今日は、明治時代後期の1896年(明治29)に、「山縣・ロバノフ協定」(朝鮮問題に関する日露間議定書)が締結された日です。
「山縣・ロバノフ協定(やまがた・ろばのふきょうてい)」は、朝鮮における紛争に関する日本とロシアの議定書で、正式には「朝鮮問題に関する日露間議定書」と呼ばれ、「モスクワ議定書」ともいわれてきました。ロシア皇帝戴冠式に特派されていた日本の山縣有朋元首相と、ロシア外務大臣のアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー公の間で、モスクワにおいて交わされたものです。
この協定の背景には、日清戦争とその直後、1895年(明治28)10月8日の日本による閔妃(びんひ)殺害事件があって、朝鮮民族の反日気運を急速に高め、初期義兵の反日蜂起が始まったこと、また、李朝政府部内でも日本との対抗上親露派が台頭し、1896年(明治29)2月以降約1年間国王がロシア公使館に滞在する状態を招いたことがあり、これに対処するため、日本は同年5月14日に「小村=ウェーバー協定」を結び、さらにそれを土台として発展させたものでした。公開4条項と秘密2条項から成り、朝鮮の財政改革を促進すること(第1条)、近代的警察及び軍隊を組織すること(第2条)、電信線を維持すること(第3条)について、共通の意思を明示し、また秘密条項では、両国が合意をもって軍隊を派遣するときは用兵地域を確定すること(秘密第1条),両国の駐屯兵員数を同数とすること(秘密第2条)などが協定されています。
この後、1898年(明治31)4月25日の「西・ローゼン協定」によって、書き換えられ、日露両国は韓国の国内政治への干渉を差し控え、かつ韓国政府の依頼で軍事または財政顧問を送る前に、互いに事前承認を求めること、またロシアは、韓国の商用・経済発展への日本の投資を妨害しないことを誓約しました。
以下に、「小村・ウェーバー協定」、「山縣・ロバノフ協定」、「西・ローゼン協定」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「朝鮮問題に関する覚書」(小村・ウェーバー協定)原文英語 1896年(明治29)5月14日調印、1897年(明治30)2月26日発表
(譯文)
在京城日露兩國代表者ハ其ノ各自ノ政府ヨリ同樣ノ訓令ヲ受ケ協議ノ上左ノ通リ議定セリ
一、朝鮮國王陛下ノ王宮へ還御ノコトハ陛下御一己ノ裁斷ニ一任スヘキモ日露兩國代表者ハ陛下ガ王宮ニ還御アラセラルヽモ其ノ安全ニ付キ疑惧ヲ抱クニ及バザル時ニ至ラバ還御アランコトヲ忠吿スヘシ又日本國代表者ハ茲ニ日本壯士ノ取締ニ付キ嚴密ナル措置ヲ執ルベキ保證ヲ與フ
二、現任內閣大臣ハ陛下ノ御一存ヲ以テ任命セラレタルモノニシテ多クハ過ル二年間國務大臣若クハ其ノ他ノ顯職ニ在リテ寛大溫和主義ヲ以テ知ラレタル人々ナリ日露兩國代表者ハ陛下ガ寬大溫和ノ人物ヲ其ノ閣臣ニ任命セラレ且ツ寬仁以テ其ノ臣民ニ對セラレンコトヲ陛下ニ勸吿スルコトヲ以テ常ニ其ノ目的ト爲スベシ
三、露國代表者ハ左ノ點ニ付キ全ク日本國代表者ト意見ヲ同フス卽チ朝鮮國ノ現況ニテハ釜山京城間ノ日本電信線保護ノ爲メ或場處ニ日本國衞兵ヲ置クノ必要アルベキコト及現ニ三中隊ノ兵丁ヲ以テ組成スル所ノ該衞兵ハ可成速ニ撤囘シテ之ニ代フルニ憲兵ヲ以テシ左ノ如ク之ヲ配置スベキコト卽チ大邱ニ五十人可興ニ五十人釜山京城間ニ在ル十箇所ノ派出所ニ各十人トス尤右ノ配置ハ變更スルコトヲ得ベキモ憲兵隊ノ總數ハ決シテ二百人ヲ超過スベカラズ而シテ此等憲兵モ將來朝鮮政府ニ於テ安寧秩序ヲ囘復シタル各地ヨリ漸次撤囘スベキコト
四、朝鮮人ヨリ萬一襲擊セラルヽ場合ニ對シ京城及各開港場ニ在ル日本人居留地ヲ保護スル爲メ京城ニ二中隊釜山ニ一中隊元山ニ一中隊ノ日本兵ヲ置クコトヲ得但シ一中隊ノ人員ハ二百名ヲ超過スベカラズ該兵ハ各居留地ノ最寄ニ屯營スベク而シテ前記襲擊ノ虞ナキニ至リ次第之ヲ撤囘スベシ又露國公使館及領事館ヲ保護スル爲メ露國政府モ亦右各地ニ於テ日本兵ノ人數ニ超過セザル衞兵ヲ置クコトヲ得而シテ右衞兵ハ內地全ク靜謐ニ歸シ次第之ヲ撤囘スベシ
明治廿九年五月十四日京城ニ於テ
日本國代表者 小村壽太郞
露國代表者 ウエーバー
「舊條約彙纂第 一卷第二部」外務省編より
