今日は、南北朝時代の1361年(正平16/康安元)に、南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震(M8~8.5)が起きた日ですが、新暦では7月26日となります。
正平地震(しょうへいじしん)は、この日の午前4時頃に、西日本太平洋沖で起きたと推定されていますが、諸史料によると、すでに6月21日から大規模な前震が始まっていたとされてきました。この前震でも奈良の法隆寺等の社寺の被害があったことなどが記録されています。
さらに、本震では、四天王寺で金堂が倒壊し、5 人が圧死(後愚昧記)、「熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。」(斑鳩嘉元記)、また太平洋岸には津波が押し寄せ、「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈し」、「摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。」(太平記)、「安居殿御所西浦マテシオミチテ、其間ノ在家人民多以損失」(斑鳩嘉元記)など甚大な被害が出たと書かれました。引き続いて、余震も多く発生し、10月頃まで続いたとされます。
このため、翌年の9月23日に兵革・疫病・天変地異終息を願って「貞治」に改元されました。尚、徳島県海部郡美波町東由岐に、この時の大地震津波の死者の供養碑と伝承されている「康暦の碑」(町指定文化財)が残され、日本最古の地震津波碑とされています。
以下に、この地震のことを記した『愚管記』、『後愚昧記』、『斑鳩(いかるが)嘉元記』、『太平記』巻第三十六の大地震並夏雪事を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『愚管記』(公卿・近衛道嗣の日記)
伝聞、去月廿二日同廿四日大地震之時、熊野社頭并假殿以下、三山岩屋以下秘所秘木秘石等、悉破滅(後略)
〇『後愚昧記』(公卿・三条公忠の日記)
今暁大地震。四天王寺金堂顚倒、成微塵了。又大塔空輪落塔傾(中略)、伶人一人、承人二人、在庁二人圧死。
〇『斑鳩嘉元記』(鎌倉時代後期~南北朝時代の法隆寺寺内と近辺の出来事の記録)
康安元年、六月廿二日卯時、大地震これ在り。当寺東院、南大門西脇築地半本、同院中ノ門北脇築地一本、西寺の南大門西脇築地半本倒る。同月廿四日卯時、大地震これ在り、当寺には御塔九輪の上火災、一折燃て下もヘはをちず、金堂東の間仏壇下燃ヘ崩れをつ。東大門北脇築地少しく破れ落ち、伝法堂辰巳角かへ南へ落ち破る。薬師寺金堂の二階かたぶき破れ、御塔、中門、廻廊悉く顛倒す。同西院顛倒し、此の外諸堂破損すと云々。招提寺塔九輪大破損、西廻廊皆顚倒し、渡廊悉く破れ畢んぬ。天王寺金堂破れ倒れぬ。又安居院御所西浦までしほみちて、其の間の在家人民多く以て損失すと云々。熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。
〇『太平記』巻第三十六
大地震並夏雪事
同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月(注:六月の誤り)二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月(注:六月の誤り)二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。
「ウィキソース」より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
672年(弘文天皇元) | 出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日) | 詳細 |
781年(天応元) | 公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日) | 詳細 |
1839年(天保10) | 蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日) | 詳細 |
1940年(昭和15) | 近衛文麿による新体制運動が開始される | 詳細 |