今日は、江戸時代末期の1866年(慶応2)に、江戸幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃により、第二次長州征討が開戦された日ですが、新暦では7月18日となります。
第二次長州征討(だいにじちょうしゅうせいとう)は、江戸幕府と長州藩との間で起きた戦いで、幕長戦争、長州戦争とも呼ばれ、長州藩では4ヶ所の国境で戦いが行なわれたことから、四境戦争(しきょうせんそう)とも呼ばれてきました。
1864年(元治元)の第一次長州征討は戦わずして休戦となりましたが、その後、長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって再び掌握されることとなります。そこで、1866年(慶応2)閏5月16日に、江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かいますが、薩長連合のため薩摩藩は出兵を拒否しました。
10万石削封ほかを内容とする長州藩の処分を打ち出したものの、長州藩は応ぜず、諸隊は戦闘態勢を整えます。6月7日に幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃によって開戦されましたが、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦、幕府軍は各地で敗れました。
折悪しく、7月20日に征討途上の第14代将軍徳川家茂が大坂城で病没したので、それを名目として兵を引くこととなり、長州藩の勝利となります。この戦いで幕府の権威の失墜を国内外に示すこととなり、討幕運動を加速させ、1867年(慶応3)の大政奉還へと至りました。
〇第二次長州征討関係略年表(日付は旧暦です)
<1866年(慶応2)>
・1月22日 江戸幕府は長州処分の最終案を奏上、勅許が下される
・1月26日 小笠原長行が長州へ幕命を伝えるため広島に下ることが決まる
・2月7日 小笠原長行を含む幕府の高官たちが広島へ到着する
・2月22日 小笠原長行は広島藩を通じて三支藩藩主、吉川経幹と宍戸備前助、毛利筑前に召喚命令を出したが病として拒絶される
・2月24日 芸州先鋒の彦根藩から安芸国と国境を分かつ岩国藩へ使者が送られる
・3月26日 小笠原長行は広島藩を通じて4月15日までに藩主父子と孫の興丸、三支藩藩主、吉川経幹、二家老が出頭するように命令を出す
・4月4日(または5日) 長州藩の諸隊の1つ第二奇兵隊で暴発事件が起きる
・4月14日 大久保利通は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出する
・5月1日 国泰寺において小笠原長行は四家名の名代に対して幕命を伝える
・5月3日 幕府は四家名の名代に対しては速やかに帰国して主人へ伝え、20日までに請書を出すように命令が下される
・5月8日 宍戸と小田村素太郎はに拘束され広島藩に預けられる
・閏5月16日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かう
・6月2日 広島の小笠原長行は小倉へ向かう
・6月3日 徳川茂承が広島へ向かう
・6月7日 幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃が始まる
・6月13日 芸州口・小瀬川口で戦闘が開始される
・6月16日 石州口で戦闘が開始される
・6月17日 小倉口で戦闘が開始される
・6月18日 長州勢により、浜田城が陥落する
・7月2日 長州勢による大里上陸が行われる
・7月27日 赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川氏(元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する
・8月1日 小倉藩は小倉城に火を放って香春に退却する
・7月20日 第14代将軍・家茂が大坂城で病没する
・9月2日 宮島会談で、東部方面の停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息する
・10月 長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、小倉藩の防衛拠点の多くが陥落する
<1867年(慶応3)>
・1月 長州・小倉両藩の和約が成立、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の預りとされる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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