが、無産政党も8議席(社会民衆党4議席、労働農民党2議席、日本労農党1議席、九州民憲党1議席)を獲得します。無産政党の進出を恐れた田中義一内閣は、三・一五事件で、反体制派を大量検挙し、同年4月20日召集の第55回帝国議会に「治安維持法」改正案を上程、この最高刑を死刑とし、反体制勢力の壊滅を図ろうとしました。
 しかし、死刑を含む刑罰の強化は、弾圧的過ぎるとして野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となります。そこで、田中義一内閣は、議会の審議を経ずに改正を強行するため、同年6月29日に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」を公布・施行しました。
 これによって、法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑とし、また、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとします。これにより、犯罪を実行していなくても、当局が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠とし、さらに、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす、思想問題専従の思想検事を同年7月に正式に設置し、反体制勢力を抑え込みを強化していきました。
 その一方で、山東出兵などで中国大陸への軍事進出を図っていくこととなります。
 以下に、「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年勅令第129号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年勅令第129号)1928年(昭和3)6月29日公布・施行

朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ帝國憲法第八條第一項ニ依リ治安維持法中改正ノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム

御名御璽
昭和三年六月二十九日
                内閣總理大臣兼
                   外務大臣 男爵 田中  義一 
                   鐡道大臣   小川  平吉 
                   海軍大臣   岡田  啓介 
                   陸軍大臣   白川  義則 
                   商工大臣   中橋 徳五郎 
                   大藏大臣   三土  忠造 
                   農林大臣   山本 悌二郎 
                   内務大臣   望月  圭介 
                   司法大臣   原   嘉道 
                   逓信大臣   久原 房之助 
                   文部大臣   勝田  主計 

勅令第百二十九號

治安維持法中左ノ通改正ス

第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ處シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二條中「前條第一項」ヲ「前條第一項又ハ第二項」ニ改ム

第三條及第四條中「第一條第一項」ヲ「第一條第一項又ハ第二項」ニ改ム

第五條中「第一條第一項及」ヲ「第一條第一項又ハ第二項又ハ」ニ改ム

附則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

   「ウィキソース」より

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 今日は、戦国時代の1570年(元亀元)に、姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破った日ですが、新暦では7月30日となります。
 姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉連合軍と約3万4千人の織田信長・徳川家康連合軍との間で行われた戦国合戦の一つでした。織田・徳川連合軍が勝利しましたが、序盤では浅井・朝倉連合軍が優勢だったものの、家康軍の奮闘により、形勢が逆転します。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となりました。
 姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。
 以下に、『信長公記』巻三のあね川合戦の事を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』巻三

あね川合戦の事

 然処、朝倉孫三郎後巻[1]とし而、八千計ニ而罷立、大谷[2]之東をより山[3]とて東西へ長き山有、彼山ニ陣取候。同浅井備前人数五千計相加、都合一万三千之人数、六月廿七日之暁、致陣払罷退候と存候処、廿八日未明に、卅町計かゝり来、あね川[4]を前ニあて、野村之郷・三田村両郷へ移、二手に備候。西ハ三田村口一番合戦、家康卿むかハせられ、東ハ野村之郷備之手へ、信長御馬廻、又東者、美濃三人衆氏家・伊賀・稲葉、諸手[5]一度ニ切かゝり、六月廿八日卯刻[6]、丑寅[7]へ向而被蒙御一戦、御敵あね川[4]を越、信長之御手前へさし懸、推つ返しつ散〳〵に入乱れ黒煙立て、しのきをけつり鍔をわり、爰かしこにて思々の働有、終に追崩し[8]、手前において討捕る頸の注文、
 真柄十郎左衛門、此頸青木所右衛門是ょ討とる。前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門、此頸竹中久作是を討とる、兼而此首を取るべしと高言[9]あり。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
此外宗徒者[10]千百討捕。大谷[2]迄五十町追討ち、麓を御放火。然りといへども、大谷[2]は高山節所[11]の地に候間、一旦に攻上り候事なり難く思食され、横山[12]へ御人数打返し、勿論横山の城降参致し退出。
木下藤吉郎定番として横山[12]へ入置かれ、(後略)

【注釈】

[1]後巻:うしろまき=味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと。うしろづめ。後詰。
[2]大谷:おおたに=小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町伊部)のこと。
[3]をより山:およりやま=大依山(現在の滋賀県長浜市湖北町)のこと。 
[4]あね川:あねがわ=滋賀県北部の長浜市を流れ、琵琶湖に注ぐ、淀川水系の一級河川。
[5]諸手:もろて=多くのいろいろな部隊、または隊伍。諸隊。
[6]卯刻:うのこく=午前6時頃。 
[7]丑寅:うしとら=東北方向。
[8]追崩し:おいくずし=追いかけて攻めくずし。敵陣を破って追い散らし。
[9]高言:こうげん=大言壮語すること。自分を誇り、いばって言うこと。また、大げさなことば。
[10]宗徒者:むねともの=主だった者。
[11]節所:ふしどころ=重要なところ。要害。
[12]横山:よこやま=姉川の南岸にあった山城で、小谷城の南の重要な拠点に位置していた。