〇「朝鮮問題に関する日露間議定書」(山縣・ロバノフ協定)原文仏語 1896年(明治29)6月9日調印、1897年(明治30)2月26日発表
(譯文)
日本國皇帝陛下ノ特命全權大使陸軍大將山縣侯爵及露西亞國外務大臣ル、スクレテール、デター、プランス、ロバノフ、ロストウスキーハ朝鮮國ノ形勢ニ關シ其ノ意見ヲ交換シ左ノ諸條ヲ協議決定セリ
第一條
日露兩國政府ハ朝鮮國ノ財政困難ヲ救濟スルノ目的ヲ以テ朝鮮國政府ニ向テ一切ノ冗費ヲ省キ且其ノ歲出入ノ平衡ヲ保ツコトヲ勸吿スヘシ若シ萬止ヲ得ザルモノト認メタル改革ノ結果トシテ外債ヲ仰クコト必要トナルニ到レバ兩國政府ハ其ノ合意ヲ以テ朝鮮國ニ對シ其ノ援助ヲ與フベシ
第二條
日露兩國政府ハ朝鮮國財政上及經濟上ノ狀況ノ許ス限リハ外援ニ藉ラスシテ內國ノ秩序ヲ保ツニ足ルベキ內國人ヲ以テ組織セル軍隊及警察ヲ創設シ且ツ之ヲ維持スルコトヲ朝鮮國ニ一任スルコトヽスベシ
第三條
朝鮮國トノ通信ヲ容易ナラシムル爲メ日本國政府ハ其ノ現ニ占有スル所ノ電信線ヲ引續キ管理スベシ
露國ハ京城ヨリ其ノ國境ニ至ル電信線ヲ架設スルノ權利ヲ留保ス
右諸電信線ハ朝鮮國政府ニ於テ之ヲ買收スベキ手段附キ次第之ヲ買收スルコトヲ得ルモノトス
第四條
前記ノ原則ニシテ尙ホ一層精確且詳細ノ定義ヲ要スルカ又ハ後日ニ至リ商議ヲ要スベキ他ノ事項生ジタルトキハ兩國政府ノ代表者ハ友誼的ニ之ヲ妥協スルコトヲ委任セラルベシ
千八百九十六年六月九日・五月二十八日{日付は原文では横に並べて記しているものを右から表記した}「モスクウ」府ニ於テ之ヲ書ス
山縣 手署
ロバノフ 手署
秘密條款
第一條 原因ノ內外タルヲ問ハズ若シ朝鮮國ノ安寧秩序亂レ若クハ將ニ亂レントスルノ危懼アリテ而シテ若シ日露兩國政府ニ於テ兩國臣民ノ安寧ヲ保護シ及電信線ヲ維持スルノ任務ヲ有スル軍隊ノ外其ノ合意ヲ以テ更ニ軍隊ヲ派遣シ內國官憲ヲ援助スルヲ必要ト認メタルトキハ兩帝國政府ハ其ノ軍隊間ニ總テノ衝突ヲ豫防スル爲メ兩國政府ノ軍隊ノ間ニ全ク占領セサル空地ヲ存スル樣各軍隊ノ用兵地域ヲ確定スヘシ
第二條 朝鮮國ニ於テ本議定書ノ公開條款第二條ニ揭クル內國人ノ軍隊ヲ組織スルニ至ル迄ハ朝鮮國ニ於テ日露兩國同數ノ軍隊ヲ置クコトノ權利ニ關シ小村氏ト「ル、コンセイヱー、デター、アクチユヱル、ド、ウエバー」氏ノ記名シタル假取極ハ其ノ效力ヲ有スヘシ朝鮮國大君主ノ護身上ニ關シ現ニ存在スル狀態モ亦特ニ此ノ任務ヲ有スル內國人ヲ以テ組織セル一隊創設セラルヽ迄ハ均シク之ヲ繼續スヘシ
千八百九十六年六月九日・五月廿八日{日付は原文では横に並べて記しているものを右から表記した}「モスクワ」府ニ於テ之ヲ書ス
山縣 手署
ロバノフ 手署
「舊條約彙纂第 一卷第二部」外務省編より
〇「日露間朝鮮問題に関する議定書」(西・ローゼン協定)1898年(明治31)4月25日調印、5月10日官報彙報欄揭載
(譯文)
日本國皇帝陛下ノ外務大臣西男爵及全露西亞國皇帝陛下ノ「コンセイヱー、デター、アクチユヱル」侍從特命全權公使「ローゼン」男爵ハ之カ爲メ各相當ノ委任ヲ受ケ千八百九十六年(六月九日、五月二十八日)「モスクワ」ニ於テ陸軍大將山縣侯爵ト「スクレテール、プター、プランス、ロバノフ」トノ間ニ調印セラレタル議定書第四條ニ準據シ左ノ條款ヲ協定セリ
第一條 日露兩帝國政府ハ韓國ノ主權及完全ナル獨立ヲ確認シ且ツ互ニ同國ノ內政上ニハ總テ直接ノ干涉ヲ爲サルヽコトヲ約定ス
第二條 將來ニ於テ誤解ヲ來スノ虞ヲ避ケンカ爲メ日露兩帝國政府ハ韓國カ日本國若ハ露國ニ對シ勸言及助力ヲ求ムルトキハ練兵敎官若ハ財務顧問官ノ任命ニ就テハ先ツ相互ニ其協商ヲ遂ケタル上ニアラサレハ何等ノ處置ヲ爲サヽルコトヲ約定ス
第三條 露西亞帝國政府ハ韓國ニ於ケル日本ノ商業及工業ニ關スル企業ノ大ニ發達セルコト及同國居留日本國臣民ノ多數ナルコトヲ認ムルヲ以テ日韓兩國間ニ於ケル商業上及工業上ノ關係發達ヲ妨碍セサルヘシ
千八百九十八年四月二十五日東京ニ於テ本書二通ヲ作ル
西(印)
ローゼン(印)
「舊條約彙纂第 一卷第二部」外務省編より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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