<現代語訳>

あね川合戦の事

 こうした中で、(敵方は)朝倉孫三郎が後詰として、八千ばかりの軍勢でやって来た、小谷城の東の大依山という東西に長き山があり、彼はこの山に陣取った。同じく浅井備前も人数五千ばかりの軍勢で加わった、合わせて一万三千の人数となり、6月27日の明け方に至って、(信長公は)陣を払って立ち退くと思われたところ、28日の未明に、30町ばかり攻めてきて、(敵方は)姉川を前にして、野村の郷・三田村の両郷へ移動し、二手に分かれて陣備えをした。西の三田村口には一番合戦として、家康公が迎撃され、東は野村の郷の備えには、信長公の御馬廻衆が向かい、また東は、美濃三人衆の氏家・伊賀・稲葉がこれにあたり、諸隊が一度に攻めかかり、6月28日午前6時頃に、東北方向って御一戦に及ばれた、御敵も姉川を越え、信長公の御手前まで押しかけ、押しつ返しつ、散々に入り乱れて黒煙を立て、しのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思いの働きがあり、ついには敵陣を破って追い散らし、目の前にさらされた討捕られた首の書付は、
 真柄十郎左衛門(この首は青木所右衛門が討ち取った)、前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門(この首は竹中久作がこれを討とる、前々からこの首を取ると大言壮語していた)。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
この他主だった者は千百打ち取られた。小谷城まで50町追い打ちをかけ、ふもとに放火した。とはいっても、小谷城は高山上の要害の地であり、一挙に攻め上がるのは難しいと判断され、横山城へ軍勢を打返し、もちろん横山城は降参して退出した。
木下藤吉郎を定番として横山城へ入れ置かれ、(後略)

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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、田中義一内閣の下で、満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策を決定するために「東方会議」が開始(~7月7日)された日です。
 東方会議(とうほうかいぎ)は、外相兼任の首相田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)が、5月27日の第1次山東出兵の1ヶ月後に対中国政策を決めるために開いた会議でした。森恪外務政務次官のほか、外務省各局長、陸海軍次官、関東庁長官、関東軍司令官ら陸海軍関係者が参集します。
 関東軍や森恪外務政務次官らは張作霖を下野させ、満蒙を中国本部から分離することを構想しましたが、田中首相らは張を擁立して満蒙を支配する考えでした。その結果、これらの考えを折衷し、最終日の7月7日に「対支政策綱領」が発表されましたが、対中国権益擁護のためには軍事力行使もありうること、特に満蒙地域の権益保持には積極的な行動をとる旨が強調されています。
 中国革命に対抗して、中国本土では現地保護主義を、満蒙では積極的介入主義を採る、対中国「積極」外交の方針(いわゆる田中外交)を確立したものとして内外の注目を集めました。しかし、満蒙の位置づけについて奉天総領事吉田茂、駐華公使芳沢謙吉、在満陸軍武官の間に意見の相違があり、その調整をめぐって、森務政務次官が渡満し第2次東方会議ともいうべき会議が大連で開かれています。
 その後、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。ところが、1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月20日に支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開する第二次山東出兵などの強硬策を導くこととなります。
 尚、原敬内閣が1921年(大正10)5月に開催した対中国・シベリア政策に関する会議も「東方会議」と呼ばれてきました。
 以下に、東方会議最終日に出された「対支政策綱領」に関する田中外相訓令を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇東方会議「対支政策綱領」に関する田中外相訓令 1927年(昭和2)7月7日

(昭和二年七月七日來電合第一八五號竝七月十一日附來信亞一機密合第六三六號)

東方會議ハ本大臣主宰ノ下ニ本省幹部、在支公使、在上海、在漢口、在奉天各總領事竝陸海軍、大藏、關東廳、朝鮮總督府各代表者ヲ會シ、六月二十七日開會以來支那時局竝之レカ對策ニ關シ隔意ナキ意見ヲ聽取シタル上、本七日ノ最終會議ニ於テ本大臣ヨリ對支政策綱領トシテ左ノ通訓示セリ

極東ノ平和ヲ確保シ日支共榮ノ實ヲ擧クルコト我對支政策ノ根幹ナリトス。而シテ之カ實行ノ方法ニ至ツテハ日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ、支那本土ト滿蒙トニ付自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス。今此根本方針ニ基ク當面ノ政策綱領ヲ示サンニ

一、支那國內ニ於ケル政情ノ安定ト秩序ノ回復トハ現下ノ急務ナリト雖モ其ノ實現ハ支那國民自ラ之ニ當ルコト最善ノ方法ナリ。

從テ支那ノ內亂政爭ニ際シ一黨一派ニ偏セス專ラ民意ヲ尊重シ苟モ各派間ノ離合集散ニ干涉スルカ如キハ嚴ニ避ケサルヘカラス

二、支那ニ於ケル穩健分子ノ自覺ニ基ク正當ナル國民的要望ニ對シテハ滿腔ノ同情ヲ以テ其ノ合理的達成ニ協力シ努メテ列國ト共同其ノ實現ヲ期セムトス

同時ニ支那ノ平和的經濟的發達ハ中外ノ均シク熱望スル所ニシテ支那國民ノ努力ト相俟テ列國ノ友好的協力ヲ要ス

三、叙上ノ目的ハ畢寛鞏固ナル中央政府ノ成立ニ依リ初メテ達成スヘキモ現下ノ政情ヨリ察スルニ斯ル政府ノ確立容易ナラサルヘキヲ以テ當分各地方ニ於ケル穩健ナル政權ト適宜接洽シ漸次全國統一ニ進ムノ氣運ヲ俟ツノ外ナシ

四、從テ政局ノ推移ニ伴ヒ南北政權ノ對立又ハ各種地方政權ノ聯立ヲ見ルカ如キコトアラムカ日本政府ノ各政權ニ對スル態度ハ全然同樣ナルヘキハ論ヲ侯タス、斯ル形勢ノ下ニ對外關係上共同ノ政府成立ノ氣運起ルニ於テハ其ノ所在地ノ如何ヲ問ハス日本ハ列國ト共ニ之ヲ歡迎シ統一政府トシテノ發達ヲ助成スルノ意圖ヲ明ニスヘシ

五、此間支那ノ政情不安ニ乗シ往々ニシテ不逞分子ノ跳梁ニ因リ治安ヲ紊シ不幸ナル國際事件ヲ惹起スルノ虞アルハ爭フヘカラサル所ナリ、帝國政府ハ是等不逞分子ノ鎭壓及秩序ノ維持ハ共ニ支那政權ノ取締竝國民ノ自覺ニ依リ實行セラレムコトヲ期待スト雖支那ニ於ケル帝國ノ權利利益竝在留邦人ノ生命財產ニシテ不法ニ侵害セラルル虞アルニ於テハ必要ニ應シ斷乎トシテ自衛ノ措置ニ出テ之ヲ擁護スルノ外ナシ

殊ニ日支關係ニ付揑造虚構ノ流說ニ基キ妄リニ排日排貨ノ不法運動ヲ起スモノニ對シテハ其ノ疑惑ヲ排除スルハ勿論權利擁護ノ爲進ムテ機宜ノ措置ヲ執ルヲ要ス。

六、滿蒙殊ニ東三省地方ニ關シテハ國防上竝國民的生存ノ關係上重大ナル利害關係ヲ有スルヲ以テ我邦トシテ特殊ノ考量ヲ要スルノミナラス同地方ノ平和維持經濟發展ニ依リ內外人安住ノ地タラシムルコトハ接壌ノ隣邦トシテ特ニ責務ヲ感セサルヲ得ス然リ而シテ滿蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機會均等ノ主義ニ依リ內外人ノ經濟的活動ヲ促スコト同地方ノ平和的開發ヲ速カナラシムル所以ニシテ我旣得權益ノ擁護乃至懸案ノ解決ニ關シテモ亦右ノ方針ニ則リ之ヲ處理スヘシ

七、(本項ハ公表セサルコト)

若夫レ東三省ノ政情定ニ至テハ東三省人自身ノ努力ニ待ツヲ以テ最善ノ方策ト思考ス

三省有力者ニシテ満蒙ニ於ケル我特殊地位ヲ尊重シ眞面目ニ同地方ニ於ケル政情安定ノ方途ヲ講スルニ於テハ帝國政府ハ適宜之ヲ支持スヘシ

八、萬一動亂滿蒙ニ波及シ治安亂レテ同地方ニ於ケル我特殊ノ地位權益ニ對スル侵害起ルノ虞アルニ於テハ其ノ何レノ方面ヨリ來ルヲ問ハス之ヲ防護シ且內外人安住發展ノ地トシテ保持セラルル樣機ヲ逸セス適當ノ推置ニ出ツルノ覺悟アルヲ要ス

終リニ東方會議ハ支那南北ノ注意ヲ喚起シタルモノノ如クナルヲ以テ此機ヲ利用シ各位歸任ノ上ハ文武各官協力以テ對支諸問題乃至懸案ノ解決ヲ促進スルコトトシ、本會議ヲシテ益々有意義ナラシムルニ努メラレタク、將又叙上我對支政策實施ノ具體的方法ニ關シテハ各位ニ對シ本大臣ニ於テ別ニ協議ヲ遂クル所アルヘシ

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、鈴木貫太郎内閣によって「重要物資等の緊急疎開に関する件」が閣議決定された日です。
 「重要物資等の緊急疎開に関する件(じゅうようぶっしとうのきんきゅうそかいにかんするけん)」は、太平洋戦争末期に、戦局がたいへん厳しくなり、都市部が連日のように空襲される中で、重要物資等を緊急疎開させるようにした閣議決定です。その内容は、燃料、軍需原材料、食糧、衣料、医療薬品、重要機械・器具・装置等の疎開を急速に実施して、被害を最小に留めるため、必要な各省大臣の権限を地方総監に移譲し、軍管理下の工場・倉庫は軍管区司令官・鎮守府司令官が担当することとしたものでした。そして、「疎開物資ノ輸送ニ当リテハアラユル小運送力及人力ノ緊急動員ニ其ノ重点ヲ置ク」、「本件実施ニ必要ナル経費ハ最高全額ニ到ル迄国庫ニ於テ之ヲ負担ス」としています。
 この頃は、戦局が悪化する中で、アメリカ軍の本土上陸を想定し、本土決戦が叫ばれていた時期で、そのために重要物資等を緊急疎開させて、本土決戦に備えて温存を図ったものと思われます。しかし、2ヶ月も経たない内に、「ポツダム宣言」の受諾が決定され、8月15日に、「大東亜戦争終結ノ詔書」が放送(玉音放送)されて、太平洋戦争の敗戦へと至りました。
 以下に、鈴木貫太郎内閣による閣議決定「重要物資等ノ緊急疎開ニ関スル件」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「重要物資等ノ緊急疎開ニ関スル件」 1945年(昭和20)6月26日閣議決定

 敵空襲ノ激化ト本土戦場化必至ノ状勢ニ対処シ物的戦力ノ確保ヲ目途トシ概ネ左ノ要領ニ依リ最短期間内ニ重要物資等ノ分散疎開ヲ急速ニ実施スルト共ニ之ガ保管施設ノ現地防衛ヲ完壁ナラシメ以テ戦災被害ヲ可及的僅少ナラシム

要領

一、疎開スベキ重要物資ハ工場、倉庫ニ保管セラレタル物資ニシテ其ノ範囲次ノ如シ
 (イ)製品特ニ軍需品
 (ロ)燃料  ガソリン、ベンゾール、重油、マシン油、クレヲソート、タール、松根油等
 (ハ)軍需原材料
   火薬爆薬類、アルミニウム、電線、ゴム、特殊鋼、ニッケル、タングステン等
 (ニ)食糧
 (ホ)衣料
 (ヘ)医療薬品
 (ト)重要機械、器具、装置
 (チ)其ノ他戦局上重要ト認メラルル物資
二、本件実施ニ当リテハ地方総監ノ責任ニ於テ必要ナル措置ヲ講ゼシメ強力ニ之ガ完遂ヲ期ス之ガ為必要ナル各省大臣ノ権限ハ之ヲ地方総監ニ移譲ス
 但シ軍工廠、軍専管工場、軍倉庫ニ付テハ軍管区司令官、鎮守府(警備府)司令長官ヲ以テ責任者トス
三、疎開物資ノ輸送ニ当リテハアラユル小運送力及人力ノ緊急動員ニ其ノ重点ヲ置ク
四、本件実施ニ必要ナル経費ハ最高全額ニ到ル迄国庫ニ於テ之ヲ負担ス
五、本件ニ関連シ極力保管物資ノ急速ナル戦力化ヲ促進ス
六、重要物資ノ保管ニ関シテハ防衛責任者ノ設置、警備消防力ノ強化、防護施設ノ徹底等必要ナル措置ヲ講ズ
七、本件実施ハ七月十五日迄ニ之ヲ完了スルヲ目途トス
八、本件実施ヲ推進確保スル為必要ニ応ジ現地ニ所要ノ機関ヲ派遣シ之ガ指導査察ヲ行ハシム
九、本件実施ノ概況ヲ七月末日迄ニ内閣ニ報告セシム


   「国立国会図書館リサーチナビ」より

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1903年(明治36)小説家・評論家・翻訳家・英文学者阿部知二の誕生日詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」に52ヶ国が署名する詳細
1968年(昭和43)小笠原返還協定」が発効し、小笠原諸島がアメリカから日本に返還される詳細
